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2009年08月25日

岡崎乾二郎 清志郎を語る!

現代美術講座「詩は絵の如く、絵は詩の如く 言葉と絵画~芸術の時間と空間[芸術をわかるとは何か]」が、23日沖縄県立博物館・美術館講堂で行われた。造形作家、批評家の岡崎乾二郎は夫人で詩人のぱく きょんみによる詩の朗読を交えながら、独特の語りを展開した。以下にその概要を記す(興奮して長いです)。と書きつつも、とてもでないが、岡崎氏の伝えたかったことを遍く聴き取り書き記すことは、私の手に余る。圧倒的に伝えられないことの方が多いだろう。それはひとえに私の責任に帰す。

岡崎乾二郎 清志郎を語る!

レッシングは『ラオコオン』で視覚芸術(空間芸術)と言語芸術(時間芸術)を分けました。しかし両者の目的は同じだともいいました。その目的とは、表現を通して把握されるべきもの、つまり「場面」をつくることにあります。場面とは、そこで行われている行為を示すこと。場面には始まりと終りがある。完結している。完結しているが故に繰り返す。

岡崎乾二郎 清志郎を語る!
ラオコオン像

T・S・エリオットはいいました。時間には始まりと終りがある、しかし、始まりの前、もしくは終わりの後には時間がない、と。いいかえれば、作品の中に時間はあるが、作品の外に時間はないのです。

エリック・サティのジムノペディ、イングランドのモリスダンスで分かることは、時間芸術と空間芸術が組み合わさっていること。そこでは場面をつくり、一連の動作のパターンを繰り返す。



ピーター・ポール&マリー『レモン・ツリー』はスタンザ形式をとっています。奇数行では時間の経緯が(恋愛はレモンの木のようだ、のめりこむなという父親の忠告~恋人とレモンの木の下で愛し合う~恋人に振られる)、偶数行は現在形で書かれ(レモンの木ってすてき)繰り返されます。まるで静物画のように。

さらにセザンヌ、60年代ポップアート、ウェルギリウス、プロペルティウス、マチス、マザー・グース、『ロンドン橋落ちた』、ウィトゲンシュタインなどへの言及で前半終了。


ルネ・マグリットはビートルズに影響を与えました。マグリット『リスニングルーム』との関連でいえば、レコードとはリンゴが神の声を聴いて受胎し、子を育て上げることに似ています。妊娠する=conceive=コンセプト、考えることは妊娠すること。『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』はコンセプト・アルバムです。コンセプト・アルバムとは、アルバム自体をひとつのフィクションとして作ること。サージェント・ペパーズという虚構のバンドをレコードの中に「妊娠」するということになります。

岡崎乾二郎 清志郎を語る!
ルネ・マグリット リスニング・ルーム

前半で話したことは、場面ごとに始まりと終わりをもつということ。場面というのはその中で繰り返され、完結しています。それが作品を作るときのひとつの単位となります。それは美術も音楽も演劇も共通しています。コンセプト・アルバムも場面を作るという意味で共通しています。

ジョン・レノンの『イマジン』を今年亡くなった忌野清志郎がRCサクセションとしてカバーしています(You Tube映像はソロになってからのもの)。



なぜこれを紹介したかというと、忌野清志郎の翻訳が良いと思った、感動したからです。まずオリジナルの詞をみると、構造的に不思議なところがあります。imagineとdreamという言葉が違う意味で使われています。

忌野清志郎の訳では、〈Imagine there's no Heaven〉のImagineを省いて〈天国はない ただ空があるだけ〉としていますが、このほうが元の詞の特徴が良く出ています。ところが〈ただ空があるだけ〉という、誰もが認めなければならない当たり前の事実を〈夢かも知れない〉といっています。これがジョン・レノンの詞で一番面白いところであり、そこに忌野清志郎が気づいたことだけでもすごい。〈天国はない〉と考えるのは簡単です。そのような自明のこと、あるいは〈ただ空があるだけ〉の後に〈夢かもしれない〉といわれる。それを忌野清志郎は単刀直入に〈天国はない ただ空があるだけ〉〈夢かも知れない〉としました。

さらに、忌野清志郎は原曲にはないフレーズを最後に加えています。これはファンの間では謎になっています。〈僕らは薄着で笑っちゃう ああ 笑っちゃう〉。なぜこれをつけ加えたのか。今日はできませんが、他の学校などではワークショップとして、薄着で笑っている子供たちの絵を描いてもらいます。薄着で笑っている子供たちの空は、今日の沖縄の空のように太陽が燦々と輝く空になるでしょう。

それは忌野清志郎がいったように〈夢かも知れない〉。空があるといっても、「そんなことをいっているのはお前だけだ、空なんかないよ」という人もいるかもしれないという状況で、しかし身体的には、子供たちは正直に、文字通り空があるのと同じように薄着で笑っている。ここのイメージの重ね方を強調しておきます。

ジョン・レノンの詞も含めて問題は、本来天国の方がイマジンする想像的な産物で、〈空がある〉〈地球がある〉は現実的な産物なのに、それをひっくり返しているところです。天国があることではなく、天国がないということを想像しなさいといっている。そして〈空がある〉ことが夢かもしれないといっています。それがこの詞のメッセージです。

逆にいえば、〈国境〉であるとか、〈財産(possessions)〉があるから戦争をするわけです。〈財産〉がないことを想像しなさいということ。かなりギリギリの抵抗をしています。反戦歌としてはかなり厳しい内容です。実はルネ・マグリットの影響がなければこのような詞は生まれなかったのですが。

ビートルズのアップル・レコードとしては最初のコンセプト・アルバムである『マジカル・ミステリー・ツアー』から2曲紹介します。『愛こそ全て』という、一見愛を賛美する歌と思われている曲です。



この詞の内容は、自分たちでできると思っていることは、あらかじめ決められたことしかできないよという、かなり絶望的な歌なんですね。〈あなたができないことで できることはなにもない〉と、かなり反語的です。何一つ新しいことはできない、全てが決まっている世界にいる。そこに必要なのは愛だという、ギリギリであきらめに近い内容です。世界は閉じている、フィクションであるともとれます。

『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』というのは、ジョン・レノンが育ったところの近くにあった孤児院の名前です。ジョン・レノンは親元ではなく叔母さん?に育てられました。(ぱく きょんみさん解説)



マザーグースの影響がみられます。他にも『ノーホエア・マン』など一連の作品が『イマジン』に収斂していきます。

岡崎乾二郎 清志郎を語る!

これは同時時代のマグリットの作品『呪い』です。

つまり、〈空がある〉のように最も当たり前のことを疑うということは、「場面」を作るということとつながります。場面を作るということは、嘘か本当か分からない、別の非現実的な空間を作るということ。ジョン・レノンがいっているのは、一番当たり前だと思っていることが実はunrealであるということ、外側がない世界ということ。

これと似たようなことをウィトゲンシュタインが『倫理学講話』でいっています。普通の価値判断というのは、例えば「良いテニスプレイヤー」とは、球をぜんぶ打ち返す人のことであり、「良い自動車」であればスピードが出て事故もなく走る車のことです。良い / 悪いの判断は、目的に従っていうことにありますが、倫理的な判断はそれとは違う。そのような判断基準、比較するものがない。「世界の存在に驚く。青い空にはあることに驚く」。ジョン・レノンとまったく同じことをいっています。

岡崎乾二郎 清志郎を語る!

岡崎乾二郎 清志郎を語る! 岡崎乾二郎 清志郎を語る!

ウィトゲンシュタインと同じように、マチスの『金魚』は、水があることは素晴らしいといっているわけです。自分は水の中で生きるしかないので、それ以外が比較不可能なのです。しかしそれを金魚がいうのはナンセンスだと思われている。それをいえるのは我々人間である。なぜなら我々は金魚鉢の外から見ているから。

ウィトゲンシュタインがいっていることを整理します。一つの世界しかないときに、例えば「ここに道路があるのは素晴らしい」などといちいちいわない。それは比較ができない。「今ただ、呼吸をすることは素晴らしい」ということは、世界をただ追認しているだけです。

ここでウィトゲンシュタインが仄めかしていることは、それがもし成り立つとしたら、その見たこともない外の世界を前提にしなければ本当はいえないということです。しかし前提にできない。倫理学というのは、この世界のありえない外側を考えることに他ならないということです。最も当たり前なことを〈夢かもしれない〉ということは、その夢の外の世界を考えるということです。


最後の質疑応答で会場の翁長館長から、「60年代半ばの音楽状況について詳しく話して欲しい」という声が上ったことに対して、岡崎氏は概ね以下のように応えた。

ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ヤードバーズなど名前を挙げたらキリがないが、彼らは基本的な志として美術学校に通っていたりして、商業的な音楽(レコード)に影響を受けたというよりは、アメリカ大陸で抑圧され差別された黒人ブルースに影響を受けた。それでデビューするとスターになり、人前に自分たちの素顔を晒すこと、つまり自分たちが商品になっていることに気づいた。

そのときに彼らがとった態度は、たんに商品的な枠組に反対するのではなく、それを逆手にとった。それがアップル・レコードであり、コンセプト・アルバムであった。自分たちとは別のストーリーのレコードを作ることによって、世界を作り変えた。それは元をたどれば、1950年代のリチャード・ハミルトンやマルセル・デュシャンらがやったこと。一言でいうと、逆手に利用するということ。パッケージに書かれている内容と中身は別だということ(マルグリット『これはパイプではない』など)。

詩を書く、絵を描くなどは、詩を書くならスタンザなどの形式があるように、閉じた枠を作ることだが、それはその中に好きな世界を作るということではない。そこで一番おもしろいことが起こるのは、枠の外に書いてあることと中身をすり替える、ずらすことができるということだ。文章であればそれは語尾に現される。「~た。」で終るのか「~だそうな。」で終わるのかによって、中身(商品)の扱い方が変わってくる。

ロック、ブルース、ソウルなどジャンルがあるが、ロックはなんでもありのジャンルといえる。唯一ロックをカテゴライズすれば、それはレコードとしてパッケージされて売られるということだ。

その活動としては、レコードかライブか、つまり商品かアクティビストとしてグラスルーツ的に活動することかの二者のみしかないように思える。しかしそうではなく、「批判」するということは、その二重性を引きうけて、自分たちで外側と内側を比較して批判すること。忌野清志郎がタイマーズという覆面バンドをやったりするのは、名前と実体のズレそれ自体を表現しているのだ。

******

それにしても岡崎の話は相変わらずだ。その教養という情報量の多さ、思考=試行の自由さについていけないことしばしばなのであるが、同時にこちらの想像力を前触れなく刺激するという不意打ちを何度も受けるため、最後まで聴いてしまう。「全ては理解できなかったけど、後々ためになるようなフレーズが聴けた」とは同席したじゅげむさんの感想だが、とてもよく頷ける。

後半ウィトゲンシュタインの話に続けてマチスの金魚の絵から、金魚鉢の内側と外側で世界が違うという話があり、とてもおもしろかったのだが、あいにく絵がネットで探し出せなかったので省いた。

岡崎さんがまさか清志郎を語るとはなにより嬉しい驚きだった。そしてその解説は刺激的であった。

ここで触れられた、イマジン日本語訳の最後に追加されたフレーズ〈僕らは薄着で笑っちゃう ああ 笑っちゃう〉について一言述べたい。このフレーズは、たんに新しく追加されたのではなく、『窓の外は雪』という別の曲からの転用である(むろん岡崎さんは知っていながらマニアックな詳細を省いたのだろう)。『窓の外は雪』を清志郎が作ったのは恐らく初期の頃であるが、レコーディング(商品化)されたのはRCサクセションのシングル版『つ・き・あ・い・た・い』(1982年12月リリース)のB面としてであった。



〈あーあ とうとう裸にされちゃったなんて 言いながら〉という、若き日の清志郎でなければおよそ書くことのできないフレーズから始まるこの隠れた名曲(というか個人的に大好きなのであまり大っぴらにしたくないのだが)の内容はといえば、若い男の子と女の子が一夜をともにし、朝起きると窓の外は雪だった、寒いけど抱きしめあえば問題ないさ、というようなこと。最後にリフレイン&フェイドアウトというアレンジは『イマジン』と同じだ。

両者の共通点は他にもある。それはこのフレーズがいかにも唐突だということにつきる。前の文脈から整合性がない。〈僕らは薄着で笑っちゃう〉ってなんのこと?と耳を疑う。もっとも『窓の外は雪』では、紹介したように冒頭に〈裸にされちゃった〉というフレーズもあり、一夜を共にした二人は裸もしくはそれに近い状態、つまり薄着のままであり、だから寒いけど抱きしめあう必要があるのだと推論することは可能だ。ということは〈ぼくら〉とは〈ぼく」と〈あの娘〉を指す。

ここで岡崎の解説に戻る。岡崎は学校のワークショップで、薄着で笑っている子供たちの絵を描いてもらっているという興味深いエピソードを漏らしている。岡崎はここで〈ぼくら〉を子供たちと解釈もしくは類推している。しかしながら『イマジン』のその前の文脈に子供たちは出てこない。『窓の外は雪』にも出てこない。にもかかわらず、なぜ〈ぼくら〉は子供たちである必要があるのか。

岡崎の話を復習しよう。『レモン・ツリー』のスタンザ形式を当て嵌めてみる。〈ぼく〉と〈あの娘〉が〈とうとう裸にされちゃった〉といいながら起き上がり朝を向え、寒いから〈ぼく〉は〈あの娘〉を抱きしめる。窓の外は雪が降っている。因果関係によって時間が経過している。それに対し〈僕らは薄着で笑っちゃう〉は〈レモンの木ってすてき・・・〉に相当し、現在形で書かれ静物画のような働きをしている。つまり〈僕らは薄着で笑っちゃう〉は、形式的にそれ以外の部分と切り離されている。だから前後の文脈に辻褄が合わなくても問題はない。

さらにいえば、〈僕らは薄着で笑っちゃう〉は清志郎によってマグリットの『リスニングルーム』で受胎させられたアップルであり、コンセプトであり、作品の外に作られたもう一つの非現実的な空間であり、「場面」であり、ウィトゲンシュタインがいう倫理的判断である。「現実」に対してシビアに歌ったジョン・レノンの『イマジン』を翻訳=解釈する時に、それが追加されることは極めて自然なことではないか。

シビアで非現実的な空間をギリギリまで作りあげたときに、その「現実」の暗い世界で防御的に厚着を身に纏った大人と対極にある、太陽輝くもと、生命力に溢れ薄着で笑っている子供たちが補完するようにイメージされ、重ね合わされる。これこそ、清志郎がジョン・レノンの『イマジン』を秀でて批評し得たことの何よりの証しであろう。

忌野清志郎がRCサクセション時代に作った『イマジン』を再度ステージで取り上げるようになったのと時を同じくして、さらにジョン・レノンのメッセージ「愛と平和」を飽きもせず繰り返し発声したことは、オーディエンスからは恐らくやや時代錯誤として捉えられていたに違いない。しかし、我々はそれが自身の置かれたポジションの二重性を引きうけて、外側と内側を比較して批判する彼一流の、そして捨て身の、あきらめギリギリの批評精神であったことを今や知っている。死の直後に弔いの報道で常用された「反骨精神」などというパッケージも、そこで批判されていることはいうまでもない。



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この記事へのコメント
書いたなあ(笑)

>その目的とは、表現を通して把握されるべきもの、つまり「場面」をつくることにあります。

岡崎さんも『ルネサンス経験の条件』以来一貫しているなあ。

けど、岡崎さんが、ブルースや清志郎について熱く語るとは思っても見なかったなあ。
Posted by tyoshinaga at 2009年08月25日 02:45
そうそう、県立美術館・博物館講堂でキヨシローの映像が流されるとは鳥肌モノ。

ぱく きょんみさんも素敵な方だったなあ。
Posted by 24wacky at 2009年08月25日 10:22
はじめまして、出る杭と申します。
イマジンの”薄着”が意味するのは非武装であるということ。
個人的推測では”笑っちゃう”は大麻吸ってへらへら笑うということではないでしょうか?世界中でドンパチが行われていても、ぼくらは非武装で大麻吸って笑ってる、愛と平和の夢を見てる、ということで、いかにも清志郎らしいヒッピー的な歌詞だなと感心するのはおいらだけでしょうか?
Posted by 出る杭 at 2009年10月05日 13:22
>出る杭さん

はじめまして、コメントありがとうございます。
一義的な象徴表現としては、ご指摘のようなイメージがいかにも喚起されますよね。その意味では同感です。
私がこの部分に「なんか凄い」ものを感じるのは、恐らくそれ以上の何かを喚起させずにはおかないからです。それは何かと問われても即答できませんが・・・
Posted by 24wacky at 2009年10月05日 21:27
 
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