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2017年01月05日

『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也

『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也

 本書は、ドゥルーズとガタリやデリダといったポスト構造主義の思想家からすでに乗り越えられたとみなされる、哲学者で精神科医のラカンのテキストを読み直す試みとしてある。その核心点は「神経症と精神病の鑑別診断」である。ラカンは、フロイトの鑑別診断論を体系化しながら、神経症ではエディプスコンプレクスが導入されるのに対し、精神病では導入されていないことを明らかにした。

 私の読みといえば、なるほど、ラカンによれば、神経症でないならば精神病であり、精神病でないならば神経症であるわけで、臨床の入り口で両者を区分けする鑑別診断を施すことが不可欠であるという認識に感心する程度である。本書では、時代によってラカンの認識が変化していったこと、ラカンへの批判は主にその前期の認識に対してであり、後期の変化については省みられることが少なかったことが指摘され、70年代のラカンは、神経症と精神病を分けて論じることは少なくなったことも触れられる。その圧倒的な学識を理解するには私などまったくの認識不足でしかないが、それにもかかわらず、本書を常にそばに置き手に取りたいと思わせるのは、精神病理学の現場に立つ著者が、本書を臨床の実践につなげる意志が強いことを感じさせるからだろう。以下、分厚い本書の気になる「知」の数々のうち、一点だけメモをしておく。

 それは「第四章 エディプスコンプレクスの構造論化(一九五六〜一九五八)」で論じられる「欲望の弁証法」という議論である。

 「欲望の弁証法」を論じるには、その前に「フリュストラシオン」という言葉について触れなければならない。それは同時代にラカンに対し批判的だったイギリスの精神分析家のメラニー・クラインが立てた論文に端を発する。すなわち、生後三〜四ヶ月の空想的な幼児の主な関心は母親の乳房に向けられる。クラインはこの乳房を「部分対象」と呼び、後に母親をひとつの「全体対象」として捉えることができるようになる時期と区別した上で、前者は後者に統合されると説く。

 これに対し、ラカンは持論である象徴界・想像界・現実界という枠組みを用い、クラインの議論を再解釈する。ラカンによれば、子供は、現実的な対象(部分対象)である乳房と、象徴的な対象(全体対象)である母という二つの対象と同時に関係をもっている。このような乳房と母をめぐる状況を「フリュストラシオン frustration」と名付ける。それはこういうことだ。この乳房が得られない場合、子供はそれを「想像的損失」として捉える。さらに子供は、自分の前に現前したり不在になったりする母を「象徴的母」として捉える。現実的な乳房と象徴的な母は、それぞれが異なる次元にあるだけでなく、それぞれが異なる機能を果たしている。現実的な乳房は子供の欲求を満たすのに対して、象徴的な母の現前は母が子供を愛していることの証しとして機能している、と。

 さて、ここからが重要である。フリュストラシオンにおける現実的対象(乳房)と象徴的対象(母)は、それぞれ異なる水準にある。この二つの水準のズレ=裂け目は、人間の欲望を構成する原理でもある、すなわち「欲望の弁証法」ということが。

 まずはじめに、欲求と要求と欲望は異なる。

 欲求は、生存や自己維持のために必要とされる。子供が現実的な乳房に対してもつ最初の関係がそれである。しかし、どんな欲求も語ることによってしか表現することができない。ママのおっぱいが欲しければ「おっぱい欲しい」と、自分の前に現前するように呼びかけなければならない。

 このように、人間が語ること、つまり欲求がシニフィアンの形式を取らされた結果として出てくるのが、要求である。この要求は、象徴的な母の現前を呼びかけることであるとともに、現実的な乳房を要求する呼びかけでもある。そのため、シニフィアン化された要求は、生物学的欲求を満たそうとする要求(要求1)と、欲求を満たしてくれる特権を持っている母の現前を請う愛の要求(要求2)とに二重化される。フリュストラシオンの二重化と同じ事態とみてよい。

 この二重化はそれぞれが独立化しているのではなく、たえず重なり合っている。それゆえ、ある特定の欲求の満足をねらっている要求(要求1)の特殊性は、母の現前を請う愛の要求(要求2)という無条件なものへと変換されることによって揚棄=消去されてしまう。「特定のこれが欲しい」から「あなたがいれば何でもいい」へと移行する。

しかし、前者の欲求がもっていた特殊性は、後者に変換されることによって揚棄=消去されてしまう。こうして、欲求と要求とのあいだにはひとつのうまくいかなさが生じることになる。つまり、「性的関係における欲求」に関する要求(要求1)と「愛の要求」(要求2)のあいだには、ひとつの裂け目が存在するのである。そして、この裂け目が欲望を生じさせる。ラカンが、「欲望は満足を求める欲〔要求1〕ではなく、愛の要求〔要求2〕でもなく、後者から前者を引き算することに由来する差異、つまりその二者の分割そのものである」と言うのはこの意味においてである。
(179〜180ページ)

 ラカンによれば、欲望は、この二つの要求の支流が合流するところに生まれる。欲望とは、何らかの対象を「絶対にこれでなければダメ」という態度で、かつ「母がこれを要求しようがしまいが関係がない」という態度で求めることである。

 むろん、それは幼児と母親の関係だけで済む話ではないはず。すでに大人になった私にとって思い当たることがあり過ぎるではないか。「性的関係における欲求」に関する要求と「愛の要求」のあいだのひとつの裂け目が。

『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』
著者:松本卓也
発行所:青土社
発行:2015年4月30日


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