てぃーだブログ › 「癒しの島」から「冷やしの島」へ › 今日は一日本を読んで暮らした › 『漱石を書く』島田雅彦著の「猫」について

2017年01月17日

『漱石を書く』島田雅彦著の「猫」について

『漱石を書く』

 年末年始から現在まで坂口安吾について考え、読み漁っている。それに関連して、国民的作家のデビュー作について考えたいことがあり、久方ぶりに本書を紐解く。

 『吾輩は猫である』誕生の以下の経緯は有名である。当時本人認めるところの「神経衰弱にして兼狂人のよしなり」であった漱石を見かね、俳人仲間の高浜虚子が書くことを勧め、俳人の集まりで朗読すると好評を博したため、一回で終わるところが書き足しを重ねた、という。

 島田はその経緯に触れたうえで、漱石が自らの狂気を相対化するために用いた文体、すなわち「写生文」に注目する。写生文とは、漱石の盟友正岡子規と高浜虚子が中心となって提唱した短歌・俳句革新運動を指す。漱石はその客観的な写実の方法を独自にアレンジして、「大人が小児を視るごとき」立場と定義づけた。それによって狂気に陥っている自らをも客観視する余裕が語り手に生まれるということだろう。同作においても、作者自身のパロディとされる主人公珍野苦沙弥はもちろんのこと、周囲の登場人物も「吾輩」という猫の一人称によって写生されまくる。

 注目したいのは、島田が猫の視点を「無責任な精神分析を下す」ようだと述べたうえで、精神分析的手法を用いて写生文を解説しているところである。以下、1993年の発行当時読んだ際に引いた赤線部分を引用する。

『猫」が落語の語りにどこか似ていながら、決定的にそれと異なる点は、語り手の自我の有無である。落語の語り手には自我がない。従って超自我が語りの中に現れることはない。落語の語り手は登場人物たちと一線上に並んでいるのだが、姿は見えない。「吾輩は…」などと語ったりはしない存在だ。
 だが、自分を「吾輩」と呼ぶ猫は登場人物たちと特定の関係の編み目の中にあり、彼らを対象化すると同時に自分も作者によって対象化されている。
(中略)
この「吾輩」や「余」が曲者なのである。作者の自我の影響を受けながら、それとは微妙にずれ、主人公の視点と一致するかと思えば、距離がある。語り手は作者や主人公の分身ではない。作者と主人公のあいだに浮遊する「吾輩」であり、「余」であって、それ自体が独立した主体なのである。そしてこの主体は「猫」のように自由だ。
(31ページ)

 ここで、ある動機から繰り返し読み直している坂口安吾の代表作(とされる)『白痴』と比べてみる。『白痴』では三人称が採用されている。それによって、「その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変わっていやしない。」という魅力的な書き出しから、東京大空襲が襲わんとする場末の路地の猥雑さが描かれ、主人公伊沢の「芸術と生活」という二項対立の職業意識が漏らされ、さらに隣人の「気違い」の主人、「白痴」の女房、「ヒステリイ」の母親の乱痴気騒ぎへと続く。

 しかし、その後の白痴の女との奇妙な共生、そしてクライマックスの空襲へと進む過程において、三人称は伊沢の主観と混同される。伊沢が安吾自身をモデルとするような意匠を施されるのでなおさら紛らわしい。むろん、三人称が登場人物の内面に入り込み語ることは小説作法として技術的に可能であるが、それにはその区画を施すことが必要であり、読者にとっても丁寧である。安吾のそれは実に無頓着であり、文体として破綻しているといえなくもない。安吾の魅力はそこになないという議論はひとまず措く。

 佐々木中によれば、安吾のファルスは自身をも「突き放す」ものであった。それを実行するために、『猫』の写生文のような技法を用いればどうなったか、という夢想に私はかられる。また、ファルスと写生文の共通点と違いはなにかという議論も必要だろう。

 話しを精神分析に戻せば、《写生文に現れる語り手は主人公や登場人物の自我を柔らかく包み込む超自我であるといってもいいだろうか》(35ページ)という島田の提起は重要である。なぜ重要かは後で書くことになるだろう。

『漱石を書く』
著者:島田雅彦
発行:岩波書店
発行年月:1993年12月20日


2016/12/31
佐々木中『戦争と一人の作家 坂口安吾論』
 坂口安吾といえば、「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きてゐるから堕ちるだけだ。」というエッセイ『堕落論』が著名であるように、戦争体験を独特なデカダンスで表現した「無頼派」の作家として有名である。『白痴』『桜の森の満開の下』などが評価が高く、その他にも歴史小説…




同じカテゴリー(今日は一日本を読んで暮らした)の記事
2019年 本ベスト10
2019年 本ベスト10(2019-12-23 21:08)


 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。