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2017年02月12日

「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎

「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎

 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか?

 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされるようになった。かれらには「他者の理解」が欠けているとされ、社会的な排除が進行しつつあることが示唆される。

 経済協力開発機構(OECD)が1997年にスタートさせたプログラムで掲げられる「キー・コンピテンシー」とは、「思慮深さ」(相手の立場に立ち、自らが所属する社会や文化を相対化して自主的な判断を行える能力)を、個人が備えるべき素質として、経済合理性の下で公認させようとしている。本来は社会的な問題に原因がある場合もあるにもかかわらず、自助と自己責任を強いようとする。それを自らの問題として引き受け過ぎてはならない、と著者は述べる。

 ヴィクトール・フランクルの実存分析は当事者研究にも影響を与えた。「どんな条件や状況のもとでもなんらかの仕方で心身的なものから一線を画し、心身的なもにに対して実りある距離に立つことができるという精神の能力を信じること」が重要であるとされる。これに倣えば、当事者研究においても、調子が悪いから医者に薬をもらうのではなく、苦悩を研究対象として自分の中に取り戻していくスタンス(外在化)が重視されることになる。

 しかし、「自己から距離をとること」を強調することで、社会化の論点が見逃されることを著者は危惧する。外在化できない原因を個人の能力や態度の問題にされかねない、と。

 「浦河べてるの家」のミーティングでこぼれる「横の笑い」には、幻覚妄想の渦中にいるときは笑えないが、その経験があるからこそ笑えるという二重性がある。個人個人が体験している「主観的な現実」としての幻覚妄想を、「幻聴さん」などと呼びラベリングすることで、「べてるの家全体にとっての現実」と区別される。《べてるにおいて外在化は、一人で成し遂げられるというよりも、自分と異なる主観的現実を生きる他者の支えによって、はじめて可能になるものだと言える》(12ページ)。つまり、べてるの家の実践においては、自己から距離を置くことが他者の連帯につながり、のみならず、他者との連帯が自己から距離を置くことを可能にする側面もあるといえる、と著者は評価する。

 べてるの家の「横の笑い」は、《専門家や患者といった単一の声(モノフォニー)をもつ人物が主体の座を占めることに反対し、多数的な声(ポリフォニー)が鳴り響く空間へと主体を変容させることを企図する》「水平方向のダイアローグ」(松本卓也)と似ているように私には思える。

2016/11/19
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「強いられる他者の理解」
『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』
著者:熊谷晋一郎
発行所:太田出版
発行年月:2017年2月13日



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