2010年12月16日 22:07
自律的と他律的
サンデル教授「ハーバード 白熱教室」冒頭で提示された二つの道徳原理、すなわち、行為の帰結に道徳性を求め、社会が恩恵を受けることが大事だとする「帰結主義者」の考え方と、仮定・条件を設けず無条件に主張する無条件的な考え方。これを「沖縄問題」に当て嵌めてみる。
前者の場合「最大多数の最大幸福」が適応されるため、日米安保を享受する日本全体の構造において、沖縄は最大不幸であり続ける。それでも「帰結主義者」はいう。「イデオロギーに凝り固まっていても問題は解決しない。現実的な選択が必要だ。理想より実をとれ」と。
では無条件的な考え方は?基地の無条件撤去を訴える態度がそれに近いようだがどうだろうか。それを考える上で、この原理を主張した哲学者カントの考え、その「自由」の概念をみてみる。断っておくがカントのいう自由は理解し易くない(私自身理解できているわけではない)。
カントによれば、自由に行動することは、自律的に行動すること、自分自身で与える法則に従って行動すすること。欲望に影響されたり、原因と結果の法則に従ってはならない。このいかにも厳しそうな道徳によって、カントは義務を強いる禁欲の思想家と揶揄されたが、それは表面的な理解に過ぎない。
これだけでは理解できないだろうから、少し見方を変えてみよう。自律の反対は他律だ。カントによれば、他律とは、自分自身で選んだのではない欲望に従って行動すること。ここがミソだ。一般的には、欲望とは人間に備わった本能であると理解されているわけだから。そこで例え話をしてみよう。おもちゃ遊びをしている幼児が隣の幼児のおもちゃをとりあげ自分のものだと主張することがある。その幼児はそのおもちゃにそれまで特に興味を示していなかったが、隣の幼児がそれを手にして楽しそうに遊んでいるのを目にして、急にそれが欲しくなり取り上げる。
傍から見れば、それは単なるいじわるだが、それは隣の幼児の欲望を自分の欲望だと思い込んでいることを現す。それが他律的の意味だ。ふだん我々が自分で選んだり好んだりしていることの多くは他律的なのだ。
反戦平和の理想から基地の無条件撤去を訴える考えは、果たして自律的だろうか?