姜尚中 あるいは国家と社会

24wacky

2009年11月28日 15:41

昨日は県立博物館美術館講堂で行われたシンポジウム「アジアの中の琉球・沖縄400年」に行ってきた。沖縄では薩摩の琉球侵攻から400年、琉球処分から140年の関連行事として、この1年多くのシンポジウム、集会等が開催され、また新報・タイムスでは、共に通年で大きな特集記事を掲載してきた。

今回のシンポジウムは内容的にそれらと同系列でありながら、以下の点で異なる性格を持っていた。一つは、時の文化人である姜尚中の参加で会場が地味にしかし濃密に華やいだこと、二つ目は、主催が沖縄タイムスとの共催による朝日新聞というメジャーメディアによるものであったこと。この二つの要素は満席に埋められた講堂において、私の想像以上に違った局面を現出した。
姜尚中は基調講演の冒頭でこう切り出した。「私のような者が基調講演などというのは、とても恐れ多い気がします」。会場に詰めかけた聴衆の多くが間違いなくこの時の人をひと目観に来たことは間違いない。あのソフトボイスの楽の音に誘われて来た女性たちの「匂い」で溢れていたことも事実である。それにも関わらず、板についた社交辞令にも点数稼ぎのへりくだりにもおよそ聞こえない、それはごく自然なつぶやきであった。



姜のこの態度はシンポジウム全体に影響を与えたといってよい。どういうことかというと、この後のディスカッションは姜も交えてのものだったが、彼は聴衆の期待以上には目立たなかった。しかし、同時にとても質の高いディスカッションとなった。ディスカッションが質の高いものになったのには別の理由もあるが、それは後で述べる。

基調講演に戻ろう。姜尚中は東アジアの中で沖縄と朝鮮半島の共通性を挙げる。占領の問題を本土のみの問題として捉えてきたこと。地上戦を経験したこと。戦争においてシンクロしていること。分断されたこと。開発主義。そして、絶え間ない運動が続いたこと。その結果、両者は多くのものを得、多くのものを失った。

また、半島と島嶼という言い方で共通した歴史をみることができる。それは地政学的な運命論、つまり冷戦構造の中で、南北が分断されるのは、あるいは米軍基地が占拠し続けるのは仕方ないという考え方だ。この運命論に本土の人間は拘束されている。沖縄の基地の縮小を阻んでいる一つの理由は、朝鮮半島の緊張が続くからともいえる。だからこそ朝鮮半島の脱冷戦化と共に、沖縄の基地縮小がなされるであろう。これからは脱国家化というより国のかたちを変えていく議論をするべきだ。新しい連邦制の韓国、地域的なコリアン・ネットワークに注目している。


後半のパネル・ディスカッションを仕切るのは、朝日新聞論説委員の外岡秀俊。どうせ似非リベラルぶった輩だろうなどと期待していなかったが、その偏見は見事に外れた。沖縄、アジアへの知識も持ちつつ、それでいて無遠慮に土足で踏み込むような真似はせず、自らのスタンスをわきまえる。それぞれのパネリストに順当で問題の核心を突いた話の振り方をする。議論の進行がバランス良く、深く、ダラダラと脇に逸れたままになることもない。議論が議論として成立する。当たり前のことかもしれないが、これこそシンポジウムではないかということを再認識させられた。外岡は最後に質疑応答の時間がとれなかったことを詫びていたが、それを非難する者は会場にいなかっただろう。質疑応答は常に割を食い、消化不良で終わるというのがシンポジウムの常であるが、ディスカッションが充実していると、そんな不満は生まれない。

法政大学教授の鈴木佑司は「琉球」と「沖縄」、「国家」と「社会」というキーワードを並置させて問題提起した。国家という概念はそもそも1648年に始まるヨーロッパに固有のもので、東南アジアにそのようなモデルはなかった。もともとないものを真似た東南アジアには様々な無理が生じた。


鈴木佑司 左

国家と社会という矛盾が生じている。領土を囲うナショナリズムより門戸を開く社会を志向する方向へ向う。これからは社会に合った国家を造るとき。そのような社会となったとき、「琉球」と「沖縄」ではどちらがふさわしいだろうか。「沖縄」は国家になろうとしたのではなく、国家にならされた(させられた)言葉である。

これに対し姜は、「沖縄を考えるということは、国家など大きなレベルで物事を考えることになるのだと改めて気づかされた。沖縄がこれからどうなるかということは、東アジアがどうなるかということを意味する」と述べた。

外岡によれば、このシンポジウムを開催したのは以下の理由による。歴史を見れば、アジアで大きな変化が起こるとき、真っ先に影響を被るのが琉球・沖縄であったことが分かる。アメリカから中国へと覇権が多極化しようとしている今、そのことを考えてみたい。

琉球大学教授で歴史学専門の豊見山和行は、歴史学者による琉球「侵攻」の変遷を概説する。仲原善忠による「進入」、オブラートに包んだ「入り」、あるいは「出兵」。だが侵攻(侵略)=invasionであることに変わりはない。伊波普猷の日琉同祖論は批判されるべき点があるが、同時に、マイノリティがマジョリティに組み込まれようとするときの戦略として、琉球民族のユニークネスを強調しようとした。



豊見山は鈴木の提起を受けて、「琉球国家は滅んだが、琉球社会は残った。国家を主語とした歴史認識から、社会、あるいは民衆を主語とした歴史認識に目をむける必要がある」と語った。

仲里効は、琉球侵攻から400年、琉球処分から140年を問う議論が盛り上がったことは、市民レベルでは初めてのことだと意義を強調した上で、「なぜ今侵略を議論するのかと突き詰めると、現在から歴史を問い返していく意識があり、現在まで未解決の歴史認識として貫かれているからだ」と論じた。



議論は改めて国家と社会について深められた。姜尚中は「ナショナルなものの上位概念が強くなる一方で、国の箍(たが)が弱くなっていく」と述べ、地域統合が強まる可能性を示唆し、県道府を解体したほうが良いとラディカルに挑発した。同時に、「なだらかに包み込んでいくような」沖縄を越えたネットワークを構築していくことを提起した。

さらに議論は現在のアクチュアルな問題である普天間「代替」施設問題へと向った。仲里は「地政学的な宿命論は、沖縄タイムス記者屋良朝博著『砂上の同盟』で完璧に粉砕されている」と指摘、それにもかかわらず克服されていないようにみえるのは、沖縄内部の分断(工作も含めてということか)があるからであり、これには絶えず意義を申し立てる必要があるとした。

『砂上の同盟』

仲里はその上で、沖縄内部の運動のあり方をもう一度考えるべきだとし、「国防・軍事は国の専管事項といって切り離すのではなく、政治的な構成力で沖縄から組み直していくべきだ」と持論を展開する。県民大会での二つの発言には、新しい言葉の発明として注目したという。その一つは宜野湾市の女性の発言「沖縄のことは沖縄で決めていきたい」、もう一つは喜納昌吉の「自己決定権を考えねばならないときに来ている」。

県民大会の後のダグラス・ラミス講演会


繰り返すが、これぞシンポジウムという内容であった。琉球・沖縄という歴史認識、それが過去のみのものではなく未解決なものとして認識されることで繋がる普天間「移設」問題という現在、それらを国家と社会という抽象度の高いレベルの議論で貫通させる。パネリストのそれぞれの顔触れを見ても、終わってみれば的確な人選であることは歴然としていた。

その中でも興味深かったのは、鈴木佑司と仲里効の議論にみられた差異であった。国家の問題を沖縄から「内破」する、そこから東アジアへと指向するスタンスの仲里に対し、アジアの政治学に精通する鈴木は、「内破」しようとするときに、外部から簒奪の手が迫ってくることを危惧した。この箇所はメモをとるのが不十分で詳説できないことが残念であると共にお詫びしておく。

最後の一言で鈴木は仲里を評し、「ドイツ人かと思った。仲里のように一点突破するインテリが本土には少なくなった」とエールを送り、仲里も「これからも色々と教えてほしい」と素直に応じた。

およそこれまでのシンポジウムには二種類に分かれてきた。一つは、ほぼウチナー・プロパーが仮の前提による熱い、混沌とした、それ故結果の出難い議論。二つ目はヤマトゥが参加(介入)したときの、無知・無理解に基づく軋轢、ハレーションが生じたままの議論(の擦れ違い)。それに対し、鈴木と仲里の差異は、未だ見ぬ出逢いの一歩であるかもしれない。


最後にベストセラー『悩む力』の著者について個人的な学生時代の思い出話を添える。大学の一般教養課程というのは押しなべて退屈なものであるというのは、経験した人であれば、だいたい同意してもらえるのではないか。今はどうだか知らないが、当時は前半二年間がその退屈な講義の数々で、履修登録が埋め尽くされた。実際、一般教養課程を担当する教員たちはなめている、と当時の私には思えたし、事実そうだったと今でも確信している。

二年生が終わる頃、そんな退屈な大学生活に私は心底絶望していた。当時の私は、アルバイトと奨学金(卒業後返済する)で学費を賄っていたため、「いったい何のためにこんな難儀をしているのだ?」と、退屈な学びの場に怒りが湧いてきた。

だがしかし、三年になれば専門課程(英文科)が中心となるではないか、取り損ねたわずかな一般教養の単位を除けば。専門課程を受けてみて、これも同じく退屈なものであれば、その時こそオサラバしよう。そのように決めた。

幸いにして、英文科の専門課程は、全てではないにしても、魅力的な講義が多かった。三年次、四年次で専攻したゼミの作家たちは、その後の私に少なからず影響を与えるまでの存在であった(それが良いことか良くないことか定かではないが)。結局四年間で無事、大学を卒業することができた。

ところで三年次に受講したわずかな一般教養の残りには、「社会思想」という講義があった。ドイツの社会学者であるマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を一年通して読むという。「プロ倫」などという言葉さえ知らなかった当時の私にしてみれば、進んで取った講義ではまったくなかった。なにしろ上下巻に分かれた岩波文庫の頁をめくれば、抽象的な言葉の羅列に数分で頭が痛くなること畢竟であった。要するに、履修登録の空いた隙間を消極的に埋める、退屈な一般教養講義の、最後に我慢すべき選択であったというのが正直なところだ。

ところがどっこい、この講義が稀に見る面白さだった。その知的なムードのやや若い担当教員は、実直に、ソフトに、丹念に、過去の、西欧の社会学を、「今」のアクチュアルな問題に引き寄せつつ、一語一語、伝え、説いた。彼の語りの魅力というか、そう、自分に合っていたのだともいえる。

初日の講義だったか、彼は黒板に円を描いてみせた。世界を認識するときに、その円の中に入って見るやり方と、円の外から見るやり方がある。前者の手法をとったのががウェーバーであり、後者がマルクスであると。

この講義は毎回欠かさず、貪るように出席した。大学生活を送る意義をかみ締めながら。最後の論述形式のテストもなにやら自信があったが、何を書いたのか今となっては覚えていない。とにかく大学時代の私にとって、唯一意義のある一般教養課程であり、唯一一般教養課程でAを取得できた講義であった。

卒業後数年が経ち、その教員と思わぬ再会をする。ブラウン管の向こうの「朝まで生テレビ」という討論番組のパネリストの一人として。でかい声を持つ論者が常に優先される議論の中で、彼のソフトな、スローな語り口は異彩を放っていた。場違いな印象を見るものに与えた。しかし、彼はその語り口を通すしか術が無かったのだろう。司会者も、徐々に認めざるを得なくなった。彼が語りだすと、「いわば」時間が変わるのだから。

彼の自叙伝的『在日』に、私が受講した頃のエピソードが綴られている。若き研究者として将来の目処が立ったわけではない状況でパートナーと結婚し、不安と幸せがない交ぜになりつつ、しかししっかりと理想に燃えながら教鞭に立っていたというそのビルドゥングス・ロマンを読み、私は自分の青春時代が彼の青春時代でもあったのだなあと独り嬉しさを噛みしめたりする。 24 years past...



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