「シマコトバでカチャーシー」について その1

24wacky

2015年07月05日 17:48

崎山多美講演会「シマコトバでカチャーシー」をわたしはどう受けとめたか。

前記事のコメント欄にも書き加えたが、崎山さんは「シマコトバ」による朗読を試みているが、わたしはその部分を省略した。その意味について改めて書いてみる。

わたしの言い訳としては、その部分を「伝える」としたら一部分のみではじゅうぶんではなく、省略せずにすべて「再現」したほうがよい。でもそうすると記事全体のバランスが損なわれるというものだ。

だがこれはたかだか体裁の問題で言い訳に過ぎない。この部分を「再現」することなどできないということの。そしてそのことに孕むものこそが問題なのである。

「再現」できない理由の一つは、それを通して崎山さんが(この場では)音声として伝えようとしているから、文字ではできないということ。むろんテキストは文字である。その一つは崎山さんの作品である。はじめにテキストとしてあるのだから文字表現をしていることはいうまでもない。ここに崎山文学の「闘争」があることも言わずもがなであるし、エクリチュールとパロールという思想的問題もそこにはある。だが、わたしが「この場では」というのは、東京での講演会において崎山さんがそのパフォーマンスにおいて音声を優先した(せざるをえなかった・することに賭けた)という姿勢を受けとめる意味でそうする。

「再現」できないもう一つの理由は、民族としての言語の問題にかかわる。崎山さんにとって日本語が「身体にこなれていかない」ように、ヤマトゥとしてのわたしにも「シマコトバ」はこなれていかない。こなれていない、受けとめることができていないものを「再現」することなどできるわけがない。にもかかわらずそうすることは、「交流するためにわかったふりをしないこと」という警句に背くことになるはずだ。

そしてここからが重要だが、「再現」できないことが「現す」のはなにかということである。それこそウチナー対ヤマトゥの非対称性に他ならない。端的にいえば、「あなたとわたしは違う」ということになる。「シマコトバ」を使ってそこで語られている情報を理解することはヒアリングの技量で解決できる。だが一つの言葉が「身体にこなれていかない」とは、そのような意味ではない。歴史や文化や風土によって培われた体験がそうさせるのであれば。

耳慣れない音読を聞かされた会場の若い日本文学研究者たちは、おそらく居心地の悪い思いをしたことだろう。彼ら/彼女らにとって自明の日本近代文学という制度を揺るがされたのだから。そう感じないとしたら、その者はよほどの鈍感な感性の持ち主である。

講演全般を通し、崎山さんは「日本語」で現在の沖縄の「息苦しさ」を批判し、ウチナーとヤマトゥが交流することを志向する態度を示した。これは沖縄に対して後ろめたい「日本人」にとって耳障りのいい話でもある。しかしながら、そこで同時になされる「シマコトバ」によるパフォーマンスによって、崎山さんは交流することの困難さを問うている。露呈させている。

崎山さんがふと身体を揺らがせ舞ったカチャーシーの甘美さと切なさに、わたしは思わず近づきハグされたい衝動にかられた。いつの日かそうなるために、わたしは「日本人」としての我が身体を知ることから始めよう。

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