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2015年07月04日

崎山多美講演会「シマコトバでカチャーシー」

7月⒋日立教大学池袋キャンパスにて立教大学日本文学会大会が開催され、崎山多美さんが「シマコトバでカチャーシー」という題で講演した。以下、その論旨を紹介する(文責は私個人にある)。

「シマコトバ」
「シマコトバ」は実際には「シマクトゥバ」と発音する、最近になって新しく流布されるようになった言葉です。ヤマトゥグチ(日本語)に対するウチナーグチの言い換えといえます。この言葉が現在沖縄では権威を伴って使われています。(米軍基地が押しつけられているなどの政治的状況があるなかで)抵抗の意思で感情を高揚させようとするため、かつて標準語を押しつけられたが、これが元々あったシマの言葉であるという意味で。「独立」というイデオロギーも含まれています。これは一見正しく、私は反対する立場にありません。問題は、そこに権威を持たせること、特権化することにあります。わたしはそこに加担したくなかったので、意識的に「シマコトバ」としました。「シマクトゥバ」は素直に使えませんでした。

わたしは日本語を使うときひっかかりがあります。ふと止まってしまいます。身体のなかでこなれていかないのです。かつて琉球大学文学部時代、漱石や川端といった日本近代文学を読めませんでした。読めないという意味は、文章のリズムに入り込めない、日本語の文体を受けつけられないということです。そんなことから鬱に近い状態になりましたが、その挫折感が今のわたしをつくっているともいえます。その後八重山芸能(古代歌謡)に出会い、それをやるために大学に戻ることができました。

この後、ウチナー対ヤマトゥの構図を揶揄する自身の短編を朗読し、聞き取ることができ内容が理解できたかを会場に問いかける崎山さん。少なからずあった「まったくわからない」という反応に対して以下のように述べる。

ウチナー対ヤマトゥが喧嘩する関係にあったとして、「わからない」という溝を無視してはいけません。違和感は持ち続けるべきです。わたしは喧嘩をしながらでもそこで笑いをとりたい。そして、せめて音として伝わるのではないかという希望をもつようにしています、違う者同士がつながるためにも。

最近の沖縄は、対立構造があまりに激しく息苦しさを感じます。「文学などやらずに辺野古へ行け、デモをしたほうがよいのでは」というような空気があります。そのような状況について、何人かの仲間と話し合いをした結果、「越境広場」という雑誌をつくりました。


「越境広場」に掲載された、一人芝居の北島角子さんによる「ウチナーグチ版・憲法九条」を朗読。

「ウチナーグチで平和憲法を語られても…」と思われるかもしれません。(ここで言いたかったことは)あなたとわたしは違う。違うけれど仲良くできない?お互いに分かり合えない?ということです。そのとき大事なことは、交流するためにわかったふりをしないことです。

「カチャーシー」
(カチャーシーを踊る身振りをしながら)カチャーシーとは「かき回す」という意味があります。では、かき回した後どうするのか?「責任を取れよ」といわれるかもしれません。わたしはカチャーシーを踊っていると、周りの人を誘いたくなります。相手に近づくとハグしたくなります。


崎山多美講演会「シマコトバでカチャーシー」


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この記事へのコメント
「シマコトバ」による朗読2箇所を省略したのは、生かすとしたら省略せずにすべて掲載しないと意図が伝わらないが、そこだけそうするのもバランスとして変だし、という理由からです。しかし「そこを省いたらなんにもならないじゃないか」と崎山さんに突っ込まれてもいたしかたないところです。それだけ重要なところなのだから。「ヤマトーンチュ」に対して挑発的に、しかし排除的にならずに、という両義的なパフォーナンスは、崎山さんのしなやかな身体性も手伝って見事なものでした。それを再現できないのは申し訳ないが、再現などできるはずはないともいえます。
Posted by 24wacky at 2015年07月04日 23:52
 
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