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2018年11月26日

『沖縄に連なる 思想と運動が出会うところ』新城郁夫

『沖縄に連なる 思想と運動が出会うところ』新城郁夫

 「沖縄に連なる」。なぜに「繋がる」ではなく「連なる」なのか。「連なる」とはいかなる述語か。著者がそのイメージとして〈序 生きられる沖縄へ〉に書いているのは、沖縄についての著作もある歴史学者の鹿野政直の幼少時のエピソードである。大阪南部の沖縄集落で、鬱屈を抱えた鹿野少年に声をかける、ある女性の名乗り。その出自を想像できる少年だった鹿野は、女性の歴史的な困難を想う。名前をめぐるこのささやかなやりとりから、著者は次のように読み取る。《二人の間において交わされたであろう僅かな言葉のなかに響いた固有名は、文字となるほんの手前にあって、そして、意味として像を結ぶほんの手前にあって、歴史の闇のなかを漂う混沌とした呼びかけとしてこの世界に投げ出される声であったようにも思えてくるのである》。つまり、その音声から固有名の文字へと変換されるその直前で、自明の「沖縄」は現れず、再び混沌の闇に漂う。がしかし、それは絶えず私(たち)に呼びかけることをやめない。《二人は、あらゆる点において違っている。独りであるみずからを抱えているという点を除いては。ただ不測のうち沖縄に連なることを通してのみ、歴史が交差するその一瞬において出会っているのが、この二人なのである》。アイデンティティが同じである必要などない二人が図らずも沖縄(呼びかけ)を通し、「沖縄」に「連なる」こと。それはたんに二人が「繋がる」点ではない。

 この出会いを、著者自身も「不測のうち」に経験する。テオ・アンゲロプロス監督作品『エレニの旅』には、ギリシア難民が経験する第二次大戦の渦中でケラマの戦闘が手紙に記され、オキナワという名が発せられるという不意打ちがなされる。ここでギリシア難民と映画を観る著者が「オキナワ」を通し、「沖縄に連なる」(第3章 沖縄が召喚する難民の歴史 ─アンゲロプロス『エレニの旅』)。

 本書は2011年以降現在までの沖縄をめぐる状況論としても読める。必然的に辺野古新基地建設をめぐる批判も避けがたく厳しい筆致で書かれている。この間の政治的言説の問題として、日本人は日米安保を認めるならば応分の負担をすべきとする「基地引き取り論」、日本本土との差別的植民地構造からの脱出を訴える独立論、そして沖縄内の政治状況を激しい保革対立から「オール沖縄」へとまとめあげた翁長雄志県知事誕生の三つがある。これらは各々独立した事象であるが、民族を基底にまとまる対他認識を持つ点で共通する。本書には前者二つを真っ向から批判する内容が少なくない。その一方で、三つ目への直接的な批判は目立たない。

 高嶺剛作品の魅力をなるほどと思わせる批評力で綴る〈第8章 高嶺剛のためのノート〉は、映画批評であるにもかかわらず、これらの政治的言説への批判の書として読めてしまう。たとえば、《高嶺映画においては、欲望の源泉であり煽動者であり管理者たる「父」という所有者がいない》(126ページ)はフロイト理論からの翁長=父批判として読めるし、一見「自分探し」というオーソドックスな物語構造を持つようにみえる高嶺作品について、《映画のどこをどう見ても、「自己」を探している人など見つけることなどできないのである》(127ページ)、《高嶺映画にあっては、みずからのアイデンティティを拠り所とするマイノリティがいない。徹底していない。それはメジャー(多数性を集権の要とする力)をマジョリティ化するためのメジャー(測定器)が、映画のすべての流れの中で決定的に退けられているからである》(129ページ)は、翁長氏が掲げ、多くの県民がそれを熱く支持した「イデオロギーよりアイデンティティ」というスローガンへの的確この上ない批判として読める。

 著者にとって《沖縄に「在る」ことは自明なことではない。在ることそのものが自明ではない。在ることそのものを問う営みだけが、在ることを在らしめることができる》(在ることへの問い 208ページ)とするならば、「在ることそのものを問う営み」とはどのような営為を指すだろうか。ここで「沖縄に連なる」とはいかなる事態かという始めの問いと重ねてみる。

 そう問うのに最適な補助線となるのが〈第4章 歴史を捲りかえす ─阿波根昌鴻『写真記録 人間の住んでいる島』を読む〉である。沖縄北部の伊江島で、米軍に奪われた土地の奪還を求めた非暴力抵抗運動のエポックメイキングな出来事としてあった「乞食行進」。那覇の平和通りを練り歩く印象的な写真がある。著者はその「宗教画的な構図さえ思わせる配置において」、乞食行進は那覇の人々の視線にさらされているが、同時に、それによって那覇の人々の生き様もさらされているのだと鋭い指摘をしている。市場という復興と繁栄の地の遠近法的構図には、様々な売り出しのポップやら映画館のコピーやらそれなりに華やかな人々の衣服などが、「乞食」たちを取り囲むように対称的にとらえられている。それらが「沖縄のなかの何を不可視化することによって浮き上がっているのかが」「反転的に開示されてしまっている」(64ページ)。すなわち、復興と未だ終わらない戦さの沖縄内の地域的ずれが。それは「沖縄が沖縄において学ばれる」(65ページ)ことであり、「行進を見る人たちを見る契機が生起している」(71ページ)のだ、と。つまり、「沖縄に在ることそのものを問う営み」である。あるいは「連なる」=「行進」という豊穣なイメージ。

 それでもやはり最後は、いかにも著者らしい抽象的かつ官能的かつレジリエントな言葉を引用したい誘惑に抗えない。それは師の晩年の作を読み直すという作業において深められた賛辞の言葉としてある。ここではもはや「沖縄」という言葉の使用さえ自然に揚棄されている。
 
この点を踏まえて、岡本の言葉とともに思考されるべきは、感受という形で他者の身体そして心に開かれてしまう私(たち)というものが生起し、この生起した私(たち)が、他者が生きた痕跡をその心身において受けとめてしまうことによって、私の心身の枠組みの再組織化を余儀なくされるという地平であろう。その地平は、「私」というものの意図や意識を超えて新たな「私」が創出される地平といってもよい。ときに暴力的ですらあるこの地平において、排出できない他者の痕跡が、自分の心身のなかで自分自身とよそよそしい接触を果たしはじめる。つまりは、自分の身体がその内部から自分に触れているとでもいうような、そのような自己との新しい関係へと、他者が生きた痕跡が導くということがありえるということである。
(〈第5章 消化しえないものの体内化を巡って〉86ページ)


『沖縄に連なる 思想と運動が出会うところ』
著者:新城郁夫
発行:岩波書店
発行年月:2018年10月18日


2016/03/17
高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(下)
 このような岡本の倫理からすれば、高橋氏の「県外移設」論に対して、その姿勢は本土の知識人として美しいが、「沖縄に住む人間が、県外移設に反対することは、みずからの担っている過酷な状況を拒否するとともに〜本土側からの県外移設論に同調するわけにはいかないのだ」といえる。 ここで岡本は「沖縄に住むぼく…

2016/03/16
高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(中)
 「自分の生命を守る」ことは、その人の経験によって起こされる結果がどのようなものであれ、それに左右されずに従うべき法則である。対照的な「私」と比べてみると理解しやすいだろう。「痛くないだろうか。逮捕されたらどうしよう…」と「私」が恐怖心に支配されるのは「心の傾き」からそうするのであって、それは義務に…

2016/03/15
高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(上)
「『沖縄の米軍基地』を読む」への応答(上)(2015年11月24日付、沖縄タイムス紙文化面)で高橋哲哉氏から拙稿へご指摘いただいた点について応答したい。 はじめに、「基地を引き取れ」だけではない「沖縄からの問いかけ」を指すものとして、「殺すな!」「殺されるな!」という、誰だかわからない他者から…

2015/10/03
「沖縄の米軍基地」を読む2
「日本人よ基地を引き取れ」という要求が沖縄で公然と上がっている。著者は「日本人」として応答しなければならないとし、これにイエスと答える。私は同じ「日本人」の1人として、その論理展開のほとんどに同意する。とりわけ日本の戦後リベラルを批判する次の箇所には。「『本土』の反戦平和運動も、戦後民主主義の政治…

2016/12/03
『変魚路』
 「むどぅるちゅん」(思考停止状態)となったタルガニと親友パパジョーの「ロードムービー」とはいかなる事態か。そもそも二人ともでーじ年寄りだろ。迷子になった認知症の話ではないの?いまごろきっと捜索願が出されているはず。「夢幻」だの「迷宮」だの「神話」だのともっともなコピーをかぶせてみるのをやめに…

  


2018年11月12日

『ここは退屈迎えに来て』山内マリコ

『ここは退屈迎えに来て』山内マリコ

 〈1 私たちがすごかった栄光の話〉は、地元に戻ってライターの仕事を始めた30歳の「私」が、10年間の東京生活からのUターン組という共通の経歴を持つ年上のカメラマンの須賀と、取材からの帰路、車を走らせる場面から始まる。二人の視界には幹線道路沿いに並ぶチェーン店の看板が入る。ブックオフ、TSUTAYAとワンセットになった書店、洋服の青山、etc…。須賀は刻々と廃れゆく街の景色に呪咀の言葉を吐きかける。自宅に戻った「私」はiPhoneでツイッターのタイムラインをチェックするが、東京にいた頃の微妙な知人が流す、「どこどこに行ったなになにを食べた」という類いの自慢げなツイートばかりが目につく。

 「私」は高三のときの親友で、一度も県外に出たことがないサツキちゃんと再会し、自分同様まだ独身であると知り、安堵する。二人は昔を懐かしむ勢いで、椎名にも声をかける。椎名は三年のときのクラスメートだがほとんど話したことがない。ちょっと近寄りがたい雰囲気だけれど、スクールカーストでいえば上位に位置し、女子の潜望の対象であった。しかし、再会した椎名は大阪からUターンした後結婚し、自動車教習所の教官をしていた。「私」はかつての輝きを失った椎名に対し切なさを感じる。

 その後、「私」と須賀は新しくできたこだわりラーメン店を取材する。店内の至るところに「相田みつをがヤンキーだったらこんな字を書いたかもと思わせる」字の散文が貼り出されていた。

 東京? haha! ここは東京のない世界
 俺はこの町で生きる
 仲間たちとこの町を守る
 地元サイコー!
 東京なんてクソ食らえ!
 俺たちの町に住む愛しきお前らに、最高の一杯、食わしてやるぜ!


 これに対して須賀はアンサーソングを書きこむ。

 Yo! Yo! 楽しそうで何よりだNa!
 俺は東京行ったさ文句あっか?
 ここで楽しくやってたら最初からどこにも行ってねーよバーカ
 あらかじめ失われた居場所探して、十年さすらった東京砂漠
 そうさ俺は腹を空かせた名もなきカメラマン
 いまだ彷徨う魂、高円寺の路地裏に残し
 のこのこ帰ってきたぜ! ラーメン食いに帰ってきたぜ!
 だからラーメン食わせろ‼︎ 今すぐ俺にラーメン食わせろ‼︎


 大澤真幸は、地方の若者が「イオン」「ミスド」「マック」「ロイホ」など、地元の固有性がないものにこそ地元をイメージさせるものがあると感じ、濃厚な人間関係よりもむしろその希薄さに魅力を感じていることを、「地元」の否定の否定という意味で〈地元〉と表現した。

《もはや東京に魅力を感じない若者たちは、〈地元〉指向へと反転する。しかし〈地元〉は、何か積極的な魅力をもつがゆえに指向されているわけではない。それは、東京への失望、東京の否定の表現である。若者たちのこの〈地元〉指向は、オタクが特殊な主題Pへと執着するときに効いている機制とよく似ている。》
《オタクは、特殊な領域の中の繊細な差異、些細な情報的な差異を見いだすことに情熱を傾ける。しかし、この表面的な特徴に騙されてはいけない。オタクの本質とは、普遍的なものUへの関心が、きわめて特殊なものPへの常軌を逸した愛着として現れるという反転にあるのだから。》

 ブックオフ、TSUTAYAといったチェーン店が連なる風景に対して、地元愛溢れるラーメン店の店主は親和的であるのかどうなのか。あるいは「こだわりラーメン」はどうだろうか。「普遍的」なチェーン店に対し、「個性的」なこだわりを強調するベクトルは、オタク的なPへの愛着といえる。両者には「普遍」と「特殊」という対称性があるようにみえる。だが、「こだわりラーメン」こそ東京的消費のイメージだとすれば、店主は東京を否定しているようで東京に「こだわって」いる。つまり、チェーン店(普遍)を否定し、こだわりラーメン(特殊)を代理させるが、そのこだわりは「東京的」であり、いささかも特殊ではない。その意味でチェーン店とこだわりラーメン店は50歩100歩である。

 その矛盾を見破った須賀は「ここで楽しくやってたら最初からどこにも行ってねーよバーカ」と切り捨てる。だが、その須賀にしても、〈地元〉に「のこのこ帰ってき」たのであり、そうであればラーメンを食うしか術がない。須賀もこだわりラーメン店の店主も、そして「私」も、普遍的なものUへの関心が自分達にあるのかないのかすらわからない。だから「ここは退屈」なのだ。だが、「退屈」という否定形でしか現せないなにかを否定しない方がよいだろう。それを「迎えに来」るものがいるのであれば。

『ここは退屈迎えに来て』
著者:山内マリコ
発行:幻冬舎
発行年月:2012年8月25日


2016/10/20
第3章 オタクは革命の主体になりうるか 『可能なる革命』概要 その4
 3・11以降、脱原発運動の大規模なデモが発生した。しかしその間国会では、原発の問題が中心的課題として議論されたとはいえない。デモによって表現される国民的関心と国会議員の行動の間に整合性がない。国会議員は国民の意志を無視すれば次回の選挙で自分が落選するかもしれないという切迫した恐れをもたなかった。…

2016/10/24
第7章 〈未来への応答〉 『可能なる革命』概要 その8
 「未来→過去」というように因果関係が遡行していることは不思議であるが、われわれは日常的に目撃したり、体験したりしている。 たとえば、幾何学の証明で用いられる「補助線」の働きがそうである。証明者が、「ここに補助線があればうまくいきそうだ」という直観を得るとき、それはあたかも未来からの情報に影…

2018/11/05
『メガネと放蕩娘』山内マリコ
 シャッター通りと化した商店街を舞台に、地域の活性化とは何かをテーマにしているといえる。というか、そのままの作品である。なるほど、巻末には参考文献として、関連書籍が列記されている。かなりベタである。物語のどこかで、読者を戸惑わせる策謀があるかというこちらの期待は最後までかなわない。読む者に「お…

2017/01/24
『アズミ・ハルコは行方不明』山内マリコ
 あまりにも刺激的な映画を観て原作も気になる。そういうタイプの映画だった。原作は一部をごっそりとカットしているのを除けば、ほぼ映画通りだ。いや、おかしいぞ、映画はほぼ原作通りだ、が正解。原作で表現しようとしていることを、映画も表現しえているというのは驚きである。筋を忠実に再現しているというよう…

2016/12/08
『アズミ・ハルコは行方不明』
 アズミ・ハルコ(蒼井優)を中心とする日常と愛菜(高畑充希)、ユキオ(太賀)、学(葉山奨之)の日常。後者の時制ではすでにアズミ・ハルコは行方不明になっているが、アズミ・ハルコの日常とのカットバックが繰り返される。それは回想という手法ではない。ユキオと学のグラフィティ・アートのユニット”キルロイ”…

  


2018年11月05日

『メガネと放蕩娘』山内マリコ

『メガネと放蕩娘』山内マリコ

 シャッター通りと化した商店街を舞台に、地域の活性化とは何かをテーマにしているといえる。というか、そのままの作品である。なるほど、巻末には参考文献として、関連書籍が列記されている。かなりベタである。物語のどこかで、読者を戸惑わせる策謀があるかというこちらの期待は最後までかなわない。読む者に「おまえも分裂症であろう」と切りつける『アズミ・ハルコは行方不明』をすでに読んでいる私の、それが読後の第一印象である。では、この作品の魅力はどこにあるのだろうか。

 とある地方の商店街に代々店を構えるウチダ書店の長女タカコは、三十代の独身で、一度も地元を離れたことなく、市役所の広報課に勤めている。生まれ育った商店街が気がつけばさびれつつある現状を寂しく思っている。そこへ数年前に家を飛び出し、東京へ姿をくらましたはずの妹ショーコが戻ってくる。再会もつかの間、大きなお腹を破水するという劇的な物語的展開を示唆しながら。かつて不良少女そしてギャルとなったショーコは直情行動型であり、何ごとにも地味なタカコとは対照的なキャラクターとして描かれる。閉塞感漂う地元を一度は離れたショーコだが、さびれた商店街を憂い、なんとかしたいという気持ちはタカコと共通する。やがて二人は、都市環境デザインを専門とする大学教授のまゆみ、実直なゼミ生の片桐、事なかれ主義の中心市街地活性課職員の星野、商店街にとっては「よそ者」であるセレクトショップ《リスキージョイ》店主の潮見などと協力しながら、商店街の活性化に取り組む。

 単発イベントとしてのファッションショー、シェアハウス化計画などで一定の成功を収めていくが、閉店したウチダ書店をテナント化しての月極の店舗計画に対し、地元の不動産屋の金子からストップがかかる。勝手に賃料を下げられると、横並びにしている他の店主にも影響してくるし、地価を下げることにもなるのだと。そこで「シヤッターが下されれいる本当の理由」が見えてくる。かつて高度経済成長期に右肩上がりだった商店街の店主たちは、十分な教育費をあて子供たちを東京に送り出し、一財産を残している者も少なくない。店舗はもち物件のため家賃が発生しない。老いて二階に居住しながら、再開発の計画が実行されるのを待っている。その反面、地価に応じて家賃が高いため、空き物件に店子で入る起業者は経営に苦労する。そんな裏の事情があった。

 つまりは、よそ者を拒む排他的な「感情」には交換様式A(贈与とお返し)が、商店街を統制する不動産屋には交換様式B(略取と再分配)が、そして再開発で消えていく商店街には商品交換C(貨幣と商品)が、それぞれ支配的に「力」を行使している結果なのだ、と(交換様式については以下を参照のこと。『世界共和国へ』を読むためのメモ その2)。

 最終章の七章は、それまでのタカコの一人称から、ショーコの一人称へと代わる。再開発は計画通り行われ、商店街は消滅した。そこへ結婚を機に3年前街を離れたタカコが「帰還」する。妊娠したお腹を破水するという、かつてのショーコの身振りを反復しながら。街の風景は再開発で一変するが、ショーコはかつての仲間たちと寺の敷地を利用して、あきらめずにショップ経営を再開していた。再度一人称はタカコに移り、《またここで、何かやりたい》という気持ちが発せられる。そして再開発ビルの通りにある託児所を訪れる。そこは地元の子も新住民の子どもも歓迎され、それだけでなく、高齢者のデイサービスを兼ね、障害者も受けれているという。それを見たタカコは語る。

 街っていうのは、あまりにとりとめなく、大きすぎて、わたしたちの力では、歯が立たない。
 でも、商店街だろうが、住宅街だろうが、マンションだろうが、そこに子どもがいて、その子たちが楽しそうに遊んでるんなら、別になんだっていいやと、わたしは思った。
249〜250ページ
 
 個人が抗するに、いや、他者と共に行うアソシエーションであったとしても、資本の力に対しては微力である。最後に描かれる寺の敷地内にしぶとく営業するショップと、再開発の通りに新設された「社会的弱者」のための居場所に、はたして希望はあるだろうか。これらがそこにあるからといって、資本はビクともしない。むしろ、資本にとって、資本が覆い尽くせない余剰の領域を交換様式Aによって生き延びさせてくれる、つまり、資本を補完することでしか、それらはない。そのような冷徹な認識をせざるをえない。とはいえ、このようなアセンブリを現実の生活レベルで夢想する私にとって、この物語は切実であり、かろうじて絶望的ではない。それがこの小説の力である。

『メガネと放蕩娘』
著者:山内マリコ
発行:文藝春秋
発行年月:2017年11月17日


2017/01/24
『アズミ・ハルコは行方不明』山内マリコ
 あまりにも刺激的な映画を観て原作も気になる。そういうタイプの映画だった。原作は一部をごっそりとカットしているのを除けば、ほぼ映画通りだ。いや、おかしいぞ、映画はほぼ原作通りだ、が正解。原作で表現しようとしていることを、映画も表現しえているというのは驚きである。筋を忠実に再現しているというよう…

2016/12/08
『アズミ・ハルコは行方不明』
 アズミ・ハルコ(蒼井優)を中心とする日常と愛菜(高畑充希)、ユキオ(太賀)、学(葉山奨之)の日常。後者の時制ではすでにアズミ・ハルコは行方不明になっているが、アズミ・ハルコの日常とのカットバックが繰り返される。それは回想という手法ではない。ユキオと学のグラフィティ・アートのユニット”キルロイ”…

2016/10/27
第10章 Another World Is Possible 『可能なる革命』概要 その11
 『あまちゃん』の「夏(祖母)━━春子(母)━━アキ」という三代の女は、ちょうど日本の戦後史の3つのフェーズ「理想の時代/虚構の時代/不可能性の時代」に対応している。各世代は前の世代から活力や決断のための勇気を与えられる。 かつての東京での生活ではまったくやる気のなかったアキが初めて見出した生…

2016/10/26
第9章 新しい〈地元〉 『可能なる革命』概要 その10
 戦後史の時代区分「理想の時代→虚構の時代→不可能性の時代」からいえば、かつて東京や大都市は「理想」が実現する場所だった。しかし、その求心力は不可能性の時代に入ると急速に衰えていった。それと同時に地元志向の若者たちが増えていく。地方の若者たちに「地元と聞いて思い出すものは?」と質問すると、返って…