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2018年04月29日

『心と体と』エニェディ・イルディコー

『心と体と』エニェディ・イルディコー

 ブダペスト郊外の食肉加工場で代理の検査官マーリア(アレクサンドラ・ボアブリー)が勤務を始めた。マーリアは他者とのコミュニケーションがうまくとれずに周りから孤立している。人生にやや疲れ片腕が不自由な上司エンドレ(ゲーザ・モルチャーニ)は彼女を気にかける。やがて二人は雪降る森を彷徨う雌雄一組の鹿になった同じ夢をみていることに気づく。

 マーリアはコミュニケーション障害である。異常に記憶力が良い。音に敏感だ。細かいことにこだわる。接触過敏である。表情に乏しい彼女の微細な感情の変化、そして彼女の感受する世界を、映画は静かに丁寧に表現している。それは屠殺場のリアルな「機能美」と並列的かつ複数的に存する。

 詩的な風景に点描される鹿と屠殺される牛、透き通るような美しさのマーリアと枯れた男のエンドレ、それらに聖と俗の対比を読み取ることは容易い。孤独な男女が同じ夢をみるというドラマ仕掛けを効果だけだと批判することもできなくはない。たとえそうだとしても、「マーリアは私だ」という強迫観念を観る者は抱き、それは圧倒的だ。そう、「コミュニケーション」なるものが決して自明ではないということも。

『心と体と』
監督:エニェディ・イルディコー
出演:アレクサンドラ・ボアブリー/ゲーザ・モルチャーニ
劇場:シネマカリテ
2017年作品


2017/09/08
〈自分の言葉をつかまえる〉とは? 山森裕毅『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 対話を実践する試み「ミーティング文化」では、〈自分の言葉で語ること〉に価値が置かれる。 ハンナ・アーレントは「言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界のなかに挿入する」といった(『人間の条件』)。アーレントが面白いのは、ひとが言葉によって自分を表すときに、自分がいったいどんな自分を明…

2017/09/06
ダイアローグのオープンさをめぐるリフレクティング 矢原隆行『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグではポリフォニーが強調される。そこでは「すべての声」に等しく価値があり、それらが一緒になって新しい意味を生み出していくと。しかし、実際のミーティングにおいて、多くの声が響いていたとしても、それのみで既存の文脈がはらむ力関係を無効化できるものではない。 リフレクティング…

2017/09/05
ダイアローグの場をひらく 斎藤環 森川すいめい 信田さよ子『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグの前提は「わかりあえないからこそ対話が可能になる」。コミュ力の対象は「想像的他者」、すなわち自己愛的な同質性を前提とする他者。その対極はラカン的な「現実的他者」で、決定的な異質性が前提となるため対話もコミュニケーションも不可能。それに対しダイアローグの対象は「象徴的他者」…

2017/09/04
コミュニケーションにおける闇と超越 國分功一郎 千葉雅也『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 エビデンス主義は多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されている。それはメタファーなき時代に向かうことを意味する。メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということ。かつては「心の闇」が2ちゃんねるのような空間に一応は隔離されていた。松本卓也がいうように、本来だ…

2017/09/03
演劇を教える/学ぶ社会 平田オリザ『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 平田オリザは演劇を日本の教育に取り入れる実践において、まず「会話」(conversation)と「対話」(dialogue)を区別することから始める。「会話」は価値観や生活習慣なども近い者同士のおしゃべり、「対話」はあまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、というように。日本では歴史的に「対話」が概念として希薄で…

2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…

  


2018年04月15日

『ナラ・レポート 津島佑子コレクション』

『ナラ・レポート 津島佑子コレクション』

 優れた小説作品がそうさせるように、読書の途中でグイグイと引き込まれ、時間の経つのも忘れ、結果夜を通しての耽溺となることがある。本書がまさにそうだ。それまでは今ひとつ読む進めることに入っていけない停滞した時間が続いたのち、ある箇所から一転して読むことの快楽が刺激され、ページをめくるのが永遠に続いてくれればと無理な期待をしている。その法則が読者である私の生理によるものなのか、テキストの構造上の仕掛けによるものなのか。それを確認したいという知的欲求もこの際どちらでも良いではないかとかき消される曖昧さへの滞留。

 女と男が森で知り合い生を受けたことにちなんで森生=モリオと名づけられた少年は、しかし未婚の母に先立たれる。その母はハトやイタチやコウモリといった小動物へと変身して、モリオとの交歓を続ける。それはナラという場所を舞台に、中世の時代に生きた母と子へとメタモルフォーゼし、永続化するかのように読者を誘う。

 やがて政治と宗教の権力構造に組み敷かれていく主人公は、アイミツ丸、ジョウアミと名前を変えさせられ生き永らようとする。時よりモリオの野性がそれを拒絶するかのようにムクムクと頭を擡げる。驚くばかりであるが、その後の柄谷行人が山人を抑圧されたものの回帰として取り上げた遊動論の原テキストとして先に生まれたとしかいいようがない。

 それまで息子の喪失体験を書き続けてきた著者が、母を失う息子と設定を転倒させているが、単にそれは主客が逆転されたのではない。むしろその二元論が解体され、母と子は共犯関係へと進んでいく。それは大仏という権力の場とモノを壊すという大罪に向かって。しかし、そもそも二人にはその動機が判然としていない。むしろ読者へ共謀を促すことによって、それを探っていくというのが著者の策略でなくてなんであろう。

『ナラ・レポート 津島佑子コレクション』
著者:津島佑子
発行:人文書院
発行年月:2018年3月30日


2018/01/29
『大いなる夢よ、光よ 津島佑子コレクション』
 津島佑子にとって、「夢」は文学手法ではない。作品のテーマでもない。それはかろうじて生きること=書くことの総体その自由度の謂である。 一人息子の急死のあと身を寄せる母の老朽化した実家の建て直し。主人公の章子は、ついでに見直される物置き小屋を二人の男と共に「夢殿」と名づけ、そこをつかの間のシ…

2017/12/03
『夜の光に追われて 津島佑子コレクション』
 我が子の突然の死という事態に向かい、作家は書く行為に跳躍の可能性を望む。平安時代の王朝物語「夜の寝覚め」を現代語で改めて書くというアイデアに読者はじりじりとつきあわされる。「子どもの死」という普遍的なモチーフへの昇華は、千年前の「宿世」を現代の我々が読むという途方もなく贅沢な行為を媒介しては…

2017/10/14
『津島佑子の世界』
 本書は2016年12月11日にかつて若き津島佑子が在学した白百合女子大学で開催された追悼シンポジウムの記録である。鹿島田真希の基調講演に始まり、木村朗子、川村湊、中上紀、ジャック・レヴィ、菅野昭正、中沢けいなどの発言がある。その中で与那覇恵子は冒頭で、津島文学の本質を次のように見事に表現している。…

2017/08/30
「真昼へ」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 結末は正月、新居を披露するために親戚たちが集まる母の家。11歳の「私」は、ダウン症の兄を連れ、冬の日の庭を冒険する。そしてガラス戸越しに居間で談笑する大人たちを覗き見する。二人だけの秘密の冒険。「私」は木に登り、その家を見下ろす。その眼差しの先には、親戚たちに混じって成長を続ける「私」自身の姿…

2017/08/29
「悲しみについて」『悲しみについて 津島佑子コレクション』
 息子を失ったことをようやく受け入れたように、娘と二人住むことになった新しい貸家の描写。これが実は、というかやはり、夢だったという冒頭。息子の死から3年目の冬、息子は死んでいないという「喜びに充ち溢れた夢」は、もはや見なくなっている。 世間では「母親が子を失うほど悲しいことはない」とか「耐え…

2017/08/28
「夢の体」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 生々しい性的な夢想から、語り手は失ってしまったはずの息子が戻ってきての共生を断続的に噛みしめる。せっかく戻ってきた息子の「耳朶に触り、指の一本一本に触り、足にも触りたい」。だが、身近な人の顔が思い出せない自分の記憶力のなさにうろたえる。さらに、写真やビデオに残る息子の顔の記録と、自分が抱く記…

2017/08/27
「春夜」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 母が若返っていく。娘が初潮を迎える。息子の死を介して、肉親の他者性が不意を突く。語り手は語り手であるがゆえに、そのことを見て留めることができる。『悲しみについて 津島佑子コレクション』著者:津島佑子発行:人文書院発行年月:2017年6月30日2017/08/26「ジャッカ・ドフニ──夏の家」『悲…

2017/08/26
「ジャッカ・ドフニ──夏の家」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 冒頭、知人との電話の会話で息子が不在となったことがほのめかされる。だが、次の奇妙な一文で早くも展開が変わる。「そこへ移り住んで待ち続けていれば、いつということは分からないが、そして必ず、とも保証はできないが、息子が一人で戻ってくる可能性はある、ということだった」。続いて「町なかのごみごみした…

2017/08/23
「泣き声」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 夜の電話、七十なかばの母から、同居する兄がいなくなった、どうしようといって泣いている。だが、書き手はそのシークエンスを次の一文で即座にカットし、そのまま過去の追想へと転じる。「三十年近くも前、十五歳になっていた私の兄は、心臓発作で急死した」。つまり、現在時制で母と二人で暮らしているはずの兄は3…

2017/08/22
「夢の記録」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 急死した息子ダアが夢に現れる。夢の中なので一人称のわたしも周囲の誰もそれがおかしいとは思わない。ダアの裸体を抱きしめる欲望でさえも。それら断片が記録的でもあり創作的でもある文体で記されている。それ自体が作者の奸計であることは確かだろう。「これは本当に夢の記録か?」「いや、それを装った虚構に違…

2017/03/04
『津島佑子と「アイヌ文学」 pre-traslation の否定とファシズムへの抵抗』岡和田晃
 津島佑子の遺作『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(2016年)は、なぜ、3・11後の状況とアイヌの「生存の歴史」を結びつけながら書かれたかと問う刺激的な論考である。 同作品への評価としては、少数民族に対する日本人の無理解と無関心への「悲しみと憤り」が津島の執筆動機だとする川村湊の論考「”ジャ…

2016/10/09
『狩りの時代』
 3章では、障害を負って生まれた兄の耕一郎と絵美子が自宅二階の物干し台から屋根へと冒険し、となりの風呂場の開け放たれた窓から若い女性が水浴びしているのを盗み見するところから始まる。規範から「自由な」兄とその援助者の妹がとる行動は、かつての国民的作家の「猫」がそうであったように、移動して見るとい…



  


2018年04月09日

『享楽社会論 現代ラカン派の展開』松本卓也

『享楽社会論 現代ラカン派の展開』松本卓也

 精神分析を可能にした条件とは、近代精神医学が依拠した人間の狂気(非理性)とのあいだの関係を、言語と、言語の限界としての「表象不可能なもの」の裂け目というパラダイムによって捉え直すことであった。1950〜60年代のラカンの仕事は、フロイトが発見した無意識の二重構造を、超越論的システムとして次のように体系化することにあった。つまり、一方では、言語使用のメカニズムを支配する象徴界があり、それは〈父の名〉という特権的シニフィアンによって統御されることで初めて正常に作動する。他方では、象徴化に抗する「表象不可能なもの」としての現実界があり、そこで一瞬だけ垣間見られる真理を、「対象α」、あるいは「テュケー(偶然)」と呼んだ。

 このシステムは神経症と精神病を区分けすることを可能とする。無意識に支配される神経症者は「正常者」から地続きのものとされ、無意識に支配されない=〈父の名〉によって統御されない精神病者は、排除された〈父の名〉をめぐって生じる「過程」に従い妄想を発展させる。それにより精神病者のみがエディプスコンプレクスから逃れる例外者として機能するのだ、と(『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也)。

 ドゥルーズとガタリはこの二分法に異議を唱えた。彼らによれば、無意識はすべてエディプスコンプレクスに支配されているわけではなく、神経症・精神病・倒錯を含むあらゆる人間が自らの「過程」を生きうる。それらの臨床的形態は、「過程」がエディプス的な壁に突き当たった結果として生じるものに過ぎないのだ、と(『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 上・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ)。

 しかし、このようなドゥルーズ+ガタリによる批判は、1958年までのラカン理論に対してまでがその有効期限であり、後期ラカンはドゥルーズ+ガタリによる「エディプス的でないような仕方で生きる」というモチーフを共有していたことに著者は注意を促す。70年代のラカンは、エディプスコンプレクスは人間の心的構造のトポロジカルな結び目をつなぎあわせる複数の方法の一つにすぎないとし、非エディプス的で倒錯的な欲望を重視するように態度を変えていたのだから。

 『アンチ・オイディプス』とその後の『千のプラトー』『哲学とは何か』がドゥルーズ+ガタリによる資本主義打倒の戦術書だとすれば(『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治革命』佐藤嘉幸 廣瀬純)、ラカンにとって精神分析は「資本主義からの出口」という位置づけであった(91ページ)。
 
これはどういうことか。ラカンによれば、「資本主義のディスクール」に喪失は存在しない。

つまり、資本主義のディスクールに喪失は存在しないのである。これは、資本主義のディスクールでは次々と新しい商品が主体にあてがわれることによって主体の欲求や要求がすぐに満足させられてしまい、欲求の彼岸に穿たれる欠如を介してあらわれるはずの欲望の領野があらわれてこない、ということを意味する。このような体制においては、主体を構成する存在欠如への接近が不可能になる。つまりそこでは、喪失なしに享楽の復元が可能であるという空想(幻想)が主体に与えられることになるのである。
(90ページ)

 振り返っておこう。ラカン理論にとって欲望とは、「満足を求める欲求〔要求1〕ではなく、愛の要求〔要求2〕でもなく、後者から前者を引き算することに由来する差異」、二者間に生じるうまくいかなさのことを指した(『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也)。これが「欲求の彼岸に穿たれる欠如」のことである。資本主義体制における主体は、その彼岸に接近する前に絶えず新しい商品があてがわれ満足してしまう。よって欲求や要求は満たされても、それは欲望には達しない、すなわち享楽は復元されない。私たちは無限の「享楽(エンジョイ)」を際限なく課せられる。そこで精神分析が資本主義からの出口となるのは、「資本主義のディスクールが排除した去勢、すなわちシニフィアンと享楽の両立不可能性をふたたび主体のなかに書き込むこと」(91ページ)にある。

 このようにして、日本では翻訳すら十分でない後期ラカン、そして現代ラカン派の仕事を前半で丁寧に紹介したうえで、後半では現代的な課題について著者自身の問題意識を打ち出しているところが本書の意義と大きな魅力である。3部構成の「第Ⅰ部 理論」に続く「第Ⅱ部 臨床」では、DSM、うつ、羞恥の構造、自閉症などがラカン派理論から吟味される。「第Ⅲ部 政治」では、ヘイトスピーチ、集団的同一化における享楽の動員、否認とシニシズムといったアクチュアルな問題が緊張感をもって照射される。

 最終章で著者は突然政治の現場に立ち、ジャーナリスティックな文体を挿入する。2015年8月30日に行われた安保法案に反対する国会議事堂前デモの最前線から振り返った著者が目にしたのは、「安倍やめろ」と書かれた黒と白の風船が浮遊している不吉なそれであった。

そして、安倍政権に死亡宣告を行うその喪章の周囲にひしめく「九条守れ」のプラカードにまざって、「脱原発」「反差別」「辺野古新基地建設反対」などを主張するプラカードが自然に共存していたことに私は目を奪われた。そう、「八・三〇」は、それまでの多様なイシューが「安倍やめろ」の喪章のもとでひとつになる瞬間を生み出したのである。さまざまな政治的要求から生み出された個別のシニフィアンが、政治的アイデンテティとしてのお互いの差異を強調するのではなく、むしろ等価性の連鎖によってつながり、「安倍辞めろ」という一つのイシューへと接合されていく過程が、そこには凝縮されていた。この意味で、「安倍やめろ」というシニフィアンは、ひとりの政治家をやめさせろ、という個別の要求ではなく、彼が象徴する政治における「安倍的なもの」の廃棄と、それに代わる政治的オルタナティヴを求める要求全てが帰着する潜在性そのもののシニフィアン、すなわち意味作用の全体が帰着する空虚なシニフィアンとなっていたのである。
(264ページ)

 なるほど、これが「シニフィアンと享楽の両立不可能性をふたたび主体のなかに書き込むこと」の潜在なのか。私は不意をつかれた。なぜなら、まさに同じこの時、この場所で、私自身も振り返り同じ風景を目にしていたひとりだったのだから。

『享楽社会論 現代ラカン派の展開』
著者:松本卓也
発行:人文書院
発行年月:2018年3月10日


2018/01/02
「健康としての狂気とは何か━ドゥルーズ試論」松本卓也
今もっとも注目する松本卓也論考の概要。 ドゥルーズは「健康としての狂気」に導かれている。その導き手として真っ先に挙げられるのが、『意味の論理学』(1969年)におけるアントナン・アルトーとルイス・キャロルであろう。アルトーが統合失調症であるのに対し、キャロルを自閉症スペクトラム(アスペルガー症…

2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…

2017/01/05
『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也
 本書は、ドゥルーズとガタリやデリダといったポスト構造主義の思想家からすでに乗り越えられたとみなされる、哲学者で精神科医のラカンのテキストを読み直す試みとしてある。その核心点は「神経症と精神病の鑑別診断」である。ラカンは、フロイトの鑑別診断論を体系化しながら、神経症ではエディプスコンプレクスが…

2018/03/21
『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 上・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
  『アンチ・オイディプス』は、「欲望機械」「器官なき身体」「分裂分析」「接続と切断」といった言葉の発明をもとに、無意識論、欲望論、精神病理論、身体論、家族論、国家論、世界史論、資本論、記号論、権力論など様々な領域へ思考を横断していくところに最大の特徴がある。「あとがき」で翻訳者の宇野邦一は、…

2018/01/03
切断、再接続、逃走、闘争
 朝日新聞の興味深い新年特集記事「逃走闘争2018」で、『逃走論』(1984年)の著者浅田彰は述べている。重厚長大型から軽薄短小型への変化がある一方で、古い価値観やイデオロギーに固執する人々も相変わらず多いという当時の社会状況に対し、資本主義を半ば肯定しつつ、パラノ(偏執)的な鋳型を捨てて、スキゾ的(…

2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…

2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…

2018/02/18
『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治革命』佐藤嘉幸 廣瀬純
 ドゥルーズ=ガタリ連名による著作『アンチ・オイディプス』(1972年)、『千のプラトー』(1980年)、『哲学とは何か』(1991年)は、いずれも資本主義打倒のための書である。三作は利害の闘争から欲望の闘争へという戦略(ストラテジー)において共通するが、戦術(タクティクス)が各々で異なる。『アンチ・オイ…

2018/02/03
『資本の「力」とそれを越える「力」』柄谷行人
 私が知る限り、柄谷行人がNAMについて公的な場でまとまった話をするのは、2002年のNAM解散後初めてではなかろうか。なぜ今になって語るかといえば、中国のアクティビストから『NAMの原理』中国語版を出したいという打診があり、NAMについて改めて考えることになったからだという。つまり、現実からの要請に対する応…

2016/10/28
第11章 相対主義を超えて 『可能なる革命』概要 その12
 2015年に国会議事堂の周囲で起こされた安保関連法案に反対するデモは、敗戦後70年間で最大のレベルだった。その中心となったSEALDsという学生たちの団体は、本書で論じてきた社会や政治への指向をもつ若者像を裏付ける。しかしその間安倍内閣の支持率はほとんど下がらず、デモは敗北だったといわざるをえない。 同…

2009/02/26
交換様式D 抑圧されたものの回帰 
「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモ その29多くの未開社会には、世帯の上に上位集団である氏族社会が存在するため、世帯が基礎的な単位のようにみえる。だが、それはすでに上位集団によって変形されたものである。つまり、上位集団を作る互酬制の原理が世帯の中に浸透するということだ。これと似てい…