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2016年07月24日

『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』

『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』

 先日友人の誘いで谷中にある沖縄料理屋「あさと」を訪れた際、店舗の入る木造アーケードに関心が向いた。それは地元にもかつてあった「マーケット」の形状をいかにも思い起こさせるようであったから。初音小路と名づけられたその飲屋街は、夜になれば各々の店の灯で明るくなるものの、先に昼間訪れたときには薄暗い路地といった塩梅で、初めて足を踏み入れるにはちと勇気がいる気を漂わせていた。本書は東京の街でふと見かけるそんなマーケットやレトロ感溢れる飲屋街が、戦後ヤミ市の名残であることを貴重な写真や図を紹介しながら教えてくれる。

 終戦後、人々は「ヤミ」の売買を始める。駅前の建物疎開地や、米軍の焼夷弾で生じた焼け跡などによって広場となった場所で、生き延びるためのエネルギーが自然発生的にその空間を生じさせた。最初は青空市場だったものが、伝統的露天商(テキヤ)の管理の下、バラック様の仮設店舗に発展する。駅前通りを埋め尽くしたアナーキーな状態に業を煮やした警視庁は、ヤミの横行を一部黙認しつつ露天商組織と結託し秩序維持を図り店舗化する。流通システムの合理化も伴った連鎖式店舗の集合体、すなわちマーケットの誕生である。

 谷中のページでは、まさに初音小路が取り上げられている。現在の谷中銀座商店街入り口に日本国憲法制定後初の総選挙で日本社会党から首相となった片山哲の私邸があり、その周辺で営業していた露店が撤去令を受け、現在の場所へ移転したという。このように行政主導で移転させることを露店「換地」という。23の売り場が公設市場のように生鮮食料品、日用品全般の物品販売業、甘味喫茶店、飲食店から成り、共同仕入れ、共同宣伝方式をとり、マイク、折込広告で呼びかけていたという読売新聞の記事が引用される。活況だった開業時の様子と、ほとんどが飲み屋となっている現在とのコントラストを私に促す(入り口左にあるせんべいやが1950年の写真に写っているという!)。

 当然ながら、我が地元・蒲田が紹介されているのはうれしい。JR蒲田駅西口にできたマーケットの場所を地図で確認すると、現在のサンライズ蒲田、サンロード蒲田、そしてバーボンロードといった商店街であることがわかる。マーケットが整理された結果として、あの明るいアーケードと迷宮と化した裏手の混沌のミックスがある(1959年の火災保険特殊地図によれば、バーボンストリートのあたりが「のみや」「のみや」「のみや」・・・と小さな飲み屋しかないところがいかにもで笑ってしまう)。

 他にも「山手線と西武新宿線にはさまれた一画に残るヤミ市時代の名残」高田馬場、「若者たちが集う人気スポット、三角地帯の暗黒時代」三軒茶屋、「ヤミ市マーケット時代の区画を残す貴重な飲食店街」大井町などなど、いずれも興味深い。欲を言えば、当時を知る地元の人々の証言といった物語性も加われば、なお読み応えがあっただろう。いずれにしても、庶民の営みから戦後と今を見据える知的作業は愉しい。

『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』
著者:藤木TDC
発行所:実業之日本社
発行:2016年6月21日


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この記事へのコメント
マーケットという生き物のケーススタディ、これは興味津々です。読後、また蒲田か初音小路でぜひ。
Posted by 齊藤 at 2016年07月24日 11:21
齊藤さんが興味を示すのは、新橋、錦糸町あたりでしょうか。あ、やはり大井町はぶらりしがいがありそうです。
Posted by 24wacky at 2016年07月24日 21:27
 
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