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Posted by TI-DA at

2013年10月16日

沖縄の風 その5

Kとは20代半ば、勤務先の映画の編集プロダクションで知り合った。同年代で大学時代自主制作映画を撮っていたことなど共通する点などもあり、お互いそのプロダクションを辞めて以降もつきあい続けた。映画のこと、本のこと、音楽のこと。われわれは飽きずに語り合った。

わたしは彼がときより語る沖縄の話を聞くことを楽しみにしていた。Kの語る沖縄あるいは宮古は、うまくいえないが、当時の私が知るところの沖縄とはいつもどこか違っていた。私が知るところの沖縄とは、南の島の青い空と白い砂浜であり、沖縄戦と米軍基地の沖縄であった。

他方でKはわたしに東京人の良質の部分を勝手に見出していた。なんと表現していたのか、今となっては正確に思い出せないが、それまで彼が出会った東京人(その中には地方出身者も多く含まれていただろう)との比較から、東京人的な資質の理想像を追い求めていた節がある。

編集プロダクションを辞めた後も仕事が長続きしなかったKは、やがて職に就くことを完全にあきらめてしまった。稼ぐための仕事につくことに順応できなかったのだ。

その心情がわたしには理解できた。私も稼ぐための仕事がいやでいやで仕方なかったから。だが食うためには働かねばならないと凡庸にやり過ごしていただけだ。

しっかり者のMとの同居生活だからこそ、そのひきこもりは可能だったと状況的にはいえるが、わたしはそれをうらやんだことはなかった。Mがどのように思っていたのか、詳しい事情までは分からなかったが、彼女はそんなKとの生活を静かに過ごしていた。

「・・・は偉いよなあ」。Kは電話口で何度かそうつぶやいたことがあった。稼ぐための仕事を続ける私に対する他意のない言葉の投げかけであったはずだ。きっとそうできない自分を何度も何度も責めていたことだろう。

とにかくわれわれは電話で語り合った。たいがいはKからかけてきた。お互いにとって、それは他と比較できない貴重な時間であった。

そのあいだ、時折、沖縄の風が吹いていたのだと、今激しく追想している。  

Posted by 24wacky at 23:21Comments(3)沖縄の風

2013年10月15日

沖縄の風 その4

東京は暑いとは聞いていたが実際暑かった。8月の終わりとはいえ、都会の蒸し暑い夏が滞っていた。兄の入院する大学病院へ通う商店街で、ローカル線を経由する懐かしいはずの駅のホームで、人々はうんざりしたようにこちらからあちらへ移動していた。「沖縄も暑いでしょ?」と言葉をかけられるとこう答えた。暑さの質が違う。東京の暑さは下から照り返す不快な暑さ。沖縄の暑さは太陽が確実に体力を奪う暑さ。でも沖縄の風が吹いている。


「沖縄の風が吹いている」。そのせりふを聞いたのは、11年前、急性くも膜下出血でKがこの世から去っていったときのことだった。葬儀を終え、KとパートナーのMが生活を共にしていた世田谷のアパートに寄った。何度となく訪れたその2DKの部屋には、Kのご両親をはじめ親族が集まり、疲れた心身をしばし休めていた。Kは宮古島出身だった。親族の多くは沖縄本島に移り住んでいたが、それぞれ突然の訃報を聞き、遠い南の島から駆けつけたのだ。

なんだか不思議な感じがした。東京の広くはないアパートに沖縄の親族が集まり、しかもその部屋の主が不在であるという光景は。

一人息子に先立たれたお父さんとお母さんの無念さと心労を気にかけながら、一同はやがて部屋を出た。二階から階段を降り、恐らく二度と訪れないであろうアパートを前にして、皆、なんとはなしに歩を止めたとき、Kの姉(長女)がつぶやいた。

「沖縄の風が吹いている」

誰も応じる言葉を発しなかったが、みなその言葉に納得している様子が伝わった。

息子を、弟を奪った得体の知れない東京という街に対する可能なかぎりの防御として、少なくとも自分たちが集まっているそのあいまには、異質な沖縄の風が吹いている、そしてそれが自分たちを守ってくれているのだと、お互いに言い聞かせることで慰撫しているように、彼らにとって異質なわたしには聞こえた。そういわれると、確かにそのように思えてならなかった。


母と妹と連れ立って兄を見舞うことを数日繰り返し、東京の不快な暑さにさらされながら、わたしは沖縄の風を想った。そして沖縄に戻ってからというもの、沖縄の風に敏感になりすぎている。恍惚として切ないほどに。

関連記事:
2002年旅日記その9  

Posted by 24wacky at 21:33Comments(0)沖縄の風

2013年10月14日

沖縄の風 その3

この調子で東京へ行ってからの様子を仔細に書く勢いであったが、はたと手が止まってしまった。自分はいったいなにを書きたいのか?日記を書きたいのか?記録を残したいのか?他人から同情してもらいたいのか?そんな問いが断続的に襲い、どうしてもかき消せない。

いや、書くことで楽になりたかったのではないか。突然起こった異変に対する鬱屈した思いから。そうに違いない。書くことで自分をとりもどす、精神の平静をつかむ。そういったことがこれまでにもあったからだ。

しかしながら、今回はそういうわけにはいかないようだ。書いてはみたものの、いっこうに鬱屈は晴れない。あいにく効果は薄いらしい。

さて、どうしよう?とりあえず・・・


東京から沖縄へ戻ってからのOAMのMLへの投稿。


兄のことでしばらく東京の実家に戻っていましたが、日曜夜に戻ってきました。
遅くなりましたが、以下、今後のOAMの活動にも関わってくるかもしれないこと
なので、報告します。

兄はここ数年透析治療を続けていました。今回その透析中に脳出血を起こし、
そのまま緊急手術をすることになりました。

私が駆けつけた29日(木)は術後翌日でした。担当医師の説明によると、出血を
取り除くのが手術の目的であり、それには成功した。しかし、左半身麻痺となり、
今後リハビリを続けていくことになるが、麻痺の症状が強いので、元には戻らな
いと覚悟したほうがよいとのこと。

それから毎日面会に行きました。頭にメスを入れる大きな手術の後、兄は意識が
しっかりとしてくると、痛みや喉の渇きをろれつのまわらない口で訴えるように
なりました。今はまだ手術後の痛みに耐えるので精一杯かもしれませんが、51歳
という若さでさぞかし無念だろうと、こちらも忸怩たる思いにかられます。

実家はもともと母子家庭の3人兄弟で、下には嫁に行った妹がいます。77歳にな
る母は、昨年それまでやっていた喫茶店を「これ以上体がついていけない」と突
然閉めてしまい、耳が遠くなる、体調不良を訴えるなどそれ以降目に見えて老い
が深くなっています。今回も様々な事務的な処理の大部分は私ひとりでやりました。

今後兄と母のケアをする自分の役割について、混乱した頭で考えざるを得ません
でした。そのために東京に戻ること、そのための仕事は果たしてみつかるだろう
か、できれば自営業、自由業であれば二人のケアもできるが・・・などと、実家
の兄の部屋で眠れぬ夜に思いをめぐらしました。

ということで、私自身の精神状態もそのことに関わることが多く、他の活動など
になかなか頭がまわりません。しばらくそんな状態が続くかもしれず、皆様にも
ご迷惑をおかけすることもあるかと思います。あらかじめお詫び申し上げます。
  

Posted by 24wacky at 21:16Comments(0)沖縄の風

2013年10月13日

沖縄の風 その2

翌日、バタバタと東京行きの準備をしながら、Mさんへ電話をいれてみた。多忙にもかかわらず、いろいろと調べてくれたMさんによると、結局マイルは使えないらしい。ということで、航空会社にあたって予約までしてくれていた。貧困状態にあるこちらを慮って旅費を用立ててくれるというのだ。

実はMさんからは、OAMに対して、私個人に対して、これまでも何度となくご支援をいただいていた。それだけでも大きすぎるこころざしであるが、さらに今回もとなるとさすがに躊躇せざるをえない。しかし、これからどんな展開になっていくか分からないことが頭をよぎり、お言葉に最大限甘えさせていただくことにした。迷う時間もなかったこともあり。

沖国大前にMさんと待ち合わせた。Tシャツ姿で現れたMさんの痩躯を目の当たりにし、1月にMさんを襲った脳内出血の「その後」を改めて知らされる思いがした。「一歩間違えば」Mさんとて無事ではなかったかもしれないのだから。

Mさんのご厚意に包まれるような感情と、なにか不吉な予感がない交ぜになった目の前の光景、沖国大前の通りが一瞬止まったような気がした。「決して他人事ではない」」というMさんから促されるように、那覇空港へ向かった。
  
タグ :沖縄の風


Posted by 24wacky at 19:57Comments(0)沖縄の風

2013年10月12日

沖縄の風 その1

ほぼ放置状態になっていたこのブログを再開する。OAMを始めてから3年間滞ってきたわけで、前回の投稿からはおよそ1年ぶりの投稿となる。更新できなかった理由は、OAMを始めて余裕がなくなったからだ。自分のコンテンツをすべてOAMサイト上に集中させるためにブログまで手が廻らなくなったわけだ。

ではなぜ再開するのか?それはここ一ヶ月ほどに起こった身辺の変化によるものだととりあえずいっておく。まずはそのことから書くことにしよう。


8月下旬のある朝、東京の親戚から突然電話がかかってきた。兄が脳出血で緊急入院した。脳だけでなく心臓にも影響がでている。まずは心臓の手術をする必要があると。「母から聞いたばかりで詳細は分からないが」とのことで、容体がどれほどのものなのか判断できかねる情報であった。

私は即実家の固定電話に電話をしてみたが、何度かけてみても不在であった。「きっと病院に駆けつけているのだろう」と、携帯電話を持たない母の姿を想像しつつ、焦りをもみ消そうとした。

結局母が電話をとったのは、夜10時を過ぎた頃だった。「つい先ほど病院から帰ってきたところだ、一日中外で待たされ疲れてしまった」とこぼす母から、ようやく兄の容体を聞き出すことができた。母の話は親戚からの第一報とおおよそ同じ内容であった。ただし、ところどころ不鮮明な部分がある。結局のところ、どれほどの深刻さなのか、判断しきれないのがやっかいだ。それ以上情報整理しても埒が明かないことが分かった私は、次の日東京へ立つことを決めた。

たまたま別件でメールのやりとりをしていたMさんにこのことを短く伝えると、Mさんからほどなく返事がきた。「同じ立場なのでよく分かる。貯まっているマイルで航空券を手配出来るのではないか。必要なら遠慮なくいってほしい」と。
  

Posted by 24wacky at 23:38Comments(0)沖縄の風