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2018年02月26日

『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル 〜最期に死ぬ時。』関口祐加

『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル 〜最期に死ぬ時。』関口祐加

 アルツハイマー型認知症となった実の母を対象に明るいタッチで捉えたドキュメンタリー・シリーズのいよいよ「ファイナル」。1作目の『毎日がアルツハイマー 』では認知症の実態を、2作目の『毎日がアルツハイマー2 』では当事者を尊重するケアの手法としての「パーソン・センタード・ケア」に焦点を当てた。今作では人が最期に死ぬ時の意味を問うている。

 それは関口監督自身が股関節の手術を経験し、それまでは介護する側だった自らの老いと死をリアルに意識するようになるという新たな展開からきている。同時にそれは母親を介護する責任の重さを痛感させる出来事でもあった。その入院時に知り合った山田さんという女性が緩和ケアで最期を迎える。誰にでも訪れる死。しかし最期に死んでいく時に何が起こるのか。その実態が知りたい。

 映画はさらに松山市の 「託老所 あんき」の開放的な空間や、スイスの自死幇助団体の医師へのインタビューなどを紹介し、人の最期には選択肢があることの重要性を示唆する。

 上映後FaceTimeを利用したトークで参加した関口監督は、今回の制作で得た新たな気づきについて「自分のために死んでいくこと」と力を込めて語った。自分が最期にいかに死ぬかについて自覚的な関口監督と、本人曰く「死ぬことを忘れてしまった」母親との対比が描かれている点で、今作は過去2作と異なる。母親自身が「自分のために死んでいくこと」を介護する側の「私」の押しつけなしにどのようにサポートしていくのか。トークでは「意思の疎通と覚悟」だと関口監督は簡潔に語った。それをテーマにした決して簡潔にはならないだろう次回作が観てみたい。私自身の課題でもあるので。
 
『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル 〜最期に死ぬ時。』
モニター試写会
監督:関口祐加
場所:サイボウズBar
2018年作品


2014/08/04
『毎日がアルツハイマー2』
2014年企画・製作・監督・撮影・編集:関口祐加プロデューサー:山上徹二郎ポレポレ東中野で『毎日がアルツハイマー2』を観た。認知症の母にカメラを向け、決して深刻にならず掛け合い漫才のような笑いに包まれた前作『毎日がアルツハイマー』(2012年)の続編。その笑いの感覚は今作でも健在である。と同…

2017/02/17
『解放老人 認知症の豊かな体験世界』野村進
 山形県にある佐藤病院の重度痴呆症病棟の長期取材である。半分ほど読み進めたところで、先を読む意欲が湧かないのはなぜだろう。 絶叫したり、大暴れしたり、大便を手づかみで投げつけたりする女性につかまれ、著者はその力強さの源泉を知りたいと思う。それが見つかれば、「認知症患者」が「新たな姿で立ち上…

2017/01/26
『魅力あふれる認知症カフェの始め方・続け方』
 認知症カフェとは、認知症当事者や家族が気軽にお茶を飲みながら、不安や悩みを打ち明けることができる場所として、近年ひそかに注目を集めている。厚生労働省による「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)」(2015年)が自治体に開設を促したことで、以降増加傾向にある。本書をはじめ、ガイドブックも数種…

2015/01/02
『パーソナルソング』
元日、初雪舞う中、渋谷のイメージフォーラムに『パーソナルソング』を観にいく。介護施設でひとりぽつりと車椅子にうなだれる認知症当事者に思い入れのある歌(パーソナルソング)を聞かせると、見違えたように生気が戻った反応を示す。じゅうぶんありえることだと想像はつくが、それがあたかもアルツハイマー病を治…

2014/12/02
書評『治さなくてよい認知症』
 認知症の母を持つ私にとって、いや、高齢になればすべての人が認知症になる可能性を考えれば、社会にとって必須の本である。それは、認知症(本書では、高齢のアルツハイマー型認知症の軽度から中等度を指す)に対するこれまでの理解が、まったくひどいものであり、いまだにそうである現状が本書を読むと痛切であるから…

2014/08/05
書評『ブログ 認知症一期一会 認知症本人からの発信』
 初期のアルツハイマーと認定された母との同居をこの春から始めた私は、いったい本人はどんなことを考えているのだろう、どんな感情をもっているのだろうという疑問と興味を持たざるを得なかった。ほとんどの時間を家の中で過ごし、横になっているかテレビを見ているだけの状態は、世間一般の見方からすれば生活に後ろ…

  

2018年02月25日

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』 松岡錠司

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』 松岡錠司

 松岡錠司の手堅い演出とそれぞれ印象深い配役。オダギリジョーと樹木希林の組み合わせにグッとくる。北九州と東京の移動が劇として駆動する力があればさらによかった。

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
監督:松岡錠司
脚本:松尾スズキ
原作:リリー・フランキー
出演:オダギリジョー/樹木希林/内田也哉子/松 たか子/小林薫

Gyao配信期間:2018年2月24日~2018年3月9日
  


2018年02月24日

『ルポ川崎』磯部凉

『ルポ川崎』磯部凉

 第1話のタイトルにあるように、この町で生きることはディストピアといって差し支えないほどの、この本に登場する主に若者たちは壮絶な生を過ごしている。それはサウスサイドと自他共に呼称し、行政として括られた一画をさらに差別化する居場所としてある。それを読む多摩川河川敷の向こう側への私の眼差しは冷水を浴びせられる。貧困の連鎖という生を受けた不良少年たちからヒップホップの当事者性の弾が飛ぶ。エッジは淀んでいる。

『ルポ川崎』
著者:磯部凉
発行:CYZO
発行年月:2017年12月26日


2018/02/05
『新橋アンダーグラウンド』本橋信宏
 「新橋方面近道」と表示された薄暗い通路に足を踏み入れるには勇気がいるようだ。奥を覗いても人の気配がしない。有楽町駅から新橋駅方面に高架下を直行するその道は、もともと飲食街であったがほとんど廃墟と化している。その途中で不気味な女の壁画が不意をつく。「アンダーグラウンド」の導入部としては完璧であ…

2017/02/28
『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』上間陽子
 「裸足で逃げる」とは、なんと沖縄の「現実」に刺さるタイトルだろう。あの亜熱帯の夜の、生暖かい、しかしひんやりとしたアスファルトを思わず踏みしめたときの素足の触覚が、混濁したいくつものエモーションを拓き、一条の微かな光線の可能性を喚起させる。コザのゲート通りをゲート側から捉えた夜景の表紙写真と…

2017/01/22
『蒲田の逆襲 多国籍・多文化を地でいくカオスなまちの魅力』
 「危ない」「汚い」「騒がしい」というネガティブなイメージをもたれる蒲田を、地元愛溢れる著者が「そうではなく、こんなに魅力的なのです」と「逆襲」していく。そしてそれは成功している。丹念なリサーチによって、地元の私でも「え、そうだったんだ!」と初めて知る驚きの情報もあり、カオスな地域性はわかって…

2016/07/24
『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』
 先日友人の誘いで谷中にある沖縄料理屋「あさと」を訪れた際、店舗の入る木造アーケードに関心が向いた。それは地元にもかつてあった「マーケット」の形状をいかにも思い起こさせるようであったから。初音小路と名づけられたその飲屋街は、夜になれば各々の店の灯で明るくなるものの、先に昼間訪れたときには薄暗い…

  
タグ :川崎多摩川


2018年02月21日

『ロスト・ハイウェイ』デヴィッド・リンチ

『ロスト・ハイウェイ』デヴィッド・リンチ

 『トゥルー・ロマンス』の・よ・う・なパトリシア・アークェットが『ワイルド・アット・ハート』に hey baby...と囁けば、いつしか『タクシー・ドライバー』のシビル・シェパードが『ラスト・ショー』の・よ・う・にイコンと化す。そんなスキゾな勢いで北野武の『Takeshi's』にデヴィッド・リンチが嫉妬したはずはないが、デヴィッド・ボウイのテーマ・ソングはすこぶるアヴァンギャルドだ。

『ロスト・ハイウェイ』
監督&脚本:デヴィッド・リンチ
出演:ビル・プルマン/パトリシア・アークェット
1997年作品

Gyao配信期間:2018年2月14日~2018年2月27日

  


2018年02月18日

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治革命』佐藤嘉幸 廣瀬純

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治革命』佐藤嘉幸 廣瀬純

 ドゥルーズ=ガタリ連名による著作『アンチ・オイディプス』(1972年)、『千のプラトー』(1980年)、『哲学とは何か』(1991年)は、いずれも資本主義打倒のための書である。三作は利害の闘争から欲望の闘争へという戦略(ストラテジー)において共通するが、戦術(タクティクス)が各々で異なる。『アンチ・オイディプス』ではプロレタリアによる階級闘争が、『千のプラトー』ではマイノリティによる公理闘争(諸権利や等価交換を求める闘争)が、そして『哲学とは何か』では動物(マイノリティ)を眼前にした人間(マジョリティ)による政治哲学(哲学の政治化)がその主戦場に選ばれる。 

 しかし、それら自体では資本主義打倒に不十分である。『アンチ・オイディプス』では、ブルジョワジーからプロレタリアートが割って出る「レーニン的切断」のなかで、さらにプロレタリアートから分裂者(スキゾ)が割って出る「切断の切断」が遂行され、階級外の「主体集団」が形成される必要がある。『千のプラトー』では、マイノリティがマジョリティあるいはその下部集合へと自らを再領土化しようとする公理闘争のなかで、「マイノリティ性への生成変化」を経なければならない。『哲学とは何か』では、「人間」としてのマジョリティは、「動物」あるいは「犠牲者」としてのマイノリティを眼前にして、人間であることの恥辱を感じ、「動物になる」過程に入らなければならない。

 以下、ここでのマジョリティ/マイノリティという議論を、私の唯一の関心事である沖縄-ヤマトの二項対立構造に照らし合わせてみる。

 『千のプラトー』で論じられるマイノリティ性への「生成変化」(devenir)は「・・・・になること」と言い換えることもできる。ドゥルーズ=ガタリは「黒人たちも黒人になる必要がある」と宣言したブラック・パンサー党を例に出す。それに倣い、女性たちも女性になる必要があり、ユダヤ人もユダヤ人になる必要があるとすれば、沖縄人も沖縄人になる必要がある、ということになる。 

 なぜ「生成変化」「・・・・になること」が必要かといえば、資本主義によって不等価交換の対象とされたマイノリティが公理闘争によって等価交換の対象としての承認を勝ち取ったとしても、それは資本主義を些かも脅かさないからだ。そこではマイノリティがマジョリティの中に下位集合として新たにカウントされるだけであり、また、新たな不等価交換の対象として別のマイノリティがカウントされるのを妨げることもできない。

 ドゥルーズ=ガタリがユニークなのは、ここでマイノリティとマジョリティによる二重の運動が同時進行すると述べている点にある。『千のプラトー』からの長い孫引きになるが重要な箇所なのでご容赦願いたい。
 
 しかしそうであるなら、ユダヤ人になること、ユダヤ人への生成変化は、ユダヤ人だけでなく非ユダヤ人にも必然的に関わることになるはずだ。女性になること、女性への生成変化だけでなく男性たちにも必然的に関わることになるはずだ。ある意味では、生成変化の主体は常に homme [人間=男性]だと言える。ただし homme がそのような主体となるのは、何らかのマイノリティ性への生成変化に入り、自らのメジャーな同一性から引き剥がされる限りにおいてのことだ。[…]他方で逆に、ユダヤ人たちがユダヤ人になり、女性たちが女性になり、子供たちが子供になり、黒人たちが黒人にならなければならないのは、マイノリティだけが生成変化を始動させる媒体となるからだが、ただし、そうしたアクティヴな媒体となるためにはマイノリティもまた、マジョリティとの関係において規定される集合であることをやめなければならない。従って、ユダヤ人への生成変化や女性への生成変化では、二重の運動が同時に進行すると言える。一方には、一つの項(主体)がマジョリティから逃れる運動があり、他方には、もう一つの項(媒体あるいは代行者エイジェント)がマイノリティから外れる運動がある。不可分かつ非対称的な生成変化のブロック、同盟ブロックが形成されるのだ。[…]女性は女性へと生成変化しなければならないが、この生成変化は人間全体が女性へと生成変化する中でなされなければならない。ユダヤ人はユダヤ人へと生成変化するが、それはあくまでも、非ユダヤ人のユダヤ人への生成変化の直中においてのことだ。マイノリティ性への生成変化は、共に脱領土化された一対の媒体と主体とをその要素とすることで初めて可能になる。生成変化の主体は、マジョリティにおいて脱領土化された変項としてのみ見出され、生成変化の媒体は、何らかのマイノリティにおいて脱領土化する変項としてのみ見出される。
(193〜194ページ)

 マイノリティだけが生成変化を始動でき、マジョリティにはそれができないこと。マジョリティが主体であり、マイノリティは媒体であること。マイノリティは生成変化を始動できるが、それはマジョリティが「自らのメジャーな同一性から引き剥がされ」、マイノリティ性に入ることと不可分であること。よってマイノリティがマイノリティになることとマジョリティがマイノリティに入ることは同時進行で初めて成り立つこと。それが資本主義を下部から掘り崩す戦術であると『千のプラトー』の著者はいう。

 なぜマイノリティ性への生成変化が資本主義を打倒する戦略となるのか。マイノリティ性へと生成変化することにより、マジョリティ/マイノリティという二項対立が解消され、万人がマイノリティ的になることで、一つの主体的集団が形成される。その限りにおいて、国家装置は機能不全に陥るからである。

 付言すれば、ドゥルーズ=ガタリはマイノリティによる公理闘争を決して軽視してはいない。それは資本主義を掘り崩す運動として必然的である。だが、それだけでは足りない。公理闘争という「切断」をさらに「切断」する必要がある、そのための生成変化である。

 沖縄による公理闘争とはいうまでもなく、押し付けれらた米軍基地に対するこれまでのあらゆる運動をさす。様々な市民運動、選挙、「県外移設」論、即時撤去論、独立論などなど。ドゥルーズ=ガタリを読む著者によれば、これらは皆資本主義を掘り崩す運動の経るべき道として不可欠であり必然的である。

 しかし、同時に、(資本主義を打倒するためには)「切断の切断」が必要である。マイノリティ性への生成変化が。初めに、沖縄人が沖縄人になることが。次に、非沖縄人(「日本人」)が沖縄人になることが(沖縄の運動が「資本主義打倒をスローガンに掲げることはほとんどない。それはそれとして論じるべき問題だがここではひとまず措く)。

 ところで、沖縄人が沖縄人になるとはどういうことか。「日本人」が沖縄人になるための「切断の切断」とはいかなる営為か。その問いと「結論」で展開される著者の問題意識は重なる。そこでは現在のこの国の闘いに論が展開され、福島と共に「琉球」が高橋哲哉批判も含みつつ論じられる。私がそれらを吟味するのは、これからドゥルーズ=ガタリの三作を読んでからになるだろう。

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治革命』
著者:佐藤嘉幸 廣瀬純
発行:講談社選書メチエ
発行年月:2017年12月11日


2018/02/03
『資本の「力」とそれを越える「力」』柄谷行人
 私が知る限り、柄谷行人がNAMについて公的な場でまとまった話をするのは、2002年のNAM解散後初めてではなかろうか。なぜ今になって語るかといえば、中国のアクティビストから『NAMの原理』中国語版を出したいという打診があり、NAMについて改めて考えることになったからだという。つまり、現実からの要請に対する応…

2017/09/18
デモクラシーを越える無支配のシステム『哲学の起源』柄谷行人
 「民主主義ってなんだ?」と問われる前に、柄谷行人はそれに答えていた。哲学に関するいくつかの通説を刺激的に覆し、この間探求を続けてきた資本と国家を超える交換様式と遊動性の理論に強引なまでにつなげるというやり方で。 デモクラシーの語源はdemos(大衆・民衆)とcracy(支配)、すなわち多数決原理に…

2017/02/03
『世界マヌケ反乱の手引書 ふざけた場所の作り方』松本哉
「マヌケ」とは何だろう?本書を一読後、マヌケについての思想的意味を問うというマヌケなことを考えてみる。それくらい、本書にはマヌケという言葉が頻出する。しかし、その意味はあいまいである、当然ながら。とりあえず、グローバル資本主義の「敗者」が抵抗の意思を現そうとするその姿勢が、客観的態度からすれば…

2016/12/08
『アズミ・ハルコは行方不明』
 アズミ・ハルコ(蒼井優)を中心とする日常と愛菜(高畑充希)、ユキオ(太賀)、学(葉山奨之)の日常。後者の時制ではすでにアズミ・ハルコは行方不明になっているが、アズミ・ハルコの日常とのカットバックが繰り返される。それは回想という手法ではない。ユキオと学のグラフィティ・アートのユニット”キルロイ”…

2016/12/05
『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』
 2015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチは先日の来日講演の中で、福島第一原発事故の被災地を訪ねたことに触れ、「日本社会には抵抗の文化がないのはなぜか」と問うた(「日本には抵抗の文化がない」 福島訪問したノーベル賞作家が指摘 THE HUFFINGTON POST  2016年11月29日付)。本書…

2016/11/18
『可能なる革命』
 2012年10月、普天間基地への米軍機オスプレイ強行配備と阻止行動の敗北は、私自身にとって画期的な出来事としてある。沖縄オルタナティブメディア(OAM)として一連の顛末を現場中継し、目撃し、阻止行動に加わった。阻止行動は排除され、翌日オスプレイは空高く飛来し、沖縄の地に着地した。その時、私は自分…

2016/03/17
高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(下)
 このような岡本の倫理からすれば、高橋氏の「県外移設」論に対して、その姿勢は本土の知識人として美しいが、「沖縄に住む人間が、県外移設に反対することは、みずからの担っている過酷な状況を拒否するとともに〜本土側からの県外移設論に同調するわけにはいかないのだ」といえる。 ここで岡本は「沖縄に住むぼく…

2016/03/16
高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(中)
 「自分の生命を守る」ことは、その人の経験によって起こされる結果がどのようなものであれ、それに左右されずに従うべき法則である。対照的な「私」と比べてみると理解しやすいだろう。「痛くないだろうか。逮捕されたらどうしよう…」と「私」が恐怖心に支配されるのは「心の傾き」からそうするのであって、それは義務に…

2016/03/15
高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(上)
「『沖縄の米軍基地』を読む」への応答(上)(2015年11月24日付、沖縄タイムス紙文化面)で高橋哲哉氏から拙稿へご指摘いただいた点について応答したい。 はじめに、「基地を引き取れ」だけではない「沖縄からの問いかけ」を指すものとして、「殺すな!」「殺されるな!」という、誰だかわからない他者から…

  


2018年02月11日

『そこのみにて光輝く』呉美保

『そこのみにて光輝く』呉美保

 情感の発露の前のタメ。呉美保はそこのみに光り輝かせる。ほとんど気づかないような、それでも誰もが希求してやまない時間。

 劇場で観たとき、菅田将暉の輝きに目が眩むほどだった。高橋和也もいい役者になった。

『そこのみにて光輝く』
監督:呉美保
出演:綾野剛/池脇千鶴/菅田将暉/高橋和也/火野正平
2014年作品

Gyao配信期間:2018年1月29日~2018年2月11日

  


2018年02月06日

『17歳』フランソワ・オゾン

『17歳』フランソワ・オゾン

 17歳の主人公イザベル(マリーヌ・ヴァクト)が売春をする心の動きについて、フランソワ・オゾンはインタビューにこう答えている。「そこでは、性はまだ感情と密接な関係で結ばれていないんだ」(web DICE フランソワ・オゾン監督が新作『17歳』で思春期の自我とセクシャリティをテーマにした理由 )。それを映画として表現できることの新鮮さに驚きたい。クライマックスのシャーロット・ランプリングとのホテルの「密会」シーンは、まさにカタルシスというしかない。

『17歳』
監督・脚本:フランソワ・オゾン
出演:マリーヌ・ヴァクト/ジェラルディン・ペラス/フレデリック・ピエロ/シャーロット・ランプリング
2013年作品

Gyao配信期間:2018年1月30日~2018年2月12日
  


2018年02月05日

『新橋アンダーグラウンド』本橋信宏

『新橋アンダーグラウンド』本橋信宏

 「新橋方面近道」と表示された薄暗い通路に足を踏み入れるには勇気がいるようだ。奥を覗いても人の気配がしない。有楽町駅から新橋駅方面に高架下を直行するその道は、もともと飲食街であったがほとんど廃墟と化している。その途中で不気味な女の壁画が不意をつく。「アンダーグラウンド」の導入部としては完璧である。

 闇市時代の面影のこる煉瓦造りのガード下、ほろ酔いサラリーマンがインタビューされる駅前のSL広場、再人気のグルメ・ナポリタン、昭和の薫りがぷんぷんする飲屋街。これらおなじみの符牒に加えて、著者は細分化され必ずしも目立たない人びとの営みを追いかけ記録していく。オヤジの聖地・ニュー新橋ビルの妖しいラビリンスの蠢きをレポートしたり、まぼろしの成人映画会社「東活」の軌跡を再確認したり、ガード下の新聞配達従業員食堂のドラマを発見したり。徳間書店を起こした傑物・徳間康快とスタジオジブリ代表・鈴木敏夫の意外な関係は、なかでも読み応えがある。

 エスタブリッシュなはずがはみ出す猥雑なおもかげ。その緊張と弛緩が他人を飲み込み、そして吐き出す様を、著者は丹念に追う。

『新橋アンダーグラウンド』
著者:本橋信宏
発行:駒草出版
発行年月:2017年11月25日


2017/01/22
『蒲田の逆襲 多国籍・多文化を地でいくカオスなまちの魅力』
 「危ない」「汚い」「騒がしい」というネガティブなイメージをもたれる蒲田を、地元愛溢れる著者が「そうではなく、こんなに魅力的なのです」と「逆襲」していく。そしてそれは成功している。丹念なリサーチによって、地元の私でも「え、そうだったんだ!」と初めて知る驚きの情報もあり、カオスな地域性はわかって…

2016/07/24
『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』
 先日友人の誘いで谷中にある沖縄料理屋「あさと」を訪れた際、店舗の入る木造アーケードに関心が向いた。それは地元にもかつてあった「マーケット」の形状をいかにも思い起こさせるようであったから。初音小路と名づけられたその飲屋街は、夜になれば各々の店の灯で明るくなるものの、先に昼間訪れたときには薄暗い…

  
タグ :新橋


2018年02月04日

『私の男』熊切和嘉

『私の男』熊切和嘉

 劇場公開時に観た記憶として、紋別市の雪の情景、流氷の音響と共に、ひたすら浅野忠信と二階堂ふみの交歓が強い力を持つようだった。後半の東京時代はほとんど忘れていた。今回の再見でやはりその部分が弱いことが確認された。紋別時代には大塩という老人(藤竜也)が二人にとって「影」であり共同体が強いる「力」としての機能を果たしていたのに対し、東京時代にはそのような相関物がない。それがないことがカタルシスとなりえるのかが映画版としての挑戦だったのかもしれない。原作はそこから始まり時系列を過去に遡っていく構成になっているということなので。

『私の男』
監督:熊切和嘉
出演:浅野忠信/二階堂ふみ/高良健吾/藤 竜也/河井青葉
原作:桜庭一樹
2013年作品

Gyao配信期間:2018年1月27日~2018年2月26日


  


2018年02月03日

『資本の「力」とそれを越える「力」』柄谷行人

現代思想 2018年1月号 特集 現代思想の総展望2018

 私が知る限り、柄谷行人がNAMについて公的な場でまとまった話をするのは、2002年のNAM解散後初めてではなかろうか。なぜ今になって語るかといえば、中国のアクティビストから『NAMの原理』中国語版を出したいという打診があり、NAMについて改めて考えることになったからだという。つまり、現実からの要請に対する応答責任という意味あいがある。また、資本と国家を揚棄する社会運動を求めるということは、中国にそれだけグローバリズムが浸透したことを、それは逆に意味する。この論考は昨年11月25日開催の汪暉を基調講演者として招いたシンポジウムでの報告である。だから本書にも掲載された汪暉の講演と呼応している。

 ここで語られているのは、そもそもNAMとは何かという概論と、NAM解散後の理論的改定についてである。その改定は具体的には、中央で全国的な電子的地域通貨を作ったことの失敗についてであり、そこからインターネット上でのコミュニケーションはアソシエーションとは無縁であるという認識が生まれる。その後のSNSの発達についても、それは交換様式Cがもたらす空間でしかなく、資本と国家を揚棄するアソシエーションにとって障害でしかない、アソシエーションの基盤は「小さな地域」にしかないのだ、と。

 2002年、私は抜本的な人生のシフトチェンジを起こし、東京を脱出し次なる地を求めて移動していた。と同時に、NAM会員としては地域通貨Qの普"Q"の旅をも兼ねていた(2002年旅日記 )。それはNAMとQを介してつながった会員をあてに、Q決済による一宿一飯の旅を実証実験するという「マヌケな」企てであった。そのとき思ったことがある。それはQを普及するという初動の目的は、いく先々でのネットワークにつながることの愉しさに霞んでしまうという内的事実であった。この快楽をあからさまにすることは、当時のNAM-Qの理論的マッチョ空間では支持を得られる雰囲気がなく、私自身が「自分はなんとNAM的でない凡庸な会員なのだろう」と自省にかられ、肩身の狭い思いをした覚えがある。しかもこの時は、NAM-Q紛争のまっただ中であったのだから。

 しかし今思えば、このときのネットワークにつながることの愉しみこそアソシエーションの萌芽であったのだ。それを「資本と国家を揚棄する」アソシエーションに転換させられるかいなかは、NAM原理にある超出的闘争と内在的闘争双方の実践次第である、と。

 私はその後NAM的なもののアソシエーションの可能性を求めて沖縄へ移動した。沖縄での生活は一言ではいえない。だが、沖縄-アソシエーションの「力」は、沖縄を離れた今こそあるのではないかと直感している。

『資本の「力」とそれを越える「力」』
「現代思想 2018年1月号 特集 現代思想の総展望2018」所収
著者:柄谷行人
発行:青土社
発行年月:2018年1月1日


2018/01/08
『坂口安吾論』柄谷行人
 柄谷行人はこれまで常に「え?どうしてこんなふうに読めるの?そんなこと書いてないだろう!」といった驚くべき読み=書きをわれわれに示してきた。漱石然り、マルクス然り、カント然り、フロイト然り、柳田國男然り。私は各々の原典にあたり、難儀して読み通し(たりできなかったり)、柄谷独自の読みとの違いを再…

2017/12/17
柄谷行人書評集
 著者の散在したこれまでの書評を集めた本書は三部構成になっている。さしずめ晩期・早期・中期という区分をさせてもらうが、時系列が攪拌されている。そこがニクい。私はⅡ部に不意打ちを食らった。若き文学批評の言葉、レトリックの切れ味の鋭さに。あとがきにはこう書かれている。それら(ブログ主注・Ⅱ部・Ⅲ部…

2017/09/20
ソクラテスの謎とイソノミア『哲学の起源』柄谷行人
 ソクラテスが告発された理由は、要約すると次の三点になる。第一に、ポリスが認める神々を認めない、第二に、新しい神(ダイモン)を導入している、そして第三に、若者たちを堕落させている。これらの嫌疑はまったく無根拠とはいえない。 しかし、ソクラテスがアテネの社会規範に対して挑戦的な存在とみなされ…

2017/09/19
イオニアの自然哲学『哲学の起源』柄谷行人
 「自由」が「平等」をもたらすイソノミア。その無支配という概念を生んだイオニアではどのような哲学があったのか。それを語るには主としてプラトンやアリストテレスによる史料が残るのみであり、彼らの見方がそのまま哲学史の通説となってきたことに注意すべきである。いわく、イオニア学派が外的自然を探求したの…

2017/09/18
デモクラシーを越える無支配のシステム『哲学の起源』柄谷行人
 「民主主義ってなんだ?」と問われる前に、柄谷行人はそれに答えていた。哲学に関するいくつかの通説を刺激的に覆し、この間探求を続けてきた資本と国家を超える交換様式と遊動性の理論に強引なまでにつなげるというやり方で。 デモクラシーの語源はdemos(大衆・民衆)とcracy(支配)、すなわち多数決原理に…

2017/02/09
『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』
 この20年とは、かつての文学批評の仕事をやめて哲学的なそれへ移る時期に重なる。しかし、その「変遷」が時系列でグラデーションのように読み取れる、というわけにはいかない。それが本書の魅力といえる。 ところで私が柄谷行人を読み始めたのは、記憶に間違えがなければ、当時住んでいた田無の図書館で借りた…

2010/02/28
世界同時革命と永遠平和
「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモ その42季刊『atプラス』連載「『世界共和国へ』に関するノート(14)」(柄谷行人著)はいよいよ最終回で「世界同時革命」と題される。

2009/07/06
沖縄アソシエーショニズムへ 25
『ポスト新自由主義 民主主義の地平を広げる』(山口二郎編著 七つ森書館)の中で、柄谷行人は2003年にイラク戦争が始まったとき、各国では大規模なデモが起こったのに日本では沖縄を除いて起こらなかった、日本が《デモも起きない不気味な専制国家》になってしまったのは何故かという問いかけをしている。これこそ…