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2017年02月09日

『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』

『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』

 この20年とは、かつての文学批評の仕事をやめて哲学的なそれへ移る時期に重なる。しかし、その「変遷」が時系列でグラデーションのように読み取れる、というわけにはいかない。それが本書の魅力といえる。

 ところで私が柄谷行人を読み始めたのは、記憶に間違えがなければ、当時住んでいた田無の図書館で借りた『日本近代文学の起源』が最初。ということは、90年代前半のはず。文学ばかり読んでいた当時の私は、日本文学に関する普遍的な知見を得られると期待して手に取ったのだろう。しかし、難しくてよく分からず挫折して返してしまった。しかし、なんだか気になり、しばらくして再度借りて読むことに。そして衝撃を受けた。文学に対する価値判断を根こそぎ破壊されながら。つまり、私は柄谷の「移動」の渦中に、彼がすでに捨ててしまった仕事に出会うという「遅れてきた青年」だったわけだ。

 「変遷」が必ずしも時系列で読み取れないことが魅力ということの意味はこうだ。柄谷によれば、小説というジャンルに特別な意味があった時代は1980年代で終わり、中上健次の死(1992年)でそれを実感し、「近代文学の終わり」というタイトルの講演時(2003年)には、柄谷はすでに文学批評の仕事をほぼ手放していいた。見落としがちだが、その間に、NAMという運動の実践に「移動」し(そして私も含め失敗し)、あわせてその理論書『トランスクリティーク』を完成させている事実である。講演「近代文学の終わり」は、その前ではなく後なのだ。

 あるいは、「日本精神分析再考」(2008年)は、ラカンの精神分析からおなじみの日本近代文学の「言文一致」論に展開する文学批評といってよいし、中上健次論としての「秋幸または幸徳秋水」(2012年)や、柳田國男論としての「山人と山姥」(2014年)は言わずもがなである。《はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くした》(40ページ「近代文学の終わり」)と突き放すにもかかわらず、柄谷は文学批評的な態度を時に復活させる。

 それはなぜかというのが本書ではよくわかる。その都度その都度、外部から要請されて、それに応答しているからである。講演会主催者からのテーマ設定であったり、出版社からの定本企画であったり、という経緯で。

 このことを別の角度からみる。話題が幅広いこの講演集成では「抑圧されたものの回帰」という概念が頻出する。意識から抑圧されたものは必ず回帰する、そしてそれは脅迫的なかたちをとる、というフロイトの考えである。たとえば、それは「世界史の構造」を論じるなかで、「自由主義的」段階と「帝国主義的」段階が、たんにリニアなものではなく、循環的に反復するという考えとして(「近代文学の終わり」)。たとえば、ソクラテスに対し、アテネの民会に行かずに正義のために戦えと指令するダイモン(精霊)。指令を受けたソクラテスは、広場に行って人々と問答する。ソクラテスが広場に見出したのは、イソノミア(無支配)であり、しかし、ソクラテスは意識的にそうしたわけではないと、柄谷はいう。それが「抑圧されたものの回帰」なのだ(「「哲学の起源」とひまわり革命」)。たとえば、一度は定住した遊動民に、しかしながら抑圧され執拗に残る原遊動性として(「山人と山姥」)。

 つまりはこういうことである。文学批評は柄谷にとって、「抑圧されたものの回帰」である。彼は意識的にそうしたわけではないが、そうしている。

『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』
著者:柄谷行人
発行所:筑摩書房
発行年月:2017年1月10日


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