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2010年04月21日

沖縄アソシエーショニズムへ 45

フリーと互酬制について

以上、『フリー』の論旨を概観した。インターネットが市場を席巻するようになる時代には、情報が主な商品となる。そしてその情報はフリーになりたがる。これからのビジネスを考えるときに、それを無視することはもはや不可能であろう。だからこそフリー〈無料〉からお金を生みだす新戦略を練るべきである。短くまとめるとこんなところだろうか。



そのミソは2つある。基本サービスを無料にして大規模なインターネット市場から顧客を募り、グレードを上げた有償バージョンを提供する。それが全体の五パーセントに達すれば、採算はじゅうぶんとれるというビジネスモデルが一つ(フリーミアム)。次に、人と人との評判や注目を交換するという「非貨幣経済」の空間を無料提供し、消費者になる可能性のある人々を集め、別のサービスを有償提供し、そこから利益を得るというもの(非貨幣市場)。

簡単にいえば、フリーをネタにして大量の消費者予備軍を確保し、広告収入も含めた別のサービスで利益を得るということだ。逆にいえば、多くの人びとが集まるような魅力のある情報(コンテンツ)を作れるということが第一条件となろう。

本書をユニークなものにしているのは、「お金を払わなければ価値のあるものは手に入らない」という通念の否定、言い換えれば、貨幣を介した商品交換が経済のすべてであるという考え方の再考である。さらに「非貨幣経済」を肯定的に評価し、その原動力に「注目経済」と「評判経済」という言葉を当て嵌め、人びとの創造的でフリーな(無償の)社会参加を「経済」としてカテゴライズし直している。

さて、わたしが一言したいのが、「非貨幣経済」とその中の「贈与経済」についてである。土着社会における贈与とお返しに言及した社会学者ルイス・ハイドの『ギフトーエロスの交易』に論拠して、アンダーソンはこう述べている。「それらの文化では誰も贈り物を自分のものにできない。贈り物は善意の象徴であり、人びとのあいだを回りつづけることでそれが保持されるのだ」。

一方、アンダーソンは、同じくハイドによる南太平洋の島の住人の観察に従い、贈与経済を動かしている「力」の根底には利己主義があるとしている。

人々が無償でなにかをするのはほとんどの場合、自分の中に理由があるからだ。それは楽しいからであり、何かを言いたいから、注目を集めたいから、自分の考えを広めたいからであり、ほかにも無数の個人的理由がある。


ここでは、「無償の行為」と贈与経済が混同され、主張が矛盾している。そもそも1984年に出したハイドの著書を、「もっとも古くからある社会習慣の構造を説明しようとした初めての本のひとつ」と賞賛しているが、アンダーソンは古典的なマルセル・モースやレヴィ=ストロースを読んでいないのだろうか?

モースによれば、アルカイックな社会にある互酬制、贈与とお返しを強いている「力」は、人々の善意などではない。では何か?贈与は理解できるとしても、なぜお返しは「強制」されるのか?そこを問うたモースは、贈与とお返しをする、その「モノ」自体に力があるのではないかと考えた。未開人のマウリ族がハウとよぶ呪力が。お返しをしないと、ハウが災いをもたらすのではないかと(レヴィ=ストロースは、モースのこのような態度を非科学的だと批判した)。



共同体と共同体の間には争いが絶えない。だからこそ、贈与は最大の防御としての先制攻撃という意味あいがある。

柄谷行人は、国家とは何か、国家とはいかにして発生するのかをみるために、国家以前の交換様式にあたる。結論から先にいえば、そこにある互酬制の原理が、国家の発生を妨げているのだという。

国家以前の社会構成体は、家族(氏族)を単位としながら、それらの間での互酬交換によって共同体(部族)を形成するとともに、さらに、その外部にある部族との互酬的交換によってより高次の共同体を形成する。しかし、それは垂直的に統合されるのではない。互酬は、単位としての世帯をたんに環節的に組織するだけである。国家が垂直的な成層化であるとすれば、国家以前の社会は水平的な成層化であるといってよい。このような集団は、一定の規模になれば、分裂するほかない。超越的な上位がないために、まとめることができないからだ。

互酬(相互性)は確かに友好的な関係をもたらす。しかし、それは決して融合に向うのではない。逆に、互酬の関係は対立を永続化させる。つまり、各共同体の同一性・凝集性を強めるのである。ゆえに、贈与は両義的である。すなわち、贈与は友好的であるとともに敵対的なのである。
柄谷行人 『世界共和国へ』に関するノート(3)国家以前


互酬的交換は水平的な成層化をもたらす。贈与は友好的であるとともに敵対的である。これらのことは、フリーからお金を生みだす戦略にどのような意味があるのだろうか?あわよくば、私は、フリー〈無料〉からお金を生み出す(マネタイズ)、のみならず、フリー〈無料〉からお金〈資本〉を揚棄するアイデアが欲しいのだが。



















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この記事へのコメント
『フリー』は商業的なイメージが強いせいか、24wackyさんのブログを読むようなヒトたちにはあまり読まれていない気がしますね(あくまで個人的な印象ですが…)。

私にとっては産業史をはじめとする様々な人類の歴史を概観でき、なかなか楽しめる本でした。このあたりがビジネス本らしさであり、wiki的なところと言えるのかもしれません。

さて、私の浅い知識で言いますとレヴィ=ストロースは、貨幣に価値があるから交換されるのではなく、交換される仕組み自体に価値がある…というようなコトを言っていたような気がします。「貨幣」=「情報」と置き換えるとするならば、「情報」に価値があるのではなく、「情報」がやり取りされる仕組みであり「場」に価値があり、重要だと言い換えるコトもできそうな気がします。「場」はリアルとバーチャルを問わず「コミュニティ」とも言えるかな…等々、いろいろ考えてみました。
Posted by じゅげむ at 2010年04月22日 12:15
>じゅげむさん

先日ウェブサービスの仕事をしているある方に、オルタナティブ・メディア事業について相談させていただきました。その方の「ネットをヴァーチャルという言い方をするのは正しくない。パーソナルな場というほうがふさわしい」という指摘が腑に落ちました。本音の欲求、欲望などがせり出すという意味で。
Posted by 24wacky at 2010年04月22日 21:58
おはようございます!

どうやら、リアルとネットと書いたつもりがバーチャルと書いてしまっていたようです。場の持つ性格や交わされる内容を問うのであれば、確かに「パーソナル」という言い方は納得です。勉強になりました。

それで、24wackyさんはそういう「パーソナル」な場をつくっていくというコトなんでしょうかね?
Posted by じゅげむ at 2010年04月23日 09:20
>じゅげむさん

私自身が「ヴァーチャル」という言葉で説明していたので、指摘され納得した次第です。

その方が指摘したことは「パーソナル」な場=商業性が高い=ビジネスに結びつくという論理でした。それを、こちらがやろうとしているオルタナティブ・メディアという理想(理念)にどうフックさせるか、フックさせることによってビジネスとして成り立たせることができるか、という課題がはっきりしてきました。

そのあたりは先行事例(たとえばオーマイニュースの失敗など)をみても、容易ではない課題であることも分かります。

これはある意味で、自分の中の価値判断を二分させ、一方から他方を批判するという高度な手法が求められることになり、それはそれで難しい(笑)。
Posted by 24wacky at 2010年04月23日 13:33
 
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