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2010年02月04日

沖縄アソシエーショニズムへ 36 官僚と政治の間に楔を打ち込むb

官僚と政治の間に楔を打ち込むという現実の運動理論に触発されながら、いったん「現実」を括弧に居れ、官僚制について原理的にみてみる。それは例のごとく柄谷行人のテキストに導かれながらそうする。そして、可能であれば、そこから現実にフィードバックしてみたい。(そんなことができるのかしら?)

歴史を遡って西ヨーロッパ絶対主義国家の時代へ。絶対主義国家といえば、王様が封建諸侯を押さえ教会権力を束ねて集権化していったというようなこと(それまでは権力がそこそこ分散していたわけだ)。その集権化を可能にしたのが、火器の発明と商品経済の発展の2つ。そしてこのとき、膨大な官僚組織と常備軍が形成された。つまり、官僚と軍隊はセットになって生まれたのだ。

絶対主義国家は暴力(軍隊)でもって共同体やら組織やら国家やらを奪うために脅す。脅しにのらなかったら実際攻める。そうやって奪った領土からさまざまに収奪する。でも暴力的に奪うばかりではいずれ尽きてしまって奪うものが無くなってしまう。それでは困るので、永続的に支配するために公共事業などやったりして再分配する。そして徴税してまた再分配する。柄谷行人はこれを交換様式B(略取―再分配)と名づけた。

時代が下り市民革命の時代へ。自由・平等・友愛のスローガン。国民主権。普通選挙。このときの社会契約論によると、国家の主権は絶対的な王様にあるのではなく、国民にある。国家の意志とはあくまで国民にあり、国民が選挙で選んだ者が政府となりそれを実行する。

それなら絶対主義国家で形成された官僚組織と常備軍、それらによる略取―再分配という交換様式はなくなったのかと思いきや、そうではない。それらは維持・強化された。なぜならそれらは国家の外部、他の国家に対するときに必要なものだから。国家の内部で自由・平等・友愛を唱えること、あるいは国民主権ということと、それは矛盾しない。

まぎわらしいのだが、このとき国家は国民に選ばれた政府と同じようにみなされる。絶対王政では王が税を徴収し再配分していたのに対し、国民が義務として自発的に納税し再配分するように考えられてしまう。やっていることは同じなのに。つまり、国家自体は絶対主義国家のときと変わらず、他国と敵対関係にあり、それに備え国民から徴税―再分配で国力を維持するという剥き出しの暴力性があるのに、その暴力性、つまり国から収奪されているということに国民はぴんとこないようにされている。なぜなら国民はあくまで自分たちに主権があり、自分たちが選んだ政府が政治を行っている。そしてそれ以外複雑なものはなにもないと思っているのだから。

ところが実際は、国家というものが国民と政府二者の上に自立的にある。国家の自立性は略取―再分配という交換様式に基づき、他の国家との関係性においてある。この自立性は国内だけでものをみていたら見えてこない。だから国家は国民から独立した意志をもっているとみるべきだ。自分たちが選んだ政府とは別の意志をもっていると。

同じように、国家の自立性を示す軍・官僚機構を社会契約論的にいえば、官僚というのは議会を通して国民の意志を実行する「公僕」ということになる。これは現在でも通念として誰もが思っていることだ。だが実情はそうではない。《議会は、人々の意見によって国家の政策を決めていく場ではなく、官吏たちによる判断を人々に知らせ、まるで彼ら自身が決めたことであるかのように思わせることにある》。議会制民主主義とは、官僚たちが立案したことを、国民が自分で決めたかのように思いこむようにする手続きである!

ここで現実の諸問題に戻る。沖縄防衛局(国家)による高江住民に対する提訴を民主党政権が取り下げないことに対して、「これでは政権交代にはならないではないか」という主張は、国家と政府を同じものとしてみる者の発想である。自分たちで選んだ政府なのだから、声を聞いてくれるはずだという。しかし、自分たちが選んだ政府(政治家)と官僚は別物だと見たほうがよい。そもそも議会制民主主義とは、官僚たちが立案したことを、国民が自分で決めたかのように思いこむようにする手続きなのだ。

官僚にしてみれば、ヘリパッド建設事業という立案は自分たちで決めたものであり(もちろん大元は米軍だが)、それが国益になると本気で考えている。しかし議会制民主主義が民主主義だと信じている国民にはそれが見えない。それが顕わになるのが、例えば座り込み現場での工事強行であり、今回の住民提訴という暴挙である。

むろん役人が変わることはありえる。タカミザワやらマスガやらに代わって、それよりマシな、あるいは優秀な官僚がそのポジションにつくことはある。それによって相対的に状況が好転することもありえるだろう。また、そのような運動があるならば、現実の運動としてやるべきだ。そしてそれが実行されるとすれば、それは市民運動として凄い運動だろう。その凄い運動も沖縄の運動なら可能だろう。

そのとき私が注意したいのは次のことだ。しかしながらそれによって国家の自立性を示す官僚機構自体は変わらない。役人が代わっても、政権が変わってもそれは変わらない。つまり暴力装置としての国家そのものは無くならない。希望がないような言い方だが、そのことを認識した上で運動をしたほうが良いと、私は自分に言い聞かせている。そうすることで、少なくとも官僚が用意したペーパーのコピー&ペースト=メジャーメディアの報道にその都度踊らされ、振り回され、期待し、失望し、というような徒労に終始することにならずにすむからである。

だから私は国家と資本への対抗運動をしたい。新しいアソシエーションのために。

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