2016年11月18日

『可能なる革命』

可能なる革命

 2012年10月、普天間基地への米軍機オスプレイ強行配備と阻止行動の敗北は、私自身にとって画期的な出来事としてある。沖縄オルタナティブメディア(OAM)として一連の顛末を現場中継し、目撃し、阻止行動に加わった。阻止行動は排除され、翌日オスプレイは空高く飛来し、沖縄の地に着地した。その時、私は自分が依拠してきた価値観が失われていることに気づき、呆然とした。そして、個人としてもOAMとしても「態度の変更」を強いられた。それから一年にわたって読み続けたのが、ハンナ・アーレントの『革命について』だった。「態度の変更」を現す言葉として、直感的に「革命」という言葉を、それ以降、私は常に小さくつぶやくようになった。本書も「革命」についての書である。

 その当時、私は本書の次のような言葉を予感していたのだろうと、現時点で都合よく解釈してしまう。《ここで、〈革命〉とは、集合的な要求を通じて、事実上は不可能とされていたことを実現し、そのことで、状況の全体を一変させることである。日米安保条約を本当に破棄し、日本国内にある米軍基地を撤廃することになったら、確かに、そのことは、日本社会のほかのすべての側面にも大きな影響を与えるだろう》(29〜30ページ)。無論、それは使い古された暴力革命の謂ではない。

 さて、それでは、そのことを、つまり「革命」について、著者はより具体的にどのように試行しようとしているのか。それは「普遍性に対するもう一つの回路」を求めることということになる。本書では「普遍性」は分が悪い。胡散臭い。SEALDsが掲げる「民主主義」や「立憲主義」に対して、同世代の貧困層の少なくない者たちが感じる距離感がある。すなわち、自分たちは呼びかけられていないと捉え、その違和感は選挙という公的な意思表示では表現できないと感じるそれとした。あるいは、オタクが背を向け、その代わりに特殊性に情熱を傾けるそれとして。あるいは、地方出身者が感じる東京に対する幻滅として。

 しかし、それらは同時に、それらに代わるオルタナティヴへの指向性を否定的・消極的に生じさせるという。著者はそれを「余剰的同一性X」と名づける。《Xとは、社会的に普遍的な全体性へと到達しようとする志向性が、その挫折とともに見出す、残余の感覚であった。何をもってしても、普遍性Uを代表できない、という残余の感覚が、Xである》(237ページ)。

 つまり、オスプレイ配備を阻止しようとした私(たち)は、「反戦平和」という普遍的な全体性へと到達しようとしてそうしたが叶わず、挫折した。以来私はその感覚を払拭できずにいるが、それはここでいう残余の感覚と似ているといえないだろうか。ここで注意したいのが、その残余の感覚が否定的・消極的にしか現れないということである。普遍性を求める者としての私は、その絶対性故盲目的になりがちである。リベラル(なだけ)の眼差しは、いつも否定的・消極的に現れる事象を敵視して済ませるのであれば。

 ここで、オスプレイ配備後に普天間基地周辺で発生した新たな「カウンター」運動に対して、本書で書かれるオタクの議論を重ね、吟味してみる。それは本書では次のように記されている。普遍性Uは、社会的に承認される理念や理想として代表される。かつては「民主主義」とか「階級闘争」とか「共産主義」というイメージとして働いた。しかし、現在では、それらは欺瞞的で白々しいものと感じられる。これらがすべて偽物としてしか感じられないとしたら、これらよりも、Uの位置につくことをあからさまに拒否しているように見える、特殊なPのほうがより真実に近いと感じられる。Pは余剰的同一性Xの代理物である。オタクがPという特殊な主題に夢中になっているとき、そのPは実は余剰的同一性Xを指し示しているのだ。これに倣えば、「フェンス・クリーン」という転倒した「環境運動」は、「反戦平和」という普遍性Uを胡散臭いと捉えることで提示される特殊なPに他ならない。彼ら/彼女らは、あたかもオタクが局所的なパーツに執着するように、その行為を真実に近いと感じているといえないか。

 だとするならば、第一に、そのアクションが生まれた根拠の現実を、はなから否定して終わらせるのではなく、まずは認めるべきではないのか。その上で第二に、それに倣って、それとは別の余剰的同一性Xを探求すること。これではないか。

 そのヒントは、〈あそこ〉にあるように思えてならない。〈あそこ〉とは、オスプレイ強行配備への阻止行動の最終行動が行われた野嵩ゲート前において、座り込みでの直接行動と大量に動員された機動隊との攻防がなされた数時間、そこに集まり、直接行動に加わらず、そこで何が行われているか目撃していた周囲の人々の群れのことを指す。そこは、いわば、直接行動と国家の暴力装置との間のバッファゾーンとしてあった。「反戦平和」という普遍性Uと国家という普遍性Uを取り巻くバッファゾーンとしての特殊なP。それは消極的にしか現れなかったが、だからこそ余剰的同一性Xの代理物としてある。そしてそれは革命の可能性を秘めているといってしまいたい。

nodakegate9-8

『可能なる革命』
著者:大沢真幸
発行所:太田出版
発行:2016年10月9日


2016/10/16
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2016/10/18
第1章 「幸福だ」と答える若者たちの時代 『可能なる革命』概要 その2
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2016/10/19
第2章 若者の態度の二種類のねじれ 『可能なる革命』概要 その3
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2016/10/20
第3章 オタクは革命の主体になりうるか 『可能なる革命』概要 その4
 3・11以降、脱原発運動の大規模なデモが発生した。しかしその間国会では、原発の問題が中心的課題として議論されたとはいえない。デモによって表現される国民的関心と国会議員の行動の間に整合性がない。国会議員は国民の意志を無視すれば次回の選挙で自分が落選するかもしれないという切迫した恐れをもたなかった。…


2016/10/21
第4章 倫理的/政治的行為の二つのチャンネル 『可能なる革命』概要 その5
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2016/10/22
第5章 高まりゆく楽観主義の背後に 『可能なる革命』概要 その6
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2016/10/23
第6章 未来からパクる 『可能なる革命』概要 その7
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2016/10/24
第7章 〈未来への応答〉 『可能なる革命』概要 その8
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2016/10/25
第8章 (不)可能性の過剰 『可能なる革命』概要 その9
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2016/10/26
第9章 新しい〈地元〉 『可能なる革命』概要 その10
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2016/10/27
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2016/10/28
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2016/10/29
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2016/10/30
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