2016年10月22日
第5章 高まりゆく楽観主義の背後に 『可能なる革命』概要 その6

極端に危険な可能性を無視し、排除したことによって、楽観的なシナリオを過度に信ずるほかなくなる、ということがある。たとえば、10億円を動かす投資家がいたとする。彼は市場そのものが破綻する確率が90%あると直感的に理解している。とすれば、彼は10億円のうち1億円だけ投資するかというとそうではなく、なんと10億円すべてを投資してしまう。破滅的な90%の確率に完全に目をつむってしまうのだ。それはあまりに受け入れがたいことなので「ないこと」として振る舞ってしまうからだ。原発の安全神話にも同じメカニズムが働いている。
人びとは破局を漠然と知っているが故に楽観主義を強化してしまうという第一の逆説。第二の逆説は、第一の逆説があるがゆえに、逆に、まさにそれが実現してしまうという逆説。
これにならえば、楽観的にみえる若者の意識調査を楽観的にみてはならない。
このことを社会的な革命の必要性という視点でみるとどうか。「私は幸せです」と答えざるを得ない若者の置かれた状況、そして破滅的な確率を知りながらすべてを投資してしまう投資家の立つ尾根の上。かれらは自分たちがおかれた状況がいかに危険かを知りつつ、そこから脱出しようとするともっと悪いことになると恐れ、脱出しようとしない。逆にいえば、そこからの脱出が可能であることを示してやれば脱出を望むのではないだろうか。
映画『桐島、部活やめるってよ』にはそのヒントがある。バレーボール部のキャプテン桐島が部活をやめると言い出したことが、本人不在のまま生徒たちにインパクトを与えていく、徹底したスクールカーストが描かれたこの映画の中で、映画部のオタク涼也は8ミリカメラを通して、閉塞した世界の「外」を覗いている。涼也たちはその領域が幻想であって、自分たちは「ここ」にいるしかなく、ここから脱出できないことを知っている。でも「ここ」で映画を撮っているときに限り、自分が憧れる映画作品に自分がつながっているのを感じるのだという。《ここに桐島が存在しない世界において、つまり「ここ」にいるしかないという条件の中で、同時に「外」に解放されていくにはどうしたらよいのか、という問題へのひとつの回答が暗示されている》(185ページ)。
『可能なる革命』
著者:大澤真幸
発行所:太田出版
発行:2016年10月9日
Posted by 24wacky at 10:32│Comments(0)
│今日は一日本を読んで暮らした