2016年10月16日
序章 改革? 維新? いやそうではなくて… 『可能なる革命』概要 その1

どのような社会にも、論理的にはもちろん可能だし、法的にも必ずしも禁じられてはいないのだが、「それ」を選択すること、「それ」をなすことは、事実上は、不可能だとされていることがある。「それ」を選択しないことを暗黙の前提とした上で、われわれには、「それ」と「あれ」の選択の自由が与えられており、われわれは当然、「それ」ではなく「あれ」を選択する。たとえば、結婚式の宣誓において、花婿(花嫁)は相手を死ぬまで愛するかを問われる。問われる以上は、「できません」と答える自由も形式的にはあるのだが、絶対に、そのように答えることはない。実際には、「ノー」と言わないことを前提として、「ノー」と言う自由も与えられているのである。これと似たことが、社会全体にもある。どの社会にも、である。日本社会ももちろん例外ではない。というか、日本社会は、特に事実上不可能な選択肢をたくさんもつ社会である。
たとえば、日米安保条約の破棄は、日本にとって、そのような選択肢のひとつである。破棄を口にする人はたまにいるが、そういう人も含めて誰も、ほんとうに安保条約を解消し、その圏外に出られると本気で思ってはいない。EUにとっては、たとえば、ギリシアやその他の加盟国の債務を帳消しにすることは、事実上は、不可能な選択肢である。アメリカ合衆国にも、そのような事実上の不可能な選択肢はいくつもある。完全な銃規制とか、完全な公的保険(ユニヴァーサル・ヘルスケア)などである。
ここで、〈革命〉とは、集合的な要求を通じて、事実上は不可能とされていたことを実現し、そのことで、状況の全体を一変させることである。日米安保条約を本当に破棄し、日本国内にある米軍基地を撤廃することになったら、確かに、そのことは、日本社会のほかのすべての側面にも大きな影響を与えるだろう。憲法に対する態度も変わるはずだ。もし合衆国が、完全な銃規制に成功するとしたら、そのときには、個人の自由についてのアメリカ人の考え方や態度がトータルに変化したときである。〈革命〉とは、このように、不可能だったことを可能にするような変化を、社会運動によってもたらすことを指す。
本書で考えたいことは、日本社会に、このような意味での革命を担いうる主体はいるのかである。革命の主体を出現させうるポテンシャルを現代の日本社会はもつのか。とりわけ、一〇代から三〇代前半くらいまでの若い世代に、そのようなポテンシャルがあるのかが興味深い。というのも、これら若者に関しては、政治や社会への関心が乏しくなっている、というのが通念だからである。
(29〜30ページ)
「それ」が日米安保条約破棄だとすれば、「あれ」には「護憲」「反戦平和」「立憲主義」「県外移設」などが代入可能といえる。そのような観点こそ私の主な関心である。そのために、まずは本書各章の概要を列記してみよう。
『可能なる革命』
著者:大澤真幸
発行所:太田出版
発行:2016年10月9日
Posted by 24wacky at 10:09│Comments(0)
│今日は一日本を読んで暮らした