2016年10月24日
第7章 〈未来への応答〉 『可能なる革命』概要 その8

「未来→過去」というように因果関係が遡行していることは不思議であるが、われわれは日常的に目撃したり、体験したりしている。
たとえば、幾何学の証明で用いられる「補助線」の働きがそうである。証明者が、「ここに補助線があればうまくいきそうだ」という直観を得るとき、それはあたかも未来からの情報に影響されているかのようではないか。
あるいは、過去の作家や芸術家が、未来の作家からパクっているように見えること。ボルヘスは19世紀イギリスのロバート・ブラウニングの詩が、まるでカフカを模倣しているようだと述べた。これは、カフカが登場する前には、ブラウニングの詩にカフカ的と形容できるような特徴があることを誰も気づかなかった、ということである。カフカが現れなければ、ブラウニングの真の文学的価値は気づかれることがなかったのだ。
ブラウニングの詩を解釈するにあたり、二つの水準に区別してみる。①ブラウニングの詩は、それが書かれた当時に、Eとして解釈されている。しかし、②カフカが登場し、カフカを読んだ者がブラウニングの詩を読むと、カフカをパクったように感じる。つまり、ブラウニングの詩にカフカ的な趣味Fが加わった。
①E
②E+F
この二つに、さらにもうひとつのレベルを挿入する。すなわち、「Eではない」もの、否定的・消極的にしか現れないなにか。それを「余剰的同一性X」と呼ぼう。
③E+X
このXこそが、未来の他者への応答になっている。カフカの時代から見たとき、ブラウニングが「われわれ」の呼びかけに応えようとしていた、と感じられるのである。
このこととオタクに関する議論を関連づけてみる。普遍性Uへの欲望が、その反対物である特殊性Pへの執着として現れる、ということと。
Uは、社会的に承認される理念や理想として代表される。それは、かつては「民主主義」とか「階級闘争」とか「共産主義」というイメージとして働いた。しかし、現在では、それらは欺瞞的で白々しいものと感じられる。これらがすべて偽物としてしか感じられないとしたら、それらよりも、Uの位置につくことをあからさまに拒否しているように見える、特殊なPのほうがより真実に近いと感じられるのではないだろうか。Pは余剰的同一性Xの代理物である。オタクは、Pという特殊な主題に夢中になっているとき、実は余剰的同一性Xを指し示しているのだ。
このXこそが、〈未来の他者〉への応答といえないか。《Xとは、社会的に普遍的な全体性へと到達しようとする志向性が、その挫折とともに見出す、残余の感覚であった。何をもってしても、普遍性Uを代表できない、という残余の感覚が、Xである》(237ページ)。
さらにいえば、余剰的同一性Xを求める態度は、若者の社会的志向性として現れる。彼ら/彼女らには全体性Uに到達し、有意味な存在でいたいという欲求がある。しかし、そこで謳われるスローガンや制度に対し、「これではない」という失望を感じる=余剰的同一性Xの希求。そして投票を棄権する。
『可能なる革命』
著者:大澤真幸
発行所:太田出版
発行:2016年10月9日
Posted by 24wacky at 20:01│Comments(0)
│今日は一日本を読んで暮らした