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Posted by TI-DA at

2016年03月17日

高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(下)

 このような岡本の倫理からすれば、高橋氏の「県外移設」論に対して、その姿勢は本土の知識人として美しいが、「沖縄に住む人間が、県外移設に反対することは、みずからの担っている過酷な状況を拒否するとともに〜本土側からの県外移設論に同調するわけにはいかないのだ」といえる。

 ここで岡本は「沖縄に住むぼくたちにとっては」と書いているように、自らの立ち位置をあくまで沖縄に置いている。その条件で同様の過酷を本土に担わせることに反対すると。岡本の倫理においても二項対立は解消されていないようだ。

ということは、岡本に倣いつつそれを反転させ、高橋氏や私を含め本土の人間としては、「沖縄にこれ以上の過酷を担わせ続けるわけにはいない。本土に住むぼくたちにとっては、『本土の沖縄化に反対することに反対することに』反対するわけにはいかないのだ」といわねばならない。そして、沖縄対本土の二項対立を前提とする以上、この堂々巡りは終わらないだろう。

  ここで岡本の文章を注意深く読み直してみる。(「みずからの担っている過酷な状況を拒否するとともに、そのことを通してみずから以外の本土の誰かが、みずからの担っていると同様の過酷を担わされることに反対する」という)「そのようなまぎれもない認識があって始めて、本土の知識人としての中野重治氏の発言は美しいのであり」とははどういうことか。

 「みずからの担っている過酷な状況を拒否する」ことと他者が同様の過酷を担わされることに反対することは、岡本の倫理としては切り離せず、そのいずれかが損なわれていても倫理としては成り立たないということである。その倫理を自らに課すのみならず他者としての「本土の知識人」にも厳しく要求している。

 なぜ他者にまで厳しく要求するかといえば、他者もそのような倫理を持たなければ、自己の倫理も損なわれる、そのような相互性(互酬性)が岡本の倫理にはあるのではないだろうか。岡本はそれを沖縄の人々の本質的な「やさしさ」と表現した。それは沖縄の人々が「自然に」そのような「やさしさ」を持っているというよりも、「そうあるべきである」という命令といえる。

 ということは、「本土の沖縄化」というスローガンを批判し、沖縄の基地の過重負担を解消しようとする「日本人」も、この相互的な倫理を持たなければならない。そこで「応分の負担」をすべきだから基地を引き取るというならば、相互的な倫理は損なわれてしまうだろう。

 カントは、法則に従って自らを規定する能力をもつ理性的な存在者を「人格」と呼び、次のような定言命法を提示した。「君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない」。「目的として使用する」とは、それが存在することそのものに絶対的な価値があるものとして客観的に扱うことである。

 「日本(人)」が在日米軍基地を沖縄に過重に押しつけることは、他者をたんに手段として使用することであり、そうしてはならない。しかしながら、同時にみずからの人格を目的として使用しなければならない。

 沖縄の過重負担を減らすためということは、別の意図を実現するための手段、すなわち、他律としてあるということであり、他律として基地を引き取るということは自律ではない。俗な言い方をすれば、「沖縄がかわいそうだから」「沖縄に基地を押しつけていてることに罪悪感を感じるから」基地を引き取るということであり、それらはみずからの人格を目的として使用していないことに他ならない。のみならず、沖縄という人格を手段として使用していることにもなる。

 本土の「反戦平和」を刷新するとは、この転回にこそあらねばならない。みずからを目的として使用せずに他者のみを目的として使用することがあってはならない。「沖縄から日本を変える」だの「沖縄から日本が見える」だの「辺野古から問う」だのという、沖縄に関心のある日本のリベラルたちが用いる常套(じょうとう)句の「~から」には、自分たちの安定した足場を確認する余裕が露見される。それは沖縄を手段としてのみ使用する「寄り添い」の詐術に他ならない。たった今からそんな愚鈍はやめて、「日本(人)」はみずからを目的として使用することを始めるべきである。

 最後に繰り返すが、仮言命法が実用的であるのに対し、定言命法は非実用的である。「同時に目的として使用しなければならない」とは、手段として使用する現実があるという両義性を示唆する。「日本(人)」が沖縄を手段として使用し続ける限り、基地を引き取れという声が発せられる現実が。私はそのような「感性界」で生きている以上、その現実を見ないわけにはいかない。私は「命令」に従うよう意欲しながらも、そこでの対話を続けるだろう。それが「県外移設」論を退けないという意味である。
                                    (了)

【沖縄タイムス文化面 2016年3月17日掲載】

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Posted by 24wacky at 21:19Comments(0)メディア寄稿

2016年03月16日

高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(中)

 「自分の生命を守る」ことは、その人の経験によって起こされる結果がどのようなものであれ、それに左右されずに従うべき法則である。対照的な「私」と比べてみると理解しやすいだろう。「痛くないだろうか。逮捕されたらどうしよう…」と「私」が恐怖心に支配されるのは「心の傾き」からそうするのであって、それは義務に適っていても義務に基づいてはいない。あるいは恐怖心に打ち勝ち、抵抗の勇気を持ち自分の命を守ったとしても、それが「心の傾き」であれば同じことである。

 「殺すな!」「殺されるな!」という命令は義務に基づくといえるだろうか。

 カントは、ある意志を強制する理性の命令を「命法」と呼び、「なすべし」で表現されるとした。命法には「仮言命法」と「定言命法」の2種類がある。仮言命法は「絶対的に命じられるのではなく、別の意図を実現するための手段として命じられるだけ」である。その意志は善いものであるが、その行為自体が善いわけではなく、目的のためにのみ善い。

 それに対し定言命法は「ある行為をほかの目的に関係させずに、それ自体として客観的であり、必然的なものであることを示す」ものである。それは行為の内容や結果をいっさい感知せず、道徳性を目指す善い意志によってなされ、義務に基づく。前者は経験的、実用的かつ偶然的であるのに対し、後者はアプリオリ(経験に先立ってある認識)であり、非実用的かつ必然的といえる。

 「県外移設」論は仮言命法である。「日本人」が日米安保を支持乃至(ないし)容認するならば、沖縄にある米軍基地を引き取る(引き取らせる)べきというその命題を、試しに普遍的な形式に言い換えると、「不平等(差別)を解消するためには応分の負担をすべし」となる。

 「~ならば」という条件話法が仮言的であるのはいうまでもない。「不平等(差別)を解消するため」という「別の意図」を実現するために、基地の引き取りという手段を用い、「その行為自体が善いわけではなく、目的のためにのみ善い」というように言い換えることが可能だから。

 さらに「県外移設」論は、仮言命法のひとつ「熟練の命法」である。それは「実現すべき目的が理性的なものかどうか、あるいは善いものかどうかはまったく問わずに、その目的を実現するために、何を実行しなければならないかを問う」。その例として、医者が患者の健康のために出す指令と、殺人者が相手を毒殺するための指令は、いずれもそれぞれの意図を完全に実現するために役立つという意味で、同じ価値をもつという話が挙げられる。「県外移設」論も不平等を解消するという意図を実現するために、基地を引き取る(引き取らせる)ことが役立つとみなす。

 それでは「殺すな!」「殺されるな!」という命令はどうだろうか。「ある行為をほかの目的に関係させずに」絶対的に命じる定言命法に近いといえるが、それだけでは不十分である。しかし、その命令は定言命法にならなければならない。なぜならば、「県外移設論」は仮言命法であり、仮言命法は相互的ではないからであり、相互的でないならば、この問題の矛盾を解消できないからだ。矛盾とは次に述べる避けられない堂々巡りのことである。そして相互的とはいかなる事態をいうのか。「殺すな!」「殺されるな!」という命令は相互的たりえるのか。

 それは『沖縄の米軍基地』でも触れられている「本土の沖縄化」にかかわる。本土で米軍の基地機能や訓練が強化されると、運動家や知識人からしばしば発せられる「本土の沖縄化に反対する」というスローガンに対し、高橋氏は違和感を覚え、既に1960年代末にそのことを「本土の日本人のエゴイズム」と鋭く批判した大江健三郎の『沖縄ノート』を引用もする。同じく安保の時代に、大江と同じように本土側のエゴイズムを批判したのが中野重治であった。

 それに対し岡本恵徳は「中野氏らしい倫理感と潔癖さにあふれた美しい文章」と一定の評価をしつつ、それに同調しなかったことに沖縄の人々の本質的な「やさしさ」を見い出し、次のように続ける。

 「本土に住む人間が『本土の沖縄化に反対』するとき、無意識のうちに露呈されるエゴイズムをみることができるとするならば、沖縄に住む人間が、『本土の沖縄化に反対』することは、みずからの担っている過酷な状況を拒否するとともに、そのことを通してみずから以外の本土の誰かが、みずからの担っていると同様の過酷を担わされることに反対することを意味するのであって、したがって沖縄に住むぼくたちにとっては、『本土の沖縄化に反対することに反対』するわけにはいかないのだ。そのようなまぎれもない認識があって始めて、本土の知識人としての中野重治氏の発言は美しいのであり、沖縄のぼくたちにとっては『本土の沖縄化に反対』し続けなければならなかったし、反対し続けてきたはずである」
(「やさしい沖縄人」ということ/『「沖縄」に生きる思想』所収)。


【沖縄タイムス文化面 2016年3月16日掲載】

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Posted by 24wacky at 20:18Comments(0)メディア寄稿

2016年03月15日

高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(上)

「『沖縄の米軍基地』を読む」への応答(上)(2015年11月24日付、沖縄タイムス紙文化面)で高橋哲哉氏から拙稿へご指摘いただいた点について応答したい。

 はじめに、「基地を引き取れ」だけではない「沖縄からの問いかけ」を指すものとして、「殺すな!」「殺されるな!」という、誰だかわからない他者からの命令を第1に、さまざまな考えや感情を持つ人たちの声を第2というように要約していただいた部分について。

 このうち私が「沖縄からの問いかけ」としたのは第1を指したつもりであった。第2については、「県外移設」論への反論として想定される「反戦平和」で一つにまとまる「現場」の絶対性を対置させるような優位性を私は取らないということをいいたかった。

 次に、外部から唐突に聞こえる単独者としての声を「沖縄からの問いかけ」としたりしなかったりして矛盾しているではないかとのご指摘について。「私はこの思いがそこで共に行動している人々の多くに共有されている、だからそれも」の「それ」とは、「人々の多くに共有されていること」を指す。

 つまり「私はこの思いがそこで共に行動している人々の多くに共有されているという理由で『沖縄からの問いかけ』であるといいたいのではない」という意味である。ここでも「現場」の絶対性の上に自説を立たせることを退けるねらいがあった。

 それでは本題に入る。「殺すな!」「殺されるな!」という他者からの命令が「応分の負担」を拒むことで「反戦平和」の何が刷新されるのかという疑問があった。ここでの「私」は恐怖心に支配されながらもやせ我慢をして直接阻止行動に向かう。しかしながら暴力と対峙(たいじ)する瞬間、心身ともに疲れ果てたからか、「反戦平和」の理想は消え去り、判断停止状態に陥る。外部の声として命令が下されるのはその瞬間だ。

 既存の反戦平和運動であれば、このような意識のプロセスはないだろう。必死の阻止行動をすることでお互いの共同意識が高められ、あらかじめ保持していた「反戦平和」という理念が再認識されるだろうから。だからこそ「人殺しの訓練をする基地を引き取るなどとんでもない」となる。

 後者は国家の暴力という現象を感性によって受け取り、理性によって「反戦平和」という理念を確認する。それに対し、前者は感性を通し暴力という現象を受け取るものの、「私」は理性の働きが滞っている。そこへ外部から命令が下される。つまりこの命令は目の前に迫る国家の暴力という現象と因果関係がない。これはどういうことか。

 カントは『道徳形而上学の基礎づけ』において、ある行為が道徳的なものかどうかを判断する基準を定めた。人間に善い意志があるだけではそこから道徳の法則を導き出せないと考え、「~しなければならない」という「義務」の概念が必要であるとした。善い意志を自然にそこにあるものとしてではなく、概念として規定する。ある行為が道徳的なものであるためには、その行為が「心の傾き」(欲求能力が感覚に依存すること)ではなく義務に従う必要があると。

 義務に従うとは、法則に従うということである。とはいえ人間は主観的な原理によって行動しがちである。であればその主観的な原理が客観的な法則に等しくあるべきであるという論理展開にカントはもっていく。さらにこの法則は、必然的で普遍的でなければならない。

 これに照らせば、後者は善い意志(「反戦平和」)を自然にそこにあるものとして捉え、「心の傾き」(暴力への抵抗という反応)に従う。「反戦平和」は主観的な原理であるにとどまり、客観的な法則とはならない。

 一方、前者の命令を道徳的な法則であるといえるだろうか。「心の傾き」に従っていないという条件には適(かな)っているものの、「誰だかわからない他者からの命令に従っているという気がする」だけでは、それが義務であるとするには不十分である。高橋氏のご指摘通り、「反戦平和」を刷新することには疑問がつく。

 ところでカントはこうもいっている。人間が自分の生命を守るのは義務であるが、それは道徳的な内容を備えていない。なぜならば、人々がそうするのは「義務に適って」はいても、「義務に基づいて」はいないからだと。義務に基づいているとは、「心の傾き」からでも自己の利益のためでもない義務のことをいう。
 
「これにたいして、たび重なる不運と絶望的な心痛のために生きる喜びをまったく失ってしまった人がいるとしよう。この不幸な人が、心を強くもって、自分の運命に臆病になったり打ちのめされたりせずに、むしろ怒りで立ち向かい、死を望みながらも自分の生命を守るならば、そして自分の生命を愛するのでもなく、心の傾きや恐怖によってでもなく、[生命を守るという]義務に基づいて生きつづけるならば、その人の行動原理[=格律]は道徳的な内容をそなえたものとなるのである」
(『道徳形而上学の基礎づけ』中山元訳・光文社古典新訳文庫)。

 「死を望みながらも自分の生命を守る」とはいかなる事態か。

【沖縄タイムス文化面 2016年3月15日掲載】

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