2016年03月16日
高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(中)
「自分の生命を守る」ことは、その人の経験によって起こされる結果がどのようなものであれ、それに左右されずに従うべき法則である。対照的な「私」と比べてみると理解しやすいだろう。「痛くないだろうか。逮捕されたらどうしよう…」と「私」が恐怖心に支配されるのは「心の傾き」からそうするのであって、それは義務に適っていても義務に基づいてはいない。あるいは恐怖心に打ち勝ち、抵抗の勇気を持ち自分の命を守ったとしても、それが「心の傾き」であれば同じことである。
「殺すな!」「殺されるな!」という命令は義務に基づくといえるだろうか。
カントは、ある意志を強制する理性の命令を「命法」と呼び、「なすべし」で表現されるとした。命法には「仮言命法」と「定言命法」の2種類がある。仮言命法は「絶対的に命じられるのではなく、別の意図を実現するための手段として命じられるだけ」である。その意志は善いものであるが、その行為自体が善いわけではなく、目的のためにのみ善い。
それに対し定言命法は「ある行為をほかの目的に関係させずに、それ自体として客観的であり、必然的なものであることを示す」ものである。それは行為の内容や結果をいっさい感知せず、道徳性を目指す善い意志によってなされ、義務に基づく。前者は経験的、実用的かつ偶然的であるのに対し、後者はアプリオリ(経験に先立ってある認識)であり、非実用的かつ必然的といえる。
「県外移設」論は仮言命法である。「日本人」が日米安保を支持乃至(ないし)容認するならば、沖縄にある米軍基地を引き取る(引き取らせる)べきというその命題を、試しに普遍的な形式に言い換えると、「不平等(差別)を解消するためには応分の負担をすべし」となる。
「~ならば」という条件話法が仮言的であるのはいうまでもない。「不平等(差別)を解消するため」という「別の意図」を実現するために、基地の引き取りという手段を用い、「その行為自体が善いわけではなく、目的のためにのみ善い」というように言い換えることが可能だから。
さらに「県外移設」論は、仮言命法のひとつ「熟練の命法」である。それは「実現すべき目的が理性的なものかどうか、あるいは善いものかどうかはまったく問わずに、その目的を実現するために、何を実行しなければならないかを問う」。その例として、医者が患者の健康のために出す指令と、殺人者が相手を毒殺するための指令は、いずれもそれぞれの意図を完全に実現するために役立つという意味で、同じ価値をもつという話が挙げられる。「県外移設」論も不平等を解消するという意図を実現するために、基地を引き取る(引き取らせる)ことが役立つとみなす。
それでは「殺すな!」「殺されるな!」という命令はどうだろうか。「ある行為をほかの目的に関係させずに」絶対的に命じる定言命法に近いといえるが、それだけでは不十分である。しかし、その命令は定言命法にならなければならない。なぜならば、「県外移設論」は仮言命法であり、仮言命法は相互的ではないからであり、相互的でないならば、この問題の矛盾を解消できないからだ。矛盾とは次に述べる避けられない堂々巡りのことである。そして相互的とはいかなる事態をいうのか。「殺すな!」「殺されるな!」という命令は相互的たりえるのか。
それは『沖縄の米軍基地』でも触れられている「本土の沖縄化」にかかわる。本土で米軍の基地機能や訓練が強化されると、運動家や知識人からしばしば発せられる「本土の沖縄化に反対する」というスローガンに対し、高橋氏は違和感を覚え、既に1960年代末にそのことを「本土の日本人のエゴイズム」と鋭く批判した大江健三郎の『沖縄ノート』を引用もする。同じく安保の時代に、大江と同じように本土側のエゴイズムを批判したのが中野重治であった。
それに対し岡本恵徳は「中野氏らしい倫理感と潔癖さにあふれた美しい文章」と一定の評価をしつつ、それに同調しなかったことに沖縄の人々の本質的な「やさしさ」を見い出し、次のように続ける。
【沖縄タイムス文化面 2016年3月16日掲載】
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「沖縄の米軍基地」を読む2
高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(上)
「唐獅子」第12回 沖縄にとっての正義とは
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「殺すな!」「殺されるな!」という命令は義務に基づくといえるだろうか。
カントは、ある意志を強制する理性の命令を「命法」と呼び、「なすべし」で表現されるとした。命法には「仮言命法」と「定言命法」の2種類がある。仮言命法は「絶対的に命じられるのではなく、別の意図を実現するための手段として命じられるだけ」である。その意志は善いものであるが、その行為自体が善いわけではなく、目的のためにのみ善い。
それに対し定言命法は「ある行為をほかの目的に関係させずに、それ自体として客観的であり、必然的なものであることを示す」ものである。それは行為の内容や結果をいっさい感知せず、道徳性を目指す善い意志によってなされ、義務に基づく。前者は経験的、実用的かつ偶然的であるのに対し、後者はアプリオリ(経験に先立ってある認識)であり、非実用的かつ必然的といえる。
「県外移設」論は仮言命法である。「日本人」が日米安保を支持乃至(ないし)容認するならば、沖縄にある米軍基地を引き取る(引き取らせる)べきというその命題を、試しに普遍的な形式に言い換えると、「不平等(差別)を解消するためには応分の負担をすべし」となる。
「~ならば」という条件話法が仮言的であるのはいうまでもない。「不平等(差別)を解消するため」という「別の意図」を実現するために、基地の引き取りという手段を用い、「その行為自体が善いわけではなく、目的のためにのみ善い」というように言い換えることが可能だから。
さらに「県外移設」論は、仮言命法のひとつ「熟練の命法」である。それは「実現すべき目的が理性的なものかどうか、あるいは善いものかどうかはまったく問わずに、その目的を実現するために、何を実行しなければならないかを問う」。その例として、医者が患者の健康のために出す指令と、殺人者が相手を毒殺するための指令は、いずれもそれぞれの意図を完全に実現するために役立つという意味で、同じ価値をもつという話が挙げられる。「県外移設」論も不平等を解消するという意図を実現するために、基地を引き取る(引き取らせる)ことが役立つとみなす。
それでは「殺すな!」「殺されるな!」という命令はどうだろうか。「ある行為をほかの目的に関係させずに」絶対的に命じる定言命法に近いといえるが、それだけでは不十分である。しかし、その命令は定言命法にならなければならない。なぜならば、「県外移設論」は仮言命法であり、仮言命法は相互的ではないからであり、相互的でないならば、この問題の矛盾を解消できないからだ。矛盾とは次に述べる避けられない堂々巡りのことである。そして相互的とはいかなる事態をいうのか。「殺すな!」「殺されるな!」という命令は相互的たりえるのか。
それは『沖縄の米軍基地』でも触れられている「本土の沖縄化」にかかわる。本土で米軍の基地機能や訓練が強化されると、運動家や知識人からしばしば発せられる「本土の沖縄化に反対する」というスローガンに対し、高橋氏は違和感を覚え、既に1960年代末にそのことを「本土の日本人のエゴイズム」と鋭く批判した大江健三郎の『沖縄ノート』を引用もする。同じく安保の時代に、大江と同じように本土側のエゴイズムを批判したのが中野重治であった。
それに対し岡本恵徳は「中野氏らしい倫理感と潔癖さにあふれた美しい文章」と一定の評価をしつつ、それに同調しなかったことに沖縄の人々の本質的な「やさしさ」を見い出し、次のように続ける。
「本土に住む人間が『本土の沖縄化に反対』するとき、無意識のうちに露呈されるエゴイズムをみることができるとするならば、沖縄に住む人間が、『本土の沖縄化に反対』することは、みずからの担っている過酷な状況を拒否するとともに、そのことを通してみずから以外の本土の誰かが、みずからの担っていると同様の過酷を担わされることに反対することを意味するのであって、したがって沖縄に住むぼくたちにとっては、『本土の沖縄化に反対することに反対』するわけにはいかないのだ。そのようなまぎれもない認識があって始めて、本土の知識人としての中野重治氏の発言は美しいのであり、沖縄のぼくたちにとっては『本土の沖縄化に反対』し続けなければならなかったし、反対し続けてきたはずである」
(「やさしい沖縄人」ということ/『「沖縄」に生きる思想』所収)。
【沖縄タイムス文化面 2016年3月16日掲載】
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Posted by 24wacky at 20:18│Comments(0)
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