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2016年03月15日

高橋哲哉氏への応答 県外移設を考える(上)

「『沖縄の米軍基地』を読む」への応答(上)(2015年11月24日付、沖縄タイムス紙文化面)で高橋哲哉氏から拙稿へご指摘いただいた点について応答したい。

 はじめに、「基地を引き取れ」だけではない「沖縄からの問いかけ」を指すものとして、「殺すな!」「殺されるな!」という、誰だかわからない他者からの命令を第1に、さまざまな考えや感情を持つ人たちの声を第2というように要約していただいた部分について。

 このうち私が「沖縄からの問いかけ」としたのは第1を指したつもりであった。第2については、「県外移設」論への反論として想定される「反戦平和」で一つにまとまる「現場」の絶対性を対置させるような優位性を私は取らないということをいいたかった。

 次に、外部から唐突に聞こえる単独者としての声を「沖縄からの問いかけ」としたりしなかったりして矛盾しているではないかとのご指摘について。「私はこの思いがそこで共に行動している人々の多くに共有されている、だからそれも」の「それ」とは、「人々の多くに共有されていること」を指す。

 つまり「私はこの思いがそこで共に行動している人々の多くに共有されているという理由で『沖縄からの問いかけ』であるといいたいのではない」という意味である。ここでも「現場」の絶対性の上に自説を立たせることを退けるねらいがあった。

 それでは本題に入る。「殺すな!」「殺されるな!」という他者からの命令が「応分の負担」を拒むことで「反戦平和」の何が刷新されるのかという疑問があった。ここでの「私」は恐怖心に支配されながらもやせ我慢をして直接阻止行動に向かう。しかしながら暴力と対峙(たいじ)する瞬間、心身ともに疲れ果てたからか、「反戦平和」の理想は消え去り、判断停止状態に陥る。外部の声として命令が下されるのはその瞬間だ。

 既存の反戦平和運動であれば、このような意識のプロセスはないだろう。必死の阻止行動をすることでお互いの共同意識が高められ、あらかじめ保持していた「反戦平和」という理念が再認識されるだろうから。だからこそ「人殺しの訓練をする基地を引き取るなどとんでもない」となる。

 後者は国家の暴力という現象を感性によって受け取り、理性によって「反戦平和」という理念を確認する。それに対し、前者は感性を通し暴力という現象を受け取るものの、「私」は理性の働きが滞っている。そこへ外部から命令が下される。つまりこの命令は目の前に迫る国家の暴力という現象と因果関係がない。これはどういうことか。

 カントは『道徳形而上学の基礎づけ』において、ある行為が道徳的なものかどうかを判断する基準を定めた。人間に善い意志があるだけではそこから道徳の法則を導き出せないと考え、「~しなければならない」という「義務」の概念が必要であるとした。善い意志を自然にそこにあるものとしてではなく、概念として規定する。ある行為が道徳的なものであるためには、その行為が「心の傾き」(欲求能力が感覚に依存すること)ではなく義務に従う必要があると。

 義務に従うとは、法則に従うということである。とはいえ人間は主観的な原理によって行動しがちである。であればその主観的な原理が客観的な法則に等しくあるべきであるという論理展開にカントはもっていく。さらにこの法則は、必然的で普遍的でなければならない。

 これに照らせば、後者は善い意志(「反戦平和」)を自然にそこにあるものとして捉え、「心の傾き」(暴力への抵抗という反応)に従う。「反戦平和」は主観的な原理であるにとどまり、客観的な法則とはならない。

 一方、前者の命令を道徳的な法則であるといえるだろうか。「心の傾き」に従っていないという条件には適(かな)っているものの、「誰だかわからない他者からの命令に従っているという気がする」だけでは、それが義務であるとするには不十分である。高橋氏のご指摘通り、「反戦平和」を刷新することには疑問がつく。

 ところでカントはこうもいっている。人間が自分の生命を守るのは義務であるが、それは道徳的な内容を備えていない。なぜならば、人々がそうするのは「義務に適って」はいても、「義務に基づいて」はいないからだと。義務に基づいているとは、「心の傾き」からでも自己の利益のためでもない義務のことをいう。
 
「これにたいして、たび重なる不運と絶望的な心痛のために生きる喜びをまったく失ってしまった人がいるとしよう。この不幸な人が、心を強くもって、自分の運命に臆病になったり打ちのめされたりせずに、むしろ怒りで立ち向かい、死を望みながらも自分の生命を守るならば、そして自分の生命を愛するのでもなく、心の傾きや恐怖によってでもなく、[生命を守るという]義務に基づいて生きつづけるならば、その人の行動原理[=格律]は道徳的な内容をそなえたものとなるのである」
(『道徳形而上学の基礎づけ』中山元訳・光文社古典新訳文庫)。

 「死を望みながらも自分の生命を守る」とはいかなる事態か。

【沖縄タイムス文化面 2016年3月15日掲載】

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