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2017年09月25日

『世界最恐の映画監督 黒沢清の全貌』

『世界最恐の映画監督 黒沢清の全貌』

 『岸辺の旅』で脳裏について離れない浅野忠信のパッと消えるラストについて、蓮實重彦は次のように指摘している。「生きていない人の影」の「出現と消滅」は黒沢作品の主要テーマであるが、それまでの作品と比べて、「きわめてぶっきらぼうに、いるものはいる、いないものはいないという描き方」だと。その「ぶっきらぼう」さに観る者は不意打ちをくらうわけだが、同時にそれは極めて初源的な映画技法でもある。このインタビューでは、それが秀でた役者との共犯によって初めて可能であったことが明かされる。

 黒沢によれば、似たような演出をした『ダゲレオタイプの女』のフランス人の俳優は戸惑いを見せたのに対し、浅野も妻役の深津絵里もそのことにまったく動じることなく、黒沢はそのことに心強い思いをしたという。

黒沢 考えてみれば確かに、「カットが変わるといる/いない」というのは現実世界の人間の生理からすると奇想天外な、理解しがたいことなんですね。今回はいわゆるホラー映画ではなく怖がらせる必要がないので、実に素朴に乱暴に、「この人はカットが変わったら突然いる、また突然いなくなる、そういう存在なのです」ということでお願いしました。そして浅野さんも深津さんも何の問題もなくやってくれた。
蓮實 特に最後の浜辺のシーン、浅野さんと深津さんが顔を寄せ合って、カットが変わってちょっと画面が引くと浅野さんがもういない、「ああ、いなくなった」と意味は分かるわけです。でも今までの黒沢さんだったら、デジタルの効果で次第に薄くなって消えるといったことをなさっていたはずで、それをやらない黒沢清というのはいったい何だろう。今までの映画から考えると大胆な飛躍ですよね。
黒沢 今回に限りそれをやっていいという、確信に近い気持ちがありました。ジャンルとしてのホラー映画ではないことに加えて、普通に生きている生身の俳優が、そのまま普通に死者でございといっている前提があるわけですから、出現の仕方や消え方もこれぐらいがちょうどいいんじゃないかと思っていました。
 この表現をどうするかと考えた時に、その人が「いるカット」と「いないカット」を直接つなげることを一つのルールにしました。よくあるのは、「いるカット」の後に全然別のカットが挿入され、次に「いないカット」というやり方で、その方が無難なのですが、今回は別のカットを入れない。「いるカット」を、ちょっと引いたり角度を変えた「いないカット」に直接つなげています。
(205〜206ページ)

 この「手法」を、かつて学生時代の8ミリ自主映画で目にした覚えがある。それは映画の基本的な技法のカットつなぎについて経験が浅いが故の偶然の産物であった。それを観た(観させられた)者は、多少居心地の悪い思いをしつつ苦笑いするという反応を余儀なくされたはずだ。『岸辺の旅』では、それをここぞとばかりに効果的に使っている。

 目下上映中の最新作『散歩する侵略者』をめぐる対談で、黒沢映画ファンだという宮部みゆきは、宇宙人に乗りうつられる夫(松田龍平)を案じる妻役の長澤まさみが、「悲しいし、いらだつし、情けないし、でも見捨てられないし、と逡巡する女性」を見事に演じているとして共感を寄せている。それに対し、黒沢は長澤について、「非常に生々しい演技のできる方」とした上で、「ただ彼女は本当に美しい人なので、本人はそう演じていても、他の人と並んでしまうと全然一般の人には見えないという、ある種の弱点があるんですね。でも彼女はそれを見事に克服しつつありますね」と評価している(26〜27ページ)。「散歩する侵略者』はまさにその「克服」ぶりが観る者に新鮮な感動を与える作品でもある。それと相乗効果を奏す松田龍平の淡々ぶりも同じくらいすばらしいのだが。

『世界最恐の映画監督 黒沢清の全貌』
編者:「文学界」編集部
発行:文藝春秋
発行年月:2017年が8月30日


2017/09/23
『散歩する侵略者』黒沢清
 映画的な衝撃を受け笑ってしまうショットの数々。冒頭からして凄まじく笑える。『Seventh Code』のラストショットから始まるのか、まさか!?という驚き。 長澤まさみの総体がよい。松田龍平の淡々ぶりがよい。いつものように不意に上手からインする笹野高史はもはやお約束の境地か。 黒澤作品ではお馴染…


2017/09/22
『Seventh Code』黒沢清
 けったいな映画だ。いや、映画はけったいだ。いやいや、黒沢清の映画はけったいだ。ゆえに、黒沢清はけったいだ、とはならない。たぶん。 どうして冒頭からいきなりロシアなのか。前田敦子の入り方があまりにも乱雑ではないか。それはそうと、前田敦子がガラガラひきずるキャリーバッグが重そうでうっとりして…


2016/07/08
『クリーピー 偽りの隣人』
 元刑事で犯罪心理学者の高倉(西島秀俊)は妻康子(竹内結子)と一軒家の新居に引っ越ししてきた。挨拶回りで訪ねた隣家の西野(香川照之)に対する二人の印象は「感じが悪い」。しかし「感じの悪さ」を観る者に与えるのは西野の異様さだけではない。ロケーションで選ばれた両家の外観、過去に行方不明事件が起き、…


  


2017年09月23日

『散歩する侵略者』黒沢清

『散歩する侵略者』黒沢清

 映画的な衝撃を受け笑ってしまうショットの数々。冒頭からして凄まじく笑える。『Seventh Code』のラストショットから始まるのか、まさか!?という驚き。

 長澤まさみの総体がよい。松田龍平の淡々ぶりがよい。いつものように不意に上手からインする笹野高史はもはやお約束の境地か。

 黒澤作品ではお馴染みの芦澤明子のキャメラによって捉えらた長澤まさみのクローズアップのラストカットがひりつくように愛おしい。

 今年度ベストワンの予感。

『散歩する侵略者』
監督:黒沢清
出演:長澤まさみ/松田龍平/高杉真宙/恒松祐里/長谷川博己/前田敦子/満島真之介/光石研/東出昌大/小泉今日子/笹野高史
劇場:川崎チネチッタ
2017年作品


2017/09/22
『Seventh Code』黒沢清
 けったいな映画だ。いや、映画はけったいだ。いやいや、黒沢清の映画はけったいだ。ゆえに、黒沢清はけったいだ、とはならない。たぶん。 どうして冒頭からいきなりロシアなのか。前田敦子の入り方があまりにも乱雑ではないか。それはそうと、前田敦子がガラガラひきずるキャリーバッグが重そうでうっとりして…


2016/07/08
『クリーピー 偽りの隣人』
 元刑事で犯罪心理学者の高倉(西島秀俊)は妻康子(竹内結子)と一軒家の新居に引っ越ししてきた。挨拶回りで訪ねた隣家の西野(香川照之)に対する二人の印象は「感じが悪い」。しかし「感じの悪さ」を観る者に与えるのは西野の異様さだけではない。ロケーションで選ばれた両家の外観、過去に行方不明事件が起き、…


  


2017年09月22日

『Seventh Code』黒沢清

『Seventh Code』黒沢清

 けったいな映画だ。いや、映画はけったいだ。いやいや、黒沢清の映画はけったいだ。ゆえに、黒沢清はけったいだ、とはならない。たぶん。

 どうして冒頭からいきなりロシアなのか。前田敦子の入り方があまりにも乱雑ではないか。それはそうと、前田敦子がガラガラひきずるキャリーバッグが重そうでうっとりしてしまう。

 この映画のテーマの一つは、前田敦子のヘンな表情にすっかりイカれてしまうことだ。

 この映画のテーマのもう一つは、アクション映画=前田敦子に初めて不意打ちを食らうことだ。

 劇場で観たときの驚きとは別に、今回はこんなあっという間の時間感覚に立ち尽くす。

『Seventh Code』
監督:黒沢清
出演:前田敦子/鈴木亮平/山本浩司
2013年作品
Gyao配信期間

2017年9月20日~2017年10月19日

2016/07/08
『クリーピー 偽りの隣人』
 元刑事で犯罪心理学者の高倉(西島秀俊)は妻康子(竹内結子)と一軒家の新居に引っ越ししてきた。挨拶回りで訪ねた隣家の西野(香川照之)に対する二人の印象は「感じが悪い」。しかし「感じの悪さ」を観る者に与えるのは西野の異様さだけではない。ロケーションで選ばれた両家の外観、過去に行方不明事件が起き、…


2016/11/02
『さよなら歌舞伎町』
 なによりも、染谷将太のアドレッセントな流し目と、早く鼻をかめよとせかしたくなるほどすすり泣きが似合う前田敦子に対し、フェティシズムを抱かざるをえない。 歌舞伎町のラブホテルに寄せ集まる人びとのある1日を描いた群像劇と、ひとまずいってみる。複数の二人組がそれぞれぴたりの配役で演じられる。各自…


  


2017年09月20日

ソクラテスの謎とイソノミア『哲学の起源』柄谷行人

『哲学の起源』柄谷行人

 ソクラテスが告発された理由は、要約すると次の三点になる。第一に、ポリスが認める神々を認めない、第二に、新しい神(ダイモン)を導入している、そして第三に、若者たちを堕落させている。これらの嫌疑はまったく無根拠とはいえない。

 しかし、ソクラテスがアテネの社会規範に対して挑戦的な存在とみなされたのはそれらの理由からではない。その根本的な理由は、ソクラテスがアテネにおいて公人として生きることの価値を否定したことにある。当時のアテネにおいては、市民とは公人として国事に参与する者を指す。公的な場で上手に言論(ロゴス)を操る技術を得るために、富裕市民は子弟に弁論術を習わせた。そのための教師がソフィストである。対して、私人であることは非政治的である。外国人、女、奴隷などがその例である。

 ソクラテスの謎は、公人となることなく私人として「正義のために戦う」姿勢にあった。そもそも私人であることは非政治的であるのだから、これは背理といえる。価値転倒である。

 ソクラテスを告発した者も擁護した者も、ソクラテスの謎を理解できなかった。そもそもソクラテス自身でさえそれがよくわかっていなかった。そのことをソクラテスは「ダイモンからの合図」に従ったといった。「公人として行動すべきでない」という命令もそのうちの一つである。

 公人と私人の区別のない社会。それがかつてあったのがイオニアのイソノミアである。ソクラテスはそのことを知らず、ダイモンの合図を通して受けとった。

 私の考えでは、ソクラテスにダイモンの合図として到来したのは、「抑圧されたものの回帰」(フロイト)である。では、「抑圧されたもの」とは何か。いうまでもなく、イオニアにあったイソノミアあるいは交換様式Dである。したがって、それが「意識的自覚的」なものでありえないのは当然である。それはソクラテスにとって強迫的であった。このような人物において、イオニア哲学の根源にあったものが「回帰」したのである。
(196ページ)

 では、公人としてでなく私人として戦うとは、具体的にどうすればよいのか。ソクラテスは、アゴラ(広場=市場)に行って、誰かれとなく話しかけ、問答した。そこには決して公人となりえないような人々がいた。

 問答とは、決して聴衆全体に向かわず、一人一人に話しかける方法である。その場でソクラテスは問うだけであり、どんなに相手が多くても、一人一人との問答になる。

 そのやり方は、相手の命題を肯定した上で、そこから反対の命題が引き出せることを示す(産婆術)。人に教えるのではなく、人が自ら真理に到達するのを助けるという手法である。

 ここで柄谷は、ソクラテスの問答が、通常「対話」と呼ばれるものとは異なることに注意を向ける。なぜなら、ソクラテスは問うだけであり、異なった意見をもった者が話し合い、説得し合うという民主主義のルールは無視しているのだから。ソクラテスの問答法が書かれたプラトンの著作は「対話篇」と呼ばれるのだが。《プラトンにおいては、問答は一定の終わり(目的)に向かって進む。そのような対話は、実際には自己対話、つまり、内省であって、他者との対話ではない。他者との対話がこんなに都合よく完結するはずがないのだ》(200ページ)。

 一定の終わり(目的)に向かって進む予定調和がない問答は、先が予測できない。相手の虚偽を論破するその強引さゆえに、時に相手は怒り狂い殴りかかることもある。

 これは何かに似ていると思ったら、精神科医とクライアントのセッションを思い出した。柄谷の次の指摘は示唆的である。

 ソクラテスの「対話」──そう呼んでいいなら──の特徴は、対話者の関係性の非対称性にある。それに類似するのは、フロイトが創始した精神分析における分析医と患者の関係である。これは「対話」療法と呼ばれるが、通常の対話とは異なる。患者の「自覚」を引き出す産婆術に近い。逆に、ここからふりかえると、ソクラテスの問答法が相手の側に、過度の転移や抵抗をもたらしたということが想像できる。その結果がソクラテスの死刑に帰結したといえる。
(201ページ)



『哲学の起源』
著者:柄谷行人
発行:岩波書店
発行年月:2012年11月16日


2017/09/19
イオニアの自然哲学『哲学の起源』柄谷行人
 「自由」が「平等」をもたらすイソノミア。その無支配という概念を生んだイオニアではどのような哲学があったのか。それを語るには主としてプラトンやアリストテレスによる史料が残るのみであり、彼らの見方がそのまま哲学史の通説となってきたことに注意すべきである。いわく、イオニア学派が外的自然を探求したの…


2017/09/18
デモクラシーを越える無支配のシステム『哲学の起源』柄谷行人
 「民主主義ってなんだ?」と問われる前に、柄谷行人はそれに答えていた。哲学に関するいくつかの通説を刺激的に覆し、この間探求を続けてきた資本と国家を超える交換様式と遊動性の理論に強引なまでにつなげるというやり方で。 デモクラシーの語源はdemos(大衆・民衆)とcracy(支配)、すなわち多数決原理に…


2017/08/31
『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』納富信留
 「哲学」とはなんだろうか。わたしは「哲学」のなにが気になって本書を手に取るのか。「第1章 生の逆転─『ゴルギアス』─」末尾で、著者は早くもこの答えに応答している。「哲学」とは「生き方を言論で吟味すること」である、と。師・ソクラテスを登場させた数々の対話篇というテクストは、登場人物たちと共に、読…


2017/08/20
『哲学の始原 ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』八木雄二
 ヨーロッパ哲学には3種類あることから本書は始まる。第一に、ソクラテスによる「問答」の哲学、「知の吟味」である。相互に相手の意見を批判的に検討する「討議」という伝統として現在まで伝わる。第二に、「上下に秩序づけられた二世界説」と「真理の探求」ないし「知の探求」である。ピュタゴラス、パルメニデス、…


2017/08/19
『哲学の誕生 ソクラテスとは何者か』納富信留
 わたし(たち)が知っているソクラテスとはプラトンの著作に登場する「哲学者」のイメージとしてある。わたしはソクラテスに関心があるが、その関心の根拠を知りたく本書を手にした。そこでネックになるのがソクラテスはどこまでがソクラテスでどこからがプラトンの創造なのかという問題である。プラトン作は初期・…


2017/02/09
『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』
 この20年とは、かつての文学批評の仕事をやめて哲学的なそれへ移る時期に重なる。しかし、その「変遷」が時系列でグラデーションのように読み取れる、というわけにはいかない。それが本書の魅力といえる。 ところで私が柄谷行人を読み始めたのは、記憶に間違えがなければ、当時住んでいた田無の図書館で借りた…


2009/09/21
交換様式から見た呪術
「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモ その30柄谷行人著『クォータリーat』連載「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモを最後にとったのは2月のことだからずいぶんとたつ。無論その後も柄谷の連載は続いているのだが、生来の怠け癖から無精してしまった。およそ読む者のことを考慮しないゴチゴチ…


  


2017年09月19日

イオニアの自然哲学『哲学の起源』柄谷行人

『哲学の起源』柄谷行人

 「自由」が「平等」をもたらすイソノミア。その無支配という概念を生んだイオニアではどのような哲学があったのか。それを語るには主としてプラトンやアリストテレスによる史料が残るのみであり、彼らの見方がそのまま哲学史の通説となってきたことに注意すべきである。いわく、イオニア学派が外的自然を探求したのに対し、ソクラテスがそれを人間的行為の研究へ転回させた。ソクラテスにして初めて人はいかに生きるかといった倫理の問題を考えるようになり、「哲学」を誕生させたのだ、と。しかし、それは間違っていると柄谷はいう。

 いかに生きるかという倫理の問題は、「ひとが個人となるとき」である。氏族的共同体が色濃く残るアテネにそのような問題は生じない。一方、さまざまな共同体から出てきた植民者からなるイオニアでは、初めから個人が存在した。

 イオニアの自然哲学は、物質が自己運動すること、物質と運動が切り離せないことを強調した。柄谷によれば、それは、個人が存在することは移動することと切り離せないということに当てはまる。

 しかし、植民者の移動が続けば、いずれ拡張すべき空間はなくなる。空間は無限ではないのだから。移動する場所がなくなり定住するようになると、イオニアの自治的なポリス内部にも富の格差、支配関係が生じるようになる。結果として、イソノミアは消滅していった。

 ここで興味深いことが起こる。サモス島にいたピタゴラスはこのような事態に直面し、親友のポリュクラテスとともに、イソノミアを回復しようとポリスの社会改革に乗り出す。ただし、それは現にある経済的不平等を是正する行為である以上、デモクラシー(多数者支配)というかたちをとらざるをえない。この過程でポリュクラテスが次第に僭主となっていった。ピタゴラスはそれを批判し、サモス島を去る。

 この政治史から読み取るべきは次のことだ。サモス島では、もともとイソノミアがあり、それを回復しようとするデモクラシーの中から僭主が出現した。そこでピタゴラスが見たのは、僭主を待望し、すすんで服従する民衆の姿であった。ピタゴラスは苦い経験を味わう。

 このことから次のことがいえる。立憲主義に基づいていても、自己決定権を保持しても、自分たちが選んだ「代表」が僭主になることはありえる。そのとき民衆(デモス)は僭主の支配(クラシー)にすすんで服従する。

『哲学の起源』
著者:柄谷行人
発行:岩波書店
発行年月:2012年11月16日


2017/09/18
デモクラシーを越える無支配のシステム『哲学の起源』柄谷行人
 「民主主義ってなんだ?」と問われる前に、柄谷行人はそれに答えていた。哲学に関するいくつかの通説を刺激的に覆し、この間探求を続けてきた資本と国家を超える交換様式と遊動性の理論に強引なまでにつなげるというやり方で。 デモクラシーの語源はdemos(大衆・民衆)とcracy(支配)、すなわち多数決原理に…


2017/08/31
『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』納富信留
 「哲学」とはなんだろうか。わたしは「哲学」のなにが気になって本書を手に取るのか。「第1章 生の逆転─『ゴルギアス』─」末尾で、著者は早くもこの答えに応答している。「哲学」とは「生き方を言論で吟味すること」である、と。師・ソクラテスを登場させた数々の対話篇というテクストは、登場人物たちと共に、読…


2017/08/20
『哲学の始原 ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』八木雄二
 ヨーロッパ哲学には3種類あることから本書は始まる。第一に、ソクラテスによる「問答」の哲学、「知の吟味」である。相互に相手の意見を批判的に検討する「討議」という伝統として現在まで伝わる。第二に、「上下に秩序づけられた二世界説」と「真理の探求」ないし「知の探求」である。ピュタゴラス、パルメニデス、…


2017/08/19
『哲学の誕生 ソクラテスとは何者か』納富信留
 わたし(たち)が知っているソクラテスとはプラトンの著作に登場する「哲学者」のイメージとしてある。わたしはソクラテスに関心があるが、その関心の根拠を知りたく本書を手にした。そこでネックになるのがソクラテスはどこまでがソクラテスでどこからがプラトンの創造なのかという問題である。プラトン作は初期・…


2017/02/09
『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』
 この20年とは、かつての文学批評の仕事をやめて哲学的なそれへ移る時期に重なる。しかし、その「変遷」が時系列でグラデーションのように読み取れる、というわけにはいかない。それが本書の魅力といえる。 ところで私が柄谷行人を読み始めたのは、記憶に間違えがなければ、当時住んでいた田無の図書館で借りた…


2009/09/21
交換様式から見た呪術
「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモ その30柄谷行人著『クォータリーat』連載「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモを最後にとったのは2月のことだからずいぶんとたつ。無論その後も柄谷の連載は続いているのだが、生来の怠け癖から無精してしまった。およそ読む者のことを考慮しないゴチゴチ…


  


2017年09月18日

デモクラシーを越える無支配のシステム『哲学の起源』柄谷行人

『哲学の起源』柄谷行人

 「民主主義ってなんだ?」と問われる前に、柄谷行人はそれに答えていた。哲学に関するいくつかの通説を刺激的に覆し、この間探求を続けてきた資本と国家を超える交換様式と遊動性の理論に強引なまでにつなげるというやり方で。

 デモクラシーの語源はdemos(大衆・民衆)とcracy(支配)、すなわち多数決原理による支配である。古代ギリシアの民主主義はアテネ中心主義として語られてきた。しかしその実態として、アテネは市場経済や言論の自由を認めたことで、不平等を生み出した。そのために、富の再分配によって平等化をはかった。他方で、アテネの民主主義は成員の「同質性」にもとづき、異質な者を排除した。さらに、奴隷や寄留外国人を搾取した。他のポリスから収奪した金を、議会に出席する日当として市民に分配した。

 アテネの政治は僭主政が続き、その後に本格的な民主政が始まったとされるが、ヘーゲルはそこに近代の政治過程を見出す(『哲学史講義』)。近代の民主主義は、まず封建諸勢力を制圧する絶対王政あるいは開発独裁型の体制を経、つぎにそれを打倒する市民革命を通して実現する。それは一度は権力の集中を経なければ実現されないということであり、デモクラシーが本質的に「支配」の一形態であることを意味する、と。

 ここで本書の最大のキーワードであるイソノミアが登場する。イソノミアは無支配という概念であり、「支配」が残るデモクラシーと区別される。その重要性に触れた唯一の知識人がハンナ・アーレントだった(『革命について』)。イソノミアはギリシア全般にあったとするアーレントに対し、柄谷は、イソノミアが氏族的伝統をもたない植民者たちによって都市が形成されたイオニアに存在したはずだと自説を展開するのが本書の読みどころである。

 イオニアでは、貨幣経済が発達しているにもかかわらず人々は経済的に平等であった。なぜか。イオニアでは、土地をもたない者は他人の土地で働くのではなく、別の都市に移住し、大土地所有が成立しなかったからだ。ここで「自由」が「平等」をもたらす、遊動性(自由)をもつことが平等をもたらす、というアンチノミーが披露される。

 さらに柄谷は交換様式というおなじみの概念へと遊動=誘導する。
 
 交換様式という観点から見ると、イオニアでは、交換様式Aおよび交換様式Bが交換様式Cによって越えられ、その上で、交換様式Aの根元にある遊動性が高次元で回復されたのである。それが交換様式D、すなわち、自由であることが平等であるようなイソノミアである。アテネのデモクラシーが現代の自由民主主義(議会制民主主義)につながっているとすれば、イオニアのイソノミアはそれを越えるようなシステムへの鍵となるはずである。
(42ページ)


『哲学の起源』
著者:柄谷行人
発行:岩波書店
発行年月:2012年11月16日


2017/08/31
『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』納富信留
 「哲学」とはなんだろうか。わたしは「哲学」のなにが気になって本書を手に取るのか。「第1章 生の逆転─『ゴルギアス』─」末尾で、著者は早くもこの答えに応答している。「哲学」とは「生き方を言論で吟味すること」である、と。師・ソクラテスを登場させた数々の対話篇というテクストは、登場人物たちと共に、読…


2017/08/20
『哲学の始原 ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』八木雄二
 ヨーロッパ哲学には3種類あることから本書は始まる。第一に、ソクラテスによる「問答」の哲学、「知の吟味」である。相互に相手の意見を批判的に検討する「討議」という伝統として現在まで伝わる。第二に、「上下に秩序づけられた二世界説」と「真理の探求」ないし「知の探求」である。ピュタゴラス、パルメニデス、…


2017/08/19
『哲学の誕生 ソクラテスとは何者か』納富信留
 わたし(たち)が知っているソクラテスとはプラトンの著作に登場する「哲学者」のイメージとしてある。わたしはソクラテスに関心があるが、その関心の根拠を知りたく本書を手にした。そこでネックになるのがソクラテスはどこまでがソクラテスでどこからがプラトンの創造なのかという問題である。プラトン作は初期・…


2017/03/08
『アレント入門』中山元
 本書は思想家の「入門もの」であるが、ハンナ・アーレントがドイツを離れて亡命するきっかけに切り口をしぼっている。アーレントが亡命したのはナチスの迫害を逃れるためであったことはいうまでもないが、「出来事」としてより注目すべき点がある。それは、それまで信頼していた友人たちがナチスのイデオロギーに幻…


2017/02/09
『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』
 この20年とは、かつての文学批評の仕事をやめて哲学的なそれへ移る時期に重なる。しかし、その「変遷」が時系列でグラデーションのように読み取れる、というわけにはいかない。それが本書の魅力といえる。 ところで私が柄谷行人を読み始めたのは、記憶に間違えがなければ、当時住んでいた田無の図書館で借りた…


2009/09/21
交換様式から見た呪術
「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモ その30柄谷行人著『クォータリーat』連載「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモを最後にとったのは2月のことだからずいぶんとたつ。無論その後も柄谷の連載は続いているのだが、生来の怠け癖から無精してしまった。およそ読む者のことを考慮しないゴチゴチ…


  


2017年09月17日

『横道世之介』

『横道世之介』

 長崎の片田舎から大学進学を機に上京した主人公・横道世之介の青春小説の映画化とひとまずはいえる。

 注目するのは、高良健吾演じる横道世之介の垢抜けない、一見お人好しなキャラクターの人物造形である。その受動性は東京で出会う人たちとの関係性を通して決して一面的でない面貌を表象する。

 法政大学入学早々出会い、その流れで共にサンバサークルに入る倉持一平(池松壮亮)と阿久津唯(朝倉あき)。ハイテンションの倉持だが本命の早稲田大学を来年再受験する計画を隠さない現実的な一面も併せ持つ。倉持と唯はやがてつきあい始め、唯は妊娠、倉持は中途退学し、就職する。

 イケメンの加藤雄介(綾野剛)からダブルデートの誘いを受けた世之介は、お嬢さんの家柄の与謝野祥子(吉高由里子)と出会い、その天然キャラに戸惑いつつも、なんとなくつきあい始める。

 世之介は大人の女性の魅力を発散させるパーティガールの片瀬千春(伊藤歩)に一目惚れする。色香を武器に男を手玉にとる千春は、世之介にとって東京という消費欲望イメージを最も喚起させる(虚)像としてある。

 倉持や加藤に対し、世之介は自分たちは友だちかと問い、あやふやな関係性をお互いに確認しあう。倉持は唯とつき合っているのかと世之介から問われ、「そこが問題だ」と答え、「そこってどこだよ?」と世之介からツッコまれる。別の場面では、世之介は祥子とつき合っているのかと、倉持から逆に尋ねられ、同じボケとツッコミを反復させる。それはこの時代の大学生たちの多くが共有していた微かな不安という心象風景であっただろう。

 時が経ち、社会人となった”その後の”彼らが、忘れかけていたかつての「友だち」をふと思い出す。思い出すと笑ってしまう。微笑んでしまう。大人になり、今はすっかり忘れかけていた、その程度のつきあいだったはずの、「そういえば、そんな奴もいたな」という軽薄な記憶の甦りは、容易な形容を拒む世之介のキャラクターが意外なほど自分たちに侵食していたのだという不意打ちを食らわせる。彼らが世之介との思い出を笑うのは、それに対する防衛本能といえないか。あるいは、それは彼らの現在の別の空虚さを隠蔽するための力ない努力なのかもしれない。カメラマンとなった35歳の世之介が電車の人身事故の巻き添えで死んだというニュースを読むのは、その後ラジオパーソナリティーとなった片瀬千春であった。

 冒頭は、新宿東口の俯瞰撮影のロングショットだ。続いてマイシティの出入り口から人々が行き来する構図を正面からカメラは捉える。ファッションがどこか古ぼけている雑踏から、リュックサックを背負った横道世之介が辺りを窺うようにも大胆な風にもみえる挙動で現れる。背後に斉藤由貴のアップの大きな広告写真。続いて西武新宿駅前で下手くそなアイドルグループのイベントを傍観する世之介。続いて、西武新宿線車内でアイドルグループの歌を口ずさむ世之介。続いて、恐らく多摩地区の沿線の町の、まだ空のアパート。自分の個人史のアドレッサントな風景にあまりにも重なる再現に、わたしは笑うことなどできない。

『横道世之介』
監督:沖田修一
出演:高良健吾/吉高由里子/綾野剛/池松壮亮/伊藤歩/余貴美子/きたろう/國村隼/井浦新/朝倉あき
原作:吉田修一
2013年作品

Gyao配信期間:2017年9月1日~2017年9月30日

2017/03/03
『フィッシュストーリー』中村義洋
4つの時代と登場人物のドラマが独立して進行しつながる。 2012年、あと数時間で彗星が地球に衝突する。ひと気の無い街で営業中のレコード店を訪れた末期ガン患者の谷口(石丸謙二郎)。「地球が滅亡する日でも好きなレコードを聴いていたい」客に、店長(大森南朋)がパンクバンド「逆鱗」の1枚のレコードを薦…


2017/05/28
『夜空はいつでも最高密度の青色だ』
 「俺って変だから」と慎二(池松壮亮)が語れば「へえ、じゃあ私と同じだ」と返す美香(石橋静河)。ボーイ・ミーツ・ガールを現すセリフとしては青臭い学生映画のようだが、それを映画として成立させているところがこの作品の可能性であろう。 慎二はその場の雰囲気を破るように唐突に脈絡なく話し出す。その…


2017/02/13
『大人ドロップ』飯塚健
 青春映画の傑作との出会いは僥倖だ。その後の記憶に消し難く残る。その溜まりこそが人生だとさえいいたい。それにしても2013年のこの大傑作をまったく知らなかった。あまりにも迂闊すぎる自分を呪いそうになる。まだ観ていないあなたは軽薄だぞ。それにしても、そこにいた蒼い自分が失われてしまったことに、「元気…


2016/11/05
『無伴奏』
 恋人同士だけに通じる微笑み返し。それが男と女のあいだのみならず、男同士の友人のあいだにもある。それが本編中さりげなくよい演出だ、などと感心していると矢崎監督にいっぱい喰わされる。いや、矢崎仁司にとって、そんな小刀細工に価値があるわけはなく、それを淡々と描くことが生理なのだろう。 学生運動…


  


2017年09月10日

『三度目の殺人』是枝裕和

『三度目の殺人』是枝裕和

 「裁く?私に他人は裁けません」。強盗殺人の容疑者・三隅(役所広司)は弁護士・重盛(福山雅治)から殺人の動機を訊かれ、そう答える。それでは人を裁く権利は誰にあるのか?「ここ(裁判所)では誰も本当のことを言わない」という被害者の娘・咲江(広瀬すず)の言葉が「王様は裸だ」という至言のごとく響きながら、その答えを宙吊りにする。

 「シネスコの画面でどう緊張感を失わず撮れるかということを考えました」(『三度目の殺人』是枝監督が参考にした、3本の名作 シネマズ )という監督の弁が語るとおり、接見室での三隅と重盛の「対話」場面はスリリングこの上ない。左に福山雅治、右に役所広司というシンメトリは、その中間にある透明ボードを透かして役所の影が福山に重なるという手法によって変態する。供述を二転三転させながら社会のドクサ(臆見)を食い破るような警句を吐く三隅が、勝利至上主義のクールな弁護士の戸惑いを見透かしたように侵食していく。恐ろしい。

 重盛自身、離婚を控え、寂しい思いをさせている娘がいる。その父娘関係と、不思議な関係の三隅と咲江が妙にオーバーラップすることが仄めかすものはなにか。この父娘関係は重要なはずだが、映画はこの娘を後半、自宅で夜になっても忙しくパソコンで仕事をする重盛の携帯電話にかかってくる声を唯一として、それ以外登場させない。重盛と娘の関係の修復、和解のドラマを期待する者はあっけなく裏切られる。

 殺人現場の多摩川河川敷と法廷ドラマが展開される港町横浜が新しいフィルムノワールの実景として映し出されている点も見逃せない。

『三度目の殺人』
監督・脚本・編集:是枝裕和
出演:福山雅治/役所広司/広瀬すず/満島真之介/市川実日子/松岡依都美/橋爪功/斉藤由貴/吉田鋼太郎
劇場:109シネマズ二子玉川
2017年作品


2016/07/09
『是枝裕和X樋口景一 公園対談 クリエイティブな仕事はどこにある?』
 何を隠そう私はクリエイターという言葉の響きがきらいだ。過去何度かクリエイターとして名指しされたことがあるが、そこはかとなく不愉快であった。曖昧なのに何がしかの権威を持つような含みが嫌なのか。だから、本書冒頭に紹介される「クリエイティブな仕事とクリエイティブでない仕事があるのではない。その仕事…


  


2017年09月08日

〈自分の言葉をつかまえる〉とは? 山森裕毅『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より

『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』

 対話を実践する試み「ミーティング文化」では、〈自分の言葉で語ること〉に価値が置かれる。

 ハンナ・アーレントは「言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界のなかに挿入する」といった(『人間の条件』)。アーレントが面白いのは、ひとが言葉によって自分を表すときに、自分がいったいどんな自分を明らかにしているのかを自分ではわからないといっていることである。人々が聴いてくれている状況において自分について語ることを通して、まず自分自身が人々の間に現れてくる。

 しかし、現代に生きる私たちは「語れなさ」を生きている。「言論なき生活、活動なき生活というのは世界から見れば文字通り死んでいる」といったアーレントにいわせれば、私たちは死んでいる。私たちはいかにして語れるか。そもそも、〈自分の言葉で語る〉とはどういうことか。

 フェリックス・ガタリは垂直型でも水平型でもない〈横断性〉というコミュニケーションを導入した(『精神分析と横断性』)。ガタリはそれを、超自我の受容与件が修正されることだといっている。どういうことか。

 精神病院において、精神病院の超自我、あるいは医師や看護師、患者の作る集団の超自我があるとしよう。彼らはその役割や立場において、理想的とみなされたり禁止されたりする振る舞いや発言が超自我によって規定されている。超自我を修正する、つまり、コミュニケーションを解放するとは、使うことを許されなかった言葉、使えるとも思っていなかった言葉で話すことが可能になるということである。それと同時に、言葉が伝達される回路を解放するということでもある。

『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』
発行:青土社
発行年月:2017年8月1日


2017/09/06
ダイアローグのオープンさをめぐるリフレクティング 矢原隆行『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグではポリフォニーが強調される。そこでは「すべての声」に等しく価値があり、それらが一緒になって新しい意味を生み出していくと。しかし、実際のミーティングにおいて、多くの声が響いていたとしても、それのみで既存の文脈がはらむ力関係を無効化できるものではない。 リフレクティング…


2017/09/05
ダイアローグの場をひらく 斎藤環 森川すいめい 信田さよ子『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグの前提は「わかりあえないからこそ対話が可能になる」。コミュ力の対象は「想像的他者」、すなわち自己愛的な同質性を前提とする他者。その対極はラカン的な「現実的他者」で、決定的な異質性が前提となるため対話もコミュニケーションも不可能。それに対しダイアローグの対象は「象徴的他者」…


2017/09/04
コミュニケーションにおける闇と超越 國分功一郎 千葉雅也『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 エビデンス主義は多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されている。それはメタファーなき時代に向かうことを意味する。メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということ。かつては「心の闇」が2ちゃんねるのような空間に一応は隔離されていた。松本卓也がいうように、本来だ…


2017/09/03
演劇を教える/学ぶ社会 平田オリザ『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 平田オリザは演劇を日本の教育に取り入れる実践において、まず「会話」(conversation)と「対話」(dialogue)を区別することから始める。「会話」は価値観や生活習慣なども近い者同士のおしゃべり、「対話」はあまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、というように。日本では歴史的に「対話」が概念として希薄で…


2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…


2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…


2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…


  


2017年09月06日

ダイアローグのオープンさをめぐるリフレクティング 矢原隆行『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より

『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』

 オープンダイアローグではポリフォニーが強調される。そこでは「すべての声」に等しく価値があり、それらが一緒になって新しい意味を生み出していくと。しかし、実際のミーティングにおいて、多くの声が響いていたとしても、それのみで既存の文脈がはらむ力関係を無効化できるものではない。

 リフレクティングは、垂直的関係の否定としてたんに水平的関係を志向するのではなく、斜めに横切る動きが求められ、そこで既存の文脈をほぐし、ゆるめるような適度な差異、変化の兆しが探られる。ダイアローグの場にそうした動きのための適度な「間」を生じ、それを丁寧に守りながら外的会話(はなすこと)と内的会話(きくこと)を折り重ね、新鮮なダイアローグの場を開いてゆくことである。

『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』
発行:青土社
発行年月:2017年8月1日


2017/09/05
ダイアローグの場をひらく 斎藤環 森川すいめい 信田さよ子『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグの前提は「わかりあえないからこそ対話が可能になる」。コミュ力の対象は「想像的他者」、すなわち自己愛的な同質性を前提とする他者。その対極はラカン的な「現実的他者」で、決定的な異質性が前提となるため対話もコミュニケーションも不可能。それに対しダイアローグの対象は「象徴的他者」…


2017/09/04
コミュニケーションにおける闇と超越 國分功一郎 千葉雅也『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 エビデンス主義は多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されている。それはメタファーなき時代に向かうことを意味する。メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということ。かつては「心の闇」が2ちゃんねるのような空間に一応は隔離されていた。松本卓也がいうように、本来だ…


2017/09/03
演劇を教える/学ぶ社会 平田オリザ『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 平田オリザは演劇を日本の教育に取り入れる実践において、まず「会話」(conversation)と「対話」(dialogue)を区別することから始める。「会話」は価値観や生活習慣なども近い者同士のおしゃべり、「対話」はあまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、というように。日本では歴史的に「対話」が概念として希薄で…


2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…


2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…


2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…


  


2017年09月05日

ダイアローグの場をひらく 斎藤環 森川すいめい 信田さよ子『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より

『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』

 オープンダイアローグの前提は「わかりあえないからこそ対話が可能になる」。コミュ力の対象は「想像的他者」、すなわち自己愛的な同質性を前提とする他者。その対極はラカン的な「現実的他者」で、決定的な異質性が前提となるため対話もコミュニケーションも不可能。それに対しダイアローグの対象は「象徴的他者」。安易な相互理解は不可能だけれど、相互性のある対話によって、そこから新しい意味を生成することが可能になるような他者のことで、「レヴィナス的他者」と呼べるかもしれない(斎藤)。

 オープンダイアローグでは「聞く」と「話す」を分ける。一方がまず話して、「なるほどあなたはそう思うんだ。ところで私はこう思う」というようなキャッチボールができる(森川)。

 アディクションの自助グループこそ、究極のダイアローグ。「言いっぱなし聞きっぱなし」で、メンバーの語りはどこかモノローグ的だが、一人ひとりを超え、まるでiCloudに保存されているような感覚(信田)。

『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』
発行:青土社
発行年月:2017年8月1日


2017/09/04
コミュニケーションにおける闇と超越 國分功一郎 千葉雅也『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 エビデンス主義は多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されている。それはメタファーなき時代に向かうことを意味する。メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということ。かつては「心の闇」が2ちゃんねるのような空間に一応は隔離されていた。松本卓也がいうように、本来だ…


2017/09/03
演劇を教える/学ぶ社会 平田オリザ『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 平田オリザは演劇を日本の教育に取り入れる実践において、まず「会話」(conversation)と「対話」(dialogue)を区別することから始める。「会話」は価値観や生活習慣なども近い者同士のおしゃべり、「対話」はあまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、というように。日本では歴史的に「対話」が概念として希薄で…


2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…


2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…


2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…


  


2017年09月04日

コミュニケーションにおける闇と超越 國分功一郎 千葉雅也『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より

『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』

 エビデンス主義は多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されている。それはメタファーなき時代に向かうことを意味する。メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということ。かつては「心の闇」が2ちゃんねるのような空間に一応は隔離されていた。松本卓也がいうように、本来だったら無意識に書き込まれることが今やネットに書き込まれている(千葉)。

 ハンナ・アーレントは「心の特性は闇を必要とするところにある」(『革命について』)といった。フランス革命で、ロベスピエールが革命に向かう人物の動機を明らかにさせようと問い詰めたことへの批判として。面接で会社の志望動機を訊かれ続ける就職活動中の学生は、ロベスピエールに問い詰められる革命家のようなものだ。学生たちは「動機をきちんともたなくてはならない」と信じようとさせられている(國分)。

 動機を言語化できなくてはならないということは、信頼を崩壊させる。だからこそ、「心の闇」が大事。「心の闇」を育むことこそ、コミュニケーションの根本。本当はそこまでいいたくない、もうちょっと静かにしていたいという気持ちが尊重されない。そういうタイプの一部の人たちは、自分を「コミュ障的」と自認する(千葉)。

 コミュニケーションとは人と人のあいだにおこることであるはずなのに、「コミュ障」という言葉によって個人の問題にされてしまっている(國分)。

『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』
発行:青土社
発行年月:2017年8月1日


2017/09/03
演劇を教える/学ぶ社会 平田オリザ『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 平田オリザは演劇を日本の教育に取り入れる実践において、まず「会話」(conversation)と「対話」(dialogue)を区別することから始める。「会話」は価値観や生活習慣なども近い者同士のおしゃべり、「対話」はあまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、というように。日本では歴史的に「対話」が概念として希薄で…


2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…


2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…


2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…


  


2017年09月03日

演劇を教える/学ぶ社会 平田オリザ『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より

『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』

 平田オリザは演劇を日本の教育に取り入れる実践において、まず「会話」(conversation)と「対話」(dialogue)を区別することから始める。「会話」は価値観や生活習慣なども近い者同士のおしゃべり、「対話」はあまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、というように。日本では歴史的に「対話」が概念として希薄であり、人工的なものであるあるからこそ、教育で身につけさせなければならない。

 日本の教育は、価値観を一つにする方向の「一致団結型」が主流だったが、多数派と少数派をつくり、前者が後者を排除する構造を生み出す。

 学校現場で子どもたちは「みんなで一致団結してよかったね」という方向に落としどころを見つけようとする。そこで平田は「フィクションの力」を使って、子どもたちの意見が別れざるをえないように仕向けるという。

『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』
発行:青土社
発行年月:2017年8月1日


2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…


2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…


2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…


  


2017年09月02日

『幼な子われらに生まれ』

『幼な子われらに生まれ』

 『しあわせのパン』の三島有紀子と”ザ・情念”荒井晴彦というミスマッチが正統的なドラマを成立させてしまった。それを可能にするのが、クセのある役者も子役もなんでも来いとばかりに受けまくり、同時に相変わらず浅野忠信がそこにいるとしかいいようがないごとく振舞う浅野忠信の可能性の中心である。

 再婚同士の夫婦信(浅野忠信)と奈苗(田中麗奈)に奈苗の二人の連れ子の、いかにも脆そうな家族が多摩地区を舞台にホームドラマを演じている。後半の展開として信の元妻の友佳(寺島しのぶ)と奈苗の元夫の沢田(宮藤官九郎)を登場させるあたりから、脚本と役者のガッチリ感が半端なく作動する。

 久々の再会の車中、煙草を吸いながら運転する友佳が信に対し、今だから、今更だからいえる名セリフ。「理由は訊くくせに、気持ちは訊かないの、あなたって」。男と女の分かり合えなさを簡潔に表現する脚本。それをわざとらしくなく発話する寺島しのぶは正真正銘の映画女優である。

 スーツ姿の浅野忠信が訪ね、料理人姿の宮藤官九郎と初対面する横田基地のネットフェンス沿いの道。キャラクター感全開でダメ男を体現するクドカンと、それを受ける浅野忠信のツーショット。まるで乾いたロードムービーのシャシンのようだ。

 個人的には、信が職場の出向先(実は離職をほのめかす肩たたき)の工場で、仕分け、ピッキング作業をするシーンが印象に残る。演出として、物流の現場をうまく再現しているということもいえるが、スーツから作業着に着替えた信が都落ちという現実を淡々と受け入れ(しかし成績は芳しくない)「働く」姿が色っぽい。無機質な物流倉庫という背景に馴染むでもなく、ことさら抵抗するでもなく商品をカートに積む仕草は、凛として哀しい。



『幼な子われらに生まれ』
監督:三島有紀子
脚本:荒井晴彦
原作:重松清
出演:浅野忠信/田中麗奈/寺島しのぶ/宮藤官九郎
劇場:テアトル新宿
2017年作品


2017/04/03
『しあわせのパン』
レビューで「ほっこりしました」と書かれそうな(そして実際書かれている)映画は苦手だ。いつ見るのをやめようかと思ったが、美味しそうなパンに惹きつけられて最後まで見てしまった。  しかし、最後のパート、カフェ・マーニを訪れる老夫婦は別物だ。中村嘉葎雄と渡辺美佐子のど迫力、特に中村嘉葎雄はヤバ…


2016/10/14
『淵に立つ』
 自分のやったことが悲劇をもたらすことを認め、半ば諦観する人がいる。映画の登場人物たちはそういう人たちだ。各々が各々の悲劇をもつ。その人たちが関係をもつことで生まれるもうひとつの悲劇。監督は独特のポジションからそれを再現する。『淵に立つ』監督:深田晃司出演:浅野忠信/筒井真理子/古舘寛…


2008/01/05
『サッド ヴァケイション』
桜坂劇場で『サッド ヴァケイション』を観る。『Helpless』『EUREKAユリイカ』に続く北九州サーガ完結編。中上健次に執りつかれた作家はその名を主人公に定めることを潔しとした。そこでは、母親役の石田えりに限らず宮崎あおいも板谷由夏も山口美也子も、そして当然作家の共犯者であるとよた真帆も「母性」か…


2016/10/26
第9章 新しい〈地元〉 『可能なる革命』概要 その10
 戦後史の時代区分「理想の時代→虚構の時代→不可能性の時代」からいえば、かつて東京や大都市は「理想」が実現する場所だった。しかし、その求心力は不可能性の時代に入ると急速に衰えていった。それと同時に地元志向の若者たちが増えていく。地方の若者たちに「地元と聞いて思い出すものは?」と質問すると、返って…


2016/11/02
『さよなら歌舞伎町』
 なによりも、染谷将太のアドレッセントな流し目と、早く鼻をかめよとせかしたくなるほどすすり泣きが似合う前田敦子に対し、フェティシズムを抱かざるをえない。 歌舞伎町のラブホテルに寄せ集まる人びとのある1日を描いた群像劇と、ひとまずいってみる。複数の二人組がそれぞれぴたりの配役で演じられる。各自…