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2019年12月08日

『まく子』鶴岡慧子

『まく子』鶴岡慧子

 瑞々しい撮影であり演出がみられる。

 枯葉を撒くという身体から発する上下運動の寓話性。おそらく原作のポイントであるそれが、原作の段階で「映画的」であると予想され、それを「映像化」したらどうなるか。どのような演出が可能か。その課題に挑戦している。そこに限界があるところが惜しい。

 少年の成長物語に対するミューズを演出するというのは、意外と難しいものなのか。

監督・脚本:鶴岡慧子
出演:山崎光/新音/草彅剛/須藤理彩/つみきみほ/根岸季衣/小倉久寛
原作:西加奈子
劇場:キネカ大森
2019年作品

  


2019年12月08日

『半世界』阪本順治

『半世界』阪本順治

 自分が思っていること、感じていることと、自分にとって大切な他者が思っていること、感じていることの差異。言葉を換えれば、贈与とお返しの互酬性が交換様式の共同体と商品交換の差異。

 自衛隊員として海外派遣され、一人故郷を離れた瑛介(長谷川博巳)が、なんの前触れもなく地元に戻って来た。炭焼き業を営む紘(稲垣吾郎)は瑛介に何かがあって心の傷を抱えていることを察知し、声をかける。瑛介はいう。お前が知っているのは社会にすぎない。俺は世界を知っている、と。難しいこと言うなよ、と紘が返す言葉がやさしく、遣る瀬無い。

 紘、瑛介と小学、中学と仲の良い同級生だった光彦(渋川清彦)は三人の関係性が平等な正三角形だというのが口ぐせ。映画の光の当て方は、だが、紘、瑛介に比べ控えめである。正三角形が脆いことを一番知っているのが光彦であり、だからこそ紘、瑛介の対立構造を微妙に按配できる。

 渋川清彦目当てで見たのだけれども、これまで役者としての姿を見たことがなかった稲垣吾郎の表情がよく(阪本順治がいいところを拾っている)、アメリカンニューシネマのアンチヒーローのような長谷川博巳もこれまた素晴らしい。ということは、渋川清彦が良いということなのだろう。あのヘラヘラがたまらない。

『半世界』
監督:阪本順治
出演:稲垣吾郎/長谷川博巳/渋川清彦/池脇千鶴/小野武彦/石橋蓮司/杉田雷麟
劇場:キネカ大森
2019年作品


2018/01/26
『魂萌え!』阪本順治
 あっけなく夫(寺尾聡)に先立たれた平凡な主婦(風吹ジュン)は、夫に不倫相手(三田佳子)がいたことを知る。それからの再生のドラマ。その道行きの自由な展開に先が読めずドキドキする。なにしろ最後は唐突に映写技師になって『ひまわり』を映写しているところがエンディングなのだから。これは風吹ジュンのため…
  


2019年09月21日

『帰れない二人』ジャ・ジャンクー

『帰れない二人』ジャ・ジャンクー

 2000年代以降の中国大陸の資本化を体現してしまうジャ・ジャンクー作品のミューズが、資本に侵食されることに途方にくれながら、広大な大陸を越境し「行って帰る」物語。愛する男の後半の情けなさが中途半端なためか、ミューズが孤立化するのは、是か非か。彼女に銃を持たせれば、それは様にならないはずはないが、引き金を引くことが資本への対抗とならないのは言うまでもない。

『帰れない二人』
監督・脚本:ジャ・ジャンクー
出演:チャオ・タオ/リャオ・ファン
劇場:新宿武蔵野館
2018年作品


2016/11/01
『山河ノスタルジア』
 映画は3つの時代を時系列で描く。 1999年、山西省・汾陽(フェンヤン)。小学校教師のタオ(チャオ・タオ)、炭鉱夫リャンズー(リャン・ジンドン)、実業家ジンジェン(チャン・イー)は幼馴染。リャンズーとジンジェンはタオに思いを寄せている。「俺には怖いものなんかない」と自信家のジンジェンがタオに…

2016/10/31
『一瞬の夢』
 27歳のジャ・ジャンクーによる長編デビュー作といえば俄然興味がわく。グローバル資本主義に対し開放政策をとる中国社会の変化とそこで生きることの有り様を撮り続ける作家は、そのはじまりにおいて、自我と対象との距離の取り方をどう処理したのか。 主人公の小武(王宏偉)はスリの常習犯であり、その振る舞…

  


2019年08月02日

『アンダー・ユア・ベッド』安里麻里

『アンダー・ユア・ベッド』安里麻里

 一人の女に対する一方的な欲望の表現として「変態」的な関わり方をする。そのイタすぎる挙動が映画の売りとなる。一人の女に対する偏執に限らず、ヒッチコック『サイコ』から数えて、その偏執狂ネタの亜流は枚挙にいとまがない。だから、この映画も量産されるそのうちの一つに過ぎないだろうと高を括りたくなる一方で、いや、だからこそ、そのありがちな素材を選びあるいは与えられ、観るものの心を揺さぶる映画的クオリティにまで「変態」させるのが映画ではないのかという呼びかけが、「安里麻里」という固有名から否応なく発せられる。その呼びかけに応答するためにレイトショーに出向いた。

 アンダー・ユア・ベッド、つまりいつでも女のそばにいたいという欲望を抑えられず寝室のベッドの下に潜み、女の(性)生活を監視するアンモラルというモチーフは、早くもオープニングのシークエンスで惜しみなく現前する。ベッドの上でいきなり始まる夫と女の音。ベッドの軋み、女の喘ぎ。頭上のその振動に三井直人(高良健吾)は片手でそっと触れようとする。触れたかどうかわからないほど微妙に。その表情は、恍惚なのか哀切なのか煩悶なのか、それとも憤怒なのか。そう、この映画は他者からの安易な感情移入を拒否する高良健吾の多様な表情のドラマなのだ。

 三井をそうさせた過去。少年時代から一貫して存在感が薄いゆえ、他人の記憶に残らない孤独な心象風景。たった一度だけ、大学の講義室で背後から囁くように「三井君」と声をかけてくれた佐々木千尋(西川可奈子)の忘れられぬ思い出。追憶は百パーセント純度の欲望となる。西川可奈子は、透明だが同時に粘つくような声音を相手が高良健吾のときにのみ発する。半無意識に扇情させ欲情させるその声音の力は、後半、DV夫から受ける凄まじい暴力シーンでの西川の身体表現以上に映画として大きい。そしてその呼びかけの声はラストシーンでの救い(の可能性)として決め台詞となる。

安里麻里×黒沢清

 上映終了後のトークショーがまた面白かった。安里の映画美学校時代の恩師に当たる黒沢清との対談。まず、舞台に上がる際、客席袖を舞台に向かって走る安里(女タランティーノのファンサービスか!)、それにつられて小走りで続く黒沢。黒沢清が走っている?二度と見られない映画以上のパフォーマンス!

 黒沢といえば幽霊。千尋の家を探り出し、家の前に佇む三井の前に、玄関から現れ、三井に気づかず目の前を通り過ぎていく千尋の、何かしら問題を抱えた仄暗さが示唆される演出について、「幽霊のようだともいえる」と黒沢。三井が千尋の家の前にオープンさせた観賞魚店のドアを開けて千尋が入ってくるカットの、背後から日照を浴び表情がおぼろげになっているところも幽霊のようだ、と。うむ、なるほど。

 千尋が夫のDVから逃れようと乗り込む車と、三井の少年時代の回想シーンで父親から車内に置き去りにされる車がBMWであるという細かい指摘をし、何か意味があるのかと黒沢。「やっぱりBMWに乗っている人はヤバイ人が多い、ということで…」と真偽の定かでないボケで返す安里。

 前半の三井のモノローグから、後半千尋のモノローグへ一転するところを評価する黒沢。我が意を得たりと安堵の笑みを見せる安里。

 黒沢から送られた昔のメールが安里から紹介される。「アサトのホンは物語を飛躍させようと無茶をする。その無茶が過ぎると、観客は心の動揺をごまかそうと笑う。笑ってもいいと思わないで欲しい。今の君にとって、これは危険な誘惑だ。頼むからしないでくれ。観客の心を凍らせねばならない。笑う余裕なんか与えたら失敗だ」(安里麻里のツイッターから抜粋)。幽霊にとり憑かれた監督らしい忠言である。

 ところで安里麻里といえば、その劇場長編デビュー作『独立少女紅蓮隊』(2004年)を、当時支配人をしていた沖縄のミニシアターで上映させてもらった。その時もトークショーを開き話を聞かせてもらったが、その変わらない印象から良き思い出が甦った。いつかまた必ず、彼女が監督する沖縄についての映画を観てみたい。そのときこそ何か関わってみたいという一方的な妄想を抱く。アンダー・ユア・ベッドで。

『アンダー・ユア・ベッド』
監督:安里麻里
出演:高良健吾/西川可奈子/安部賢一
劇場:テアトル新宿
2019年作品


2019/06/28
『旅の終わり世界の始まり』黒沢清
 ウズベキスタンへのロケ、登場人物が撮影クルーという設定、役者たちが中央に配置しカメラに向かってポーズをとる宣伝写真がすでに映画の「出来高」とは別の何かを予言してしまっている。 それぞれの役者たちが「旅」先のようなロケ地で完璧な職業人と化して映っている。演技によって撮影クルーのリアルさが現…

2017/09/25
『世界最恐の映画監督 黒沢清の全貌』
 『岸辺の旅』で脳裏について離れない浅野忠信のパッと消えるラストについて、蓮實重彦は次のように指摘している。「生きていない人の影」の「出現と消滅」は黒沢作品の主要テーマであるが、それまでの作品と比べて、「きわめてぶっきらぼうに、いるものはいる、いないものはいないという描き方」だと。その「ぶっき…

2017/09/23
『散歩する侵略者』黒沢清
 映画的な衝撃を受け笑ってしまうショットの数々。冒頭からして凄まじく笑える。『Seventh Code』のラストショットから始まるのか、まさか!?という驚き。 長澤まさみの総体がよい。松田龍平の淡々ぶりがよい。いつものように不意に上手からインする笹野高史はもはやお約束の境地か。 黒澤作品ではお馴染…

2017/09/22
『Seventh Code』黒沢清
 けったいな映画だ。いや、映画はけったいだ。いやいや、黒沢清の映画はけったいだ。ゆえに、黒沢清はけったいだ、とはならない。たぶん。 どうして冒頭からいきなりロシアなのか。前田敦子の入り方があまりにも乱雑ではないか。それはそうと、前田敦子がガラガラひきずるキャリーバッグが重そうでうっとりして…

2016/07/08
『クリーピー 偽りの隣人』
 元刑事で犯罪心理学者の高倉(西島秀俊)は妻康子(竹内結子)と一軒家の新居に引っ越ししてきた。挨拶回りで訪ねた隣家の西野(香川照之)に対する二人の印象は「感じが悪い」。しかし「感じの悪さ」を観る者に与えるのは西野の異様さだけではない。ロケーションで選ばれた両家の外観、過去に行方不明事件が起き、…

  


2019年06月28日

『旅の終わり世界の始まり』黒沢清

『旅の終わり世界の始まり』黒沢清

 ウズベキスタンへのロケ、登場人物が撮影クルーという設定、役者たちが中央に配置しカメラに向かってポーズをとる宣伝写真がすでに映画の「出来高」とは別の何かを予言してしまっている。

 それぞれの役者たちが「旅」先のようなロケ地で完璧な職業人と化して映っている。演技によって撮影クルーのリアルさが現されているのに「旅」をしているようだ、なんておかしな話だが、それがこの映画の魔力にちがいない。

 「自分探しの主人公」というあられもない設定を前田敦子に強いた黒沢清は何がしたいのだろう?と、本来は問うことになるはずの脚本なのだが、それが瑕疵に見えないから不思議だ。異国で途方に暮れるかなりイタい女の子が主人公の『Seventh Code』の反復なのだが、黒澤作品のこの路線といえばもはや前田敦子しかありえないという倒錯した考えが浮かび、だとすればそれはすでに黒沢の術中にハマってしまったのだからとあきらめるしかないのか。

 それはそうと、柄谷行人ー津島佑子ー黒沢清という遊動論サークルが誕生したことに驚き慄きさんざめくしかない。

『旅の終わり世界の始まり』
監督・脚本:黒沢清
出演:前田敦子/染谷将太/加瀬亮/柄本時生/アディズ・ラジャボフ
劇場:テアトル新宿
2019年作品


2017/09/25
『世界最恐の映画監督 黒沢清の全貌』
 『岸辺の旅』で脳裏について離れない浅野忠信のパッと消えるラストについて、蓮實重彦は次のように指摘している。「生きていない人の影」の「出現と消滅」は黒沢作品の主要テーマであるが、それまでの作品と比べて、「きわめてぶっきらぼうに、いるものはいる、いないものはいないという描き方」だと。その「ぶっき…

2017/09/23
『散歩する侵略者』黒沢清
 映画的な衝撃を受け笑ってしまうショットの数々。冒頭からして凄まじく笑える。『Seventh Code』のラストショットから始まるのか、まさか!?という驚き。 長澤まさみの総体がよい。松田龍平の淡々ぶりがよい。いつものように不意に上手からインする笹野高史はもはやお約束の境地か。 黒澤作品ではお馴染…

2017/09/22
『Seventh Code』黒沢清
 けったいな映画だ。いや、映画はけったいだ。いやいや、黒沢清の映画はけったいだ。ゆえに、黒沢清はけったいだ、とはならない。たぶん。 どうして冒頭からいきなりロシアなのか。前田敦子の入り方があまりにも乱雑ではないか。それはそうと、前田敦子がガラガラひきずるキャリーバッグが重そうでうっとりして…

2016/07/08
『クリーピー 偽りの隣人』
 元刑事で犯罪心理学者の高倉(西島秀俊)は妻康子(竹内結子)と一軒家の新居に引っ越ししてきた。挨拶回りで訪ねた隣家の西野(香川照之)に対する二人の印象は「感じが悪い」。しかし「感じの悪さ」を観る者に与えるのは西野の異様さだけではない。ロケーションで選ばれた両家の外観、過去に行方不明事件が起き、…

2016/11/02
『さよなら歌舞伎町』
 なによりも、染谷将太のアドレッセントな流し目と、早く鼻をかめよとせかしたくなるほどすすり泣きが似合う前田敦子に対し、フェティシズムを抱かざるをえない。 歌舞伎町のラブホテルに寄せ集まる人びとのある1日を描いた群像劇と、ひとまずいってみる。複数の二人組がそれぞれぴたりの配役で演じられる。各自…

  


2019年06月17日

『現認報告書―羽田闘争の記録』小川紳介

『現認報告書―羽田闘争の記録』小川紳介

 羽田闘争の映像を初めて見ることができた。弁天橋上を陥落しそうなほどデモ隊とカマボコで埋め尽くされる俯瞰の構図。機動隊が号令とともに「確保」に走る。逃げ損ねた学生を多勢に無勢の勢いから警棒でボコボコにする。「手錠をかけろ」と繰り返される声。大鳥居駅ホームで複数の機動隊員に引きづられる学生。学生の搬送先としてインタビューを受ける牧田病院院長(当時)。逮捕寸前で住民に助けらたと語る頭に包帯を巻いた女子学生。死亡した京大生・山崎博昭の死の真相を追求する闘士たち。みな、わたしが生まれた後の時代の出来事である。最後に、逃げ切った闘士たちのひとりひとりの表情をパンしながら正面からカメラは捉える。それぞれの異様な眼光の鋭さは、わたしと現在までの時間を射抜くようだ。

『現認報告書―羽田闘争の記録』
特集上映:〈岩波映画製作所出身の監督たち〉より
監督:小川紳介
劇場:川崎市民ミュージアム
1967年作品


  
タグ :小川紳介


2019年06月15日

『さよならくちびる』塩田明彦

『さよならくちびる』塩田明彦

 解散を意識したデュオ“ハルレオ”のハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)と付き人シマ(成田浚)の三人が向かう最後のツアー。秦基博が提供した楽曲「さよならくちびる」は、曲の内容が映画のテーマそのもの。しかもそれを二人の女優が吹き替えなしで歌う。二人の演奏シーンはたくさんある。いずれの演出と演技もが高水準でなければ、映画全体が損なわれていたに違いない。この映画の制作サイドは初めから分かっている冒険に着手し、見事なまでに成功している。

 脚本上の三人の主人公の設定がきめ細かく、三人の役者が新鮮に演じきっている。別れを意識した後の尾をひく切なさという感情の発露を、音楽とロードムービーという形式に相関させる塩田明彦のセンスと力量には舌をまくしかない。

 車での移動シーンが美しい。それはたんにつなぎのカットでは、まったくない。三人の微妙な関係性からくる緊張感が、通り過ぎていく車窓の風景を刷新していくようで。

 間違いなく今年一番の作品。劇場から出た後、余韻に包まれつつ日比谷の街を異人のようにさまよってしまった。

『さよならくちびる』
監督・脚本・原案:塩田明彦
出演:小松菜奈/門脇麦/成田浚
劇場:TOHOシネマズ日比谷
2019年作品
  


2019年06月10日

『オキナワへ行こう』大西暢夫

『オキナワへ行こう』大西暢夫

 6月9日多摩市民館にて『オキナワへ行こう』上映会&トークショー&写真展が約160名の参加者(主催者発表)を集め開催された(主催はNPO法人たま・あさお精神保険福祉をすすめる会)。

 同作品はスチール・カメラマンとして精神科病院の患者を長年撮影してきた大西暢夫さんによるドキュメンタリー。大阪府堺市の浅香山病院は大型の精神科病院だが、その中から数名に対象を絞り、院内の生活に密着する。

 大西さんの写真展参加を動機付けとして、沖縄旅行を計画。当初盛り上がっていた3名は医師の許可が下りず断念、2名が予定通り行くことに。自らの誕生日の記念にと提案していた言い出しっぺの女性が出発直前になって行かないと言い出し、しかし自らの不安を言語化できず身体を強張らせる。翻意を期待して寄り添う看護師がひたすら側で待つシーンにケアの本質が捉えられている。結局この女性は沖縄へ行くことに。クローズアップされた女性の美しさ。旅行中彼女の表情はにわかに豊かになっていく。

 カメラはひとりひとりへ退院の意向をそれとなく訊くが、皆、無理だと答える。長期になればなるほど、そのハードルは高くなるという悪循環。本人たちの意志だけに任せるのは無理があるように思えてならない。

 大西さんに病院内での写真展を提案するなど協力的だった師長が、長期入院についてのジレンマをこぼすシーンが印象に残る。彼女はその後病院を退職し、障害者支援施設を立ち上げる(NPO法人 kokoima)。

 後半のトークショーで、大西さんは長期入院に対する疑問が制作の動機だと語り、「患者」を社会がもっと受け入れるべきだと問題提起した。また、フロアからは、精神障害者の親の立場として、長期入院について、家族としては入院させておけば安心だという本音の発言が上がった。これに対し、大西さんは、家族だけで抱えるのは無理があり、グループホームその他受け入れ場所が増えることに期待したいと応答した。

 実はこの映画の配給をNPO法人 kokoimaが担っているという。これは障害者支援施設にとって、新しい事業のモデルケースにならないだろうか。「映画の配給」というと限定されるが、外部の協力者と連携することで、文化的なコンテンツを作っていくことは、当事者運動という側面からも可能性が感じられる。

『オキナワへ行こう』
監督・撮影:大西暢夫
劇場:多摩市民館
2019年作品


2019/05/11
『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』東畑開人
 沖縄の精神科デイケア施設で心理士として勤務した4年間をエッセイ形式で綴った学術書。現在の自分の関心領域にあまりにもハマり過ぎる内容であり、時間を忘れて一気に読んでしまった。その関心とは、1に設定が沖縄であること、2に精神疾患のケア(とセラピー)についてのリアルな現場報告であることの切実さ、3…

2018/12/08
『みんなの当事者研究』熊谷晋一郎=編
対談─来るべき当事者研究─当事者研究の未来と中動態の世界熊谷晋一郎+國分功一郎 興味深い二人の対談において、2つの対立軸を乗り越える方向性が確認できた。1つは、能動/受動の対立軸、2つは、運動と研究の対立軸である。 まずは、能動/受動の対立軸について。 熊谷晋一郎は國分功一郎著『中…

2018/10/08
『症例でわかる精神病理学』松本卓也
 精神病理学には3つの立場がある。記述精神病理学、現象学的精神病理学、そして力動精神医学(精神分析)という。 ヤスパースに始まる記述的精神病理学は、患者に生じている心的体験(心の状態や動き)を的確に記述し、命名し、分類する。その際、「了解」という方法がとられる。「了解」とは、医師=主体が患…

2019/03/03
『技法以前 べてるの家のつくりかた』向谷地生良
 統合失調症など危機的な状況を生きる当事者とその家族。当事者は親と口をきかず部屋に閉じこもる。ときに上がる大声や暴力から、苦しみを回避したいというメッセージが著者には透けて見える。当事者と家族が対立しているように見える構造を一度ばらばらにして、当事者の振る舞いが、結果として全く正反対の暴言や暴…

2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…

  


2019年06月02日

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』フレデリック・ワイズマン

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』フレデリック・ワイズマン

 パブリック(公共)という言葉の意味はこういうことなのだ、と今更ながら知らされる。それはピープルと極めて親和的であるということである。日本では公共=お役所であり、ピープルからは哀しく遠い。

 この場所では、本の貸し出し・蔵書はその役割のほんの一部であるということが映し出され、この映画に関心を持つ多くの人もそこを焦点化するだろう。ほとんど役所が担うべき社会保障制度の施策が行われているのは驚くしかない。

 そこで改めて考えてみる、そこに本がある、ということを。本はピープルが集うための、すなわちアセンブリのための、とりあえずのメディアなのではないか。ここで「とりあえずの」ということに若干注意したい。その意味は、メディアとは手段と目的がしばしば逆転するものだからである。一方で、本を目的に集い、他のサービスに対して関心が傾くケース。他方で、ダンス教室に来た高齢者がなんとなく本棚に足を向けるというような逆のケース。いずれも本がそこで介在している。

 読書をするという行為は読み聞かせなどを別にすれば、各々単独の行為である。事実、それを保つために図書館は静かだ。独りの読書の時間、リサーチの動きに没頭できる。だがしかし、こういう感覚を持ったことがあるのは私だけだろうか。そこで本を読みながら想像力の世界に浸っているとき、時より、自らとその空間のあいだに目に見えないが知的でアンビエントな言語が漂っているというような。それが本はアセンブリのためのとりあえずのメディアであるということの意味である。アセンブリは、始めにピープルが同じ一つの目的のために集うことを必ずしも要しない。

 運営スタッフの会議場面が何度も登場する。財源についての議論。プライベート(民間)からの寄付金の増加が、公的財源を刺激する。次にその逆の事態も生まれるのだと。自分の考えを論理的に述べ、相手の話を最後まで聴くその場に私たちも立ち会うことで、パブリックとプライベートの緊張関係は能動的にピープルがつくるものなのだと合点する。

 ワイズマンは長い長いシークエンスをひたすらつなぐ。長短のカットでモンダージュを構成するのではなく、それぞれのシークエンスの合理を実直に完結させる。それによって、そこで行われていることの可能なあらゆることが拡張されて、観る者は責任を持って感受する。まるで19世紀当時近代小説を初めて読んだ体験がこんな感じだったのではないかと転倒した感覚さえ持つ。そんなものを3時間半にもわたって満席の観客に最後まで注視させるのだから、ドキュメンタリーってなんだろうと呆けてしまう。

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』
監督・製作・編集・音響:フレデリック・ワイズマン
劇場:岩波ホール
2017年作品


2016/07/11
『ローカルメディアのつくりかた 人と地域をつなぐ編集・デザイン・流通』
 図書館の新刊コーナーで手にとり読んでみようと思ったのは、ずばりこのタイトルに関心があるからだった。内容は事例紹介のようだ。この手の本は平均的なものが多い。だから、欲しい情報が得られればそれでよしとしよう。まあ、そんな動機で借りることにした。一読、期待以上の内容であった。かなりいい本である。…

2014/12/01
書評『つながる図書館 ──コミュニティの核をめざす試み』
 レンタルビデオチェーン「TSUTAYA」が図書館を運営、しかも店内には「スターバックス」が出店という佐賀県「武雄市図書館」のニュースには、ふだんから図書館を利用するしないにかかわらず、関心を持たれた方も多いのではないか。以降、無料貸し出しの公立図書館に営利サービスが導入されることの是非について少なくない…

2018/06/21
『脱住宅「小さな経済圏」を設計する』山本理顕+仲俊治
 〈序章 住宅に閉じ込められた「幸福」〉をゾクゾクしながら読んだ。およそ次のよなことが書かれている。19世紀の産業革命以降、人間を取り巻く環境の変化として大きいのが「一住宅=一家族」という住まい方であり、それは労働者のためのものであった。優れた労働者を確保し生産性を向上させることを目的に、彼らを…

2017/04/02
『わたしは、ダニエル・ブレイク』ケン・ローチ
 イギリス北東部ニューカッスルで長年大工をしてきたダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は心臓に病を持ち、医者から仕事を止められる。職安に国の援助を求めるが、複雑な制度や硬直的なお役所仕事の対応をされ、申請がままならない。職安で同じように冷たい対応をされた、ロンドンから来たという二人の子ども…

2017/03/08
『アレント入門』中山元
 本書は思想家の「入門もの」であるが、ハンナ・アーレントがドイツを離れて亡命するきっかけに切り口をしぼっている。アーレントが亡命したのはナチスの迫害を逃れるためであったことはいうまでもないが、「出来事」としてより注目すべき点がある。それは、それまで信頼していた友人たちがナチスのイデオロギーに幻…

  


2019年05月03日

『ブラック・クランズマン』スパイク・リー

『ブラック・クランズマン』スパイク・リー

 ここしばらくエンターテイメントについて考えている。対立項は、リアリズムだったり、芸術だったりするわけだが。表現する立場と享受(消費)する立場でそれが異なることも含めて。この映画はさらにそのことを考えることをうながす。

 70年代後半、アメリカ・コロラド州コロラドスプリングスで唯一採用された黒人の新米刑事が白人至上主義を掲げる過激派団体KKK(クー・クラックス・クラン)に潜入捜査をしかけるという原作は、実話に基づいている。スパイク・リーは当時の文化的背景の魅力とともに、原作に忠実にドラマを表現することに成功している。

 エンターテイメント性ということでいえば、アフロヘアー、"Right On Right On"といったスラング、全盛期のブラック・ミュージック、キング牧師暗殺後のブラックパンサー党のムーブメントなど黒人文化の魅力的な再現はもちろんである。だが、それ以上に、黒人差別にまつわる直接的な暴力の描写をかなり控えている点が見逃せない。直接的ではないが、いや、直接的でないが故に伝えようとしている。たとえば、実際のリンチによる凄惨な写真の提示と、生存者の語りを共有する集いの場のモンタージュといった手法で。

 それは脚本上の繊細で入念な仕掛けによってそうしている。その一つが、おとり捜査というドラマ的手法である。ドラマや映画で表現されるおとり捜査とは、おとりがいつバレるかハラハラドキドキさせ、ついにバレる。ところが、この映画ではハラハラドキドキと、登場人物も観る者もいっしょに脱力させる独特の笑いが交互に並走する。そしておとりは最後までバレない。『Do The Right Thing』でも笑いはスパイスとしてあったが、やはり暴力という現実が勝っていた。今回のスパイク・リーは老練な落語家の如しである。

 公式サイトのコメントページでは、少数のマシなコピーが目についた。「骨太で笑える社会派」(菊地成孔)「フィクションから逸脱するメッセージ」(いとうせいこう)など。「伝えなければいけないことがある映画は強い」(大森立嗣)のは、前述の過去作品がすでにそうであったわけで、問題はその伝え方にある。

 そしてもう一つ、着目すべきポイントは、黒人と白人(実はユダヤ系)の入れ替えという仕掛けである。主人公の黒人刑事ロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)は電話でKKKにアポイントをとることに成功するが、黒人の自分が潜入するわけにはいかず、白人の同僚刑事フリップ・ジマーマン(アダム・ドライバー)に自分のふりをさせ、組織内に潜入させる(代行のドラマ)。

 黒人のロンが吐く黒人への差別的言葉と、フリップが発する黒人そしてユダヤ人への差別的言葉。両者はわずかにズレながら、映画内に暗い澱みを沈潜させる。その淀みから目をそらすことは、白人であれ黒人であれ、その他の人種であれ、できない。

 白人至上主義者のなかには黒人のみならずユダヤ人への差別意識を持つ者もいる。それまで自身を「白人」としして半ば自明視し、民族的な意識は希薄だったフリップだが、その差別に直面することで、ユダヤ人のアイデンティティーがせり上がる自身にとまどう。飄々としたフリップの面立ちや仕草が微妙に変化していく様を、アダム・ドライバーが見事に演じている。

 さらにいえば、ロンとフリップ、黒人とユダヤ人二人の刑事のバディものということもできる。KKKとブラックパンサー党のシンメトリカルな躍動も、物語を前進させる。前述の2作品では、二項対立が映画のクライマックスで衝突するという構成があり、それがムーブメントとして観る者に呼びかける力があったのは確かであるが、それは一時的な力だったかもしれない。『ブラック・クランズマン』には潜性力がある。それは過去のみならずヘイトな現在において。

『ブラック・クランズマン』
監督:スパイク・リー
出演:ジョン・デヴィッド・ワシントン/アダム・ドライバー/ローラ・ハリアー/マイケル・ブシェミ/ライアン・エッゴールド
劇場:TOHOシネマズ川崎
2018年作品


2016/08/18
『アレサ・フランクリン リスペクト』
 あのソウルの女王についての、長い、分厚い、そしてドシドシブ熱い評伝が本書。黒人社会のなかでレヴァレンド(説教師)としてカリスマ的な父親C.L.フランクリンを女王がとても愛していて、C.L.の同志マルティン・ルター・キングの集会にきて歌ってくれとC.L.から頼まれればいつでも駆けつけたことや、バックコーラ…
  


2019年03月17日

『金子文子と朴烈』イ・ジュンイク

『金子文子と朴烈』イ・ジュンイク

 全編で発せられる「日本語」を「日本人」として聞くことの異和が、劇映画的脚色をカタルシスにさせない。「日本語」の音声は、すこぶる魅力を発するチェ・ヒソ演じる金子文子のエネルギーとわずかに交わらない。それが前提であり、すべてである、というしかない。そこにとどまって、なおかつ、何をいい得るのか、わたしは。

『金子文子と朴烈』
監督:イ・ジュンイク
出演:イ・ジュファン/チェ・ヒソ/キム・インウ/キム・ジュンハン
2017年作品
劇場:シアターイメージフォーラム


2019/01/21
『1987、ある闘いの真実』チャン・ジュナン
 韓国人がなぜ政治に熱い国民なのか、それは自分たちで血を流し民主化を勝ち取った歴史的経験をもつからであり、それに比べその経験のない日本人は政治に無関心でいられる、という説がある。今からわずか30数年前の韓国で実際に起こった民主化運動をリアルに描いたこの作品は、確かにその説を補強するだろう。バブ…

2019/01/20
『タクシー運転手 約束は海を越えて』チョン・フン
 興奮冷めやらぬただ中、とりあえず2つのことに触れたい。 1つ。この映画は「行って帰る」物語の文法に忠実である、というよりほぼそのものであり、なおかつその「鉄板」過ぎる構造にもかかわらず傑作であるということ。ソウルから光州へ連れて行くことをドイツ人ジャーナリストのピーターから依頼されたしが…

  


2019年01月21日

『1987、ある闘いの真実』チャン・ジュナン

『1987、ある闘いの真実』チャン・ジュナン

 韓国人がなぜ政治に熱い国民なのか、それは自分たちで血を流し民主化を勝ち取った歴史的経験をもつからであり、それに比べその経験のない日本人は政治に無関心でいられる、という説がある。今からわずか30数年前の韓国で実際に起こった民主化運動をリアルに描いたこの作品は、確かにその説を補強するだろう。バブルに浮かれた学生時代を過ごし、後に「平和な」国の唯一の例外として苛烈な抵抗運動のあった/そして今もある沖縄という地で生活した経験を重ねざるを得ない私のフィルターを通しても、PTSDに行きつくような切迫感と嫌な発汗が上映中あった。

 「デモで政治は変わるのか?」。キャンパス生活を謳歌しようとする女子大生ヨニ(キム・テリ)は、甘いマスクのイ・ハニョルから学生運動に誘われ、疑問をぶつける。この女子大生の日常があり、しかしその隣で国家の暴力と市民の民主化闘争が行われていた。その生々しさを、映画はよく描いている。

 同時上映の『タクシー運転手 約束は海を越えて』と比較してみる。『タクシー運転手 約束は海を越えて』は、エンタテイメントと硬派な政治史という題材の稀な両立があったが、『1987、ある闘いの真実』はドキュメント・タッチで積み重ねるように映画が進行する。しかし、クライマックスでは、やはりハラハラドキドキの追跡シーンとドンデン返しがある。その部分にやや作為を感じてしまうのは否めない。改めて、『タクシー運転手 約束は海を越えて』の成功の稀であることがわかる。

 それにしてもこの二本立てはキツい。

『1987、ある闘いの真実』
監督:チャン・ジュナン
出演:キム・ユンソク/ハ・ジョンウ/ユ・へジン/キム・テリ
劇場:キネカ大森
2017年作品


2019/01/20
『タクシー運転手 約束は海を越えて』チョン・フン
 興奮冷めやらぬただ中、とりあえず2つのことに触れたい。 1つ。この映画は「行って帰る」物語の文法に忠実である、というよりほぼそのものであり、なおかつその「鉄板」過ぎる構造にもかかわらず傑作であるということ。ソウルから光州へ連れて行くことをドイツ人ジャーナリストのピーターから依頼されたしが…

  


2019年01月20日

『タクシー運転手 約束は海を越えて』チョン・フン

『タクシー運転手 約束は海を越えて』チョン・フン

 興奮冷めやらぬただ中、とりあえず2つのことに触れたい。

 1つ。この映画は「行って帰る」物語の文法に忠実である、というよりほぼそのものであり、なおかつその「鉄板」過ぎる構造にもかかわらず傑作であるということ。ソウルから光州へ連れて行くことをドイツ人ジャーナリストのピーターから依頼されたしがないタクシー運転手キム・マンソプが「光州事件」を目撃し、衝撃を受け、ジャーナリストを無事ソウルまで連れ帰るミッションに目覚めるという成長(変身)物語でもある。

 2つ。エンタテイメントと硬派な政治史という題材の稀な両立について。「行って帰る」物語の文法に基づいたエンタテイメントの成功は、やはり主人公のタクシー運転手を演じたソン・ガンホの配役を抜きには考えられない。何を演じても「ソン・ガンホ」になってしまうソン・ガンホであるが、それにつきまとう「毎度の虚構性」があるにもかかわらず、観る者はソン・ガンホ演じるタクシー運転手を通し、戒厳令下に置かれた光州に忍び込み、暴力装置としての国家の正体に直面する。その意味で、公式サイトにある以下の言葉は、なるほどとうなづいてしまう。
 
“ソン・ガンホがポスターの中で笑う分だけ映画は悲しさを帯びる”。タクシーの中で明るく笑うマンソプが写し出されているポスターが韓国で公開された後、SNSに飛び交った言葉である。俳優ソン・ガンホを観客がどのように見ているかを端的に表わした文章だと言えよう。表向きに見せる単純な表情、その裏側にある動揺と葛藤、心の行方を複合的に生かした彼の演技により、観客はある一人の運転手を通じてタイムトラベルをすることになる。

 あまりにも恐ろしい史実を描く「意義」とエンタテイメント(ハラハラドキドキのカーチェイスや、ピーターがキムチを食べその辛さにヒーヒーいう姿を見て、不信感を拭えないでいたマンソプとの間に信頼感が生まれる場面、などなど)は水と油の関係に陥りやすいはずなのだが、この映画の衝撃は、その両立なくしてありえない。観る者は一瞬未知の体験にとまどい、次に驚く。

『タクシー運転手 約束は海を越えて』
監督:チョン・フン
出演:ソン・ガンホ/トーマス・クレッチマン/リュ・ジョンユル/ユ・へジン
劇場:キネカ大森
2017年作品


  


2019年01月14日

『洲崎パラダイス 赤信号』川島雄三

 自分のフェティッシュな映画愛の最も近しいところにある作品。その再会を、新年早々寒い道を歩いて求めた。

 初めて観たときの印象としてひたすら脳裏から離れない冒頭の勝鬨橋のシーン。はすっぱながら粗末な着物姿からも色気を漂わせる蔦枝(新珠三千代)と失業中で暗い表情の義治(三橋達也)。生活に疲れ行く当てもない二人のあきらめ、倦怠、腐れ縁のほころびの現れが、なぜにこれほどまでに美しいのか。

『洲崎パラダイス 赤信号』川島雄三

 次の瞬間、蔦枝はバスに乗り込む。慌てて後を追う義治。降り立ったのは洲崎。川の向こうに「洲崎パラダイス」と電飾が妖しく謳うゲートがそびえている。かつてその向こう側の遊郭で娼婦をしていた蔦枝は、川沿いの飲み屋(貸しボート屋も兼ねている)の女将お徳(轟夕起子)に談判し、住み込みで働かせてもらう。気の良いお徳は近所の蕎麦屋の出前持の仕事を義治に口利きまでする。

 映画はこの後、店の客で羽振りの良い落合(河津清三郎)とねんごろになる蔦枝と、蕎麦屋の看板娘玉子(芦川いずみ)に気にかけられる義治のすれ違いという方向へ展開する。義治が蔦枝を探して、落合の仕事先の神田界隈(現在の秋葉原)を腹を空かせた野良犬のように彷徨うシーンは圧巻である。蔦枝の前では事あるごとに「どうせ俺なんか死んでしまえばいいんだ」とジメジメしたセリフを吐いていた義治であるが、この迫真に迫るシークエンスで感受されるのは、蔦枝へのケチくさい「未練」が、義治にとって生きるための欲望の表出であることが、義治自身そして映画を観る私たちさえ初めて気づかされるという驚きがそこにはあるのだから。

 一方の蔦枝は落合との仲が切れ、ふたたび洲崎に姿を現す。「洲崎パラダイス」の電飾。ただならぬ気配でそれをにらむ蔦枝。蔦枝の逡巡と恐ろしい選択の可能性を暗示させる見事なカットバック。

 ところで忘れてならないのが、若き小沢昭一扮する蕎麦屋の出前持三吉。先輩風を吹かせ義治にあたる三枚目役が適役以上。姿を現す間合いだけで客席から笑いが起こる(もちろん私も)。のちの『幕末太陽傳』のトリックスターを、映画ファンは「待ってました!」とばかりに娯しむ。

 ラストシーンは再び勝鬨橋に。結局よりを戻した二人。義治もいったんは蕎麦屋に腰を落ち着かせ堅気の生活が続くのかと思えば、あっさりそれを捨ててしまう。バスが来る。今度は義治が先に足早にバスに向かって走る、蔦枝の手をとりながら。もちろんアテなどないだろう。自由と欲望が一致するかろうじてわずかな一瞬というアドレス(宛先)を除いては。

『洲崎パラダイス 赤信号』
監督:川島雄三
出演:新珠三千代/三橋達也/轟夕起子/河津清三郎/芦川いずみ/小沢昭一
原作:芝木好子
劇場:テアトル新宿
1956年作品
  


2018年12月01日

『ボヘミアン・ラプソディ』

『ボヘミアン・ラプソディ』

 この映画の要素を3つ挙げてみる。1、ロックバンドのサクセスストーリー、2、セクシャリティを含めたフレディ・マーキュリーのカリスマ的なキャラクター、3、ラストの「ライブ・エイド」までに至るライブ・パフォーマンスの圧倒的臨場感。さらに付け加えるならば、これは1〜3に関連するが、終演後会場を後にする観客の会話に「知ってる曲ばかりだった!」という若い女性の声が聞こえたが、クィーンをリアルタイムで聴いた経験がない世代も含め幅広い層に知られているという(洋楽であるにもかかわらず)彼らの楽曲の魅力もはずせない。というより、これが一番といっていいかもしれない。

 そのクリソツなパフォーマンスに比べ、ラミ・マレックの顔そのものは似ていない。しかしながら、数々のクローズアップが示すフレディの感受性の豊饒さは、それを観る者の想像力をかき立てる。そのまなざしの先に、独特のヒット曲誕生の瞬間があり、それに立ち会えるという贅沢を味わえるのだから。

 そして「ライブ・エイド」。持ち時間20分という制約を受けての4曲の構成。意表をつくいきなりの「ボヘミアン・ラプソディ」始まり。美しいメロディなのにヘタウマなピアノ。過呼吸気味のボーカル。人殺しの告白。ママ、ウーウウウー…。当時テレビの生中継を徹夜して見ていた青臭い自分は、何を受けとめ、何を受けとめ損なったのだろう。

『ボヘミアン・ラプソディ』
監督:ブライアン・シンガー
出演:ラミ・マレック/ルーシー・ポイントン/グウィリム・リー/ベン・ハーディー/ジョセフ・マッゼロ
音楽プロデューサー:ブライアン・メイ/ロジャー・テイラー
劇場:TOHOシネマズ川崎
2018年作品



  


2018年06月24日

『万引き家族』是枝裕和

『万引き家族』是枝裕和

 「家族」でなくても、人はつながりを求める。という凡庸なテーゼを証明するために、ホームドラマの定番の畳部屋を、これほど味のある演出ができるとは。そこにいる役者が一人欠けても場が成り立たないという緊張感がありながら、濃厚な豊穣な人いきれを画面いっぱいに漂わせること。それでいて哀しい。それぞれの役者の存在感をきっちり残すことも、この監督の目立たない倫理観であろう。

『万引き家族』
原案・脚本・監督・編集:是枝裕和
出演:リリー・フランキー/安藤サクラ/松岡茉優/池松壮亮/柄本明/高良健吾/池脇千鶴/樹木希林
音楽:細野晴臣
劇場:新宿バルト9
2018年作品


2017/09/10
『三度目の殺人』是枝裕和
 「裁く?私に他人は裁けません」。強盗殺人の容疑者・三隅(役所広司)は弁護士・重盛(福山雅治)から殺人の動機を訊かれ、そう答える。それでは人を裁く権利は誰にあるのか?「ここ(裁判所)では誰も本当のことを言わない」という被害者の娘・咲江(広瀬すず)の言葉が「王様は裸だ」という至言のごとく響きなが…

2016/07/09
『是枝裕和X樋口景一 公園対談 クリエイティブな仕事はどこにある?』
 何を隠そう私はクリエイターという言葉の響きがきらいだ。過去何度かクリエイターとして名指しされたことがあるが、そこはかとなく不愉快であった。曖昧なのに何がしかの権威を持つような含みが嫌なのか。だから、本書冒頭に紹介される「クリエイティブな仕事とクリエイティブでない仕事があるのではない。その仕事…

2017/12/30
『Vu Ja De』細野晴臣
「悲しみのラッキースター(feat.青葉市子)(Vu Ja De ver.)これから君のために歌うよ僕の家に来てくれたらとてもできないと思ってたメロディーが生まれそうUn n n n n nそうか、これは清志郎へのアンサーソングだったんだ。アルバム『HoSoNoBa』(2011)のオリジナルヴァージョンでは気がつかなか…

  


2018年04月29日

『心と体と』エニェディ・イルディコー

『心と体と』エニェディ・イルディコー

 ブダペスト郊外の食肉加工場で代理の検査官マーリア(アレクサンドラ・ボアブリー)が勤務を始めた。マーリアは他者とのコミュニケーションがうまくとれずに周りから孤立している。人生にやや疲れ片腕が不自由な上司エンドレ(ゲーザ・モルチャーニ)は彼女を気にかける。やがて二人は雪降る森を彷徨う雌雄一組の鹿になった同じ夢をみていることに気づく。

 マーリアはコミュニケーション障害である。異常に記憶力が良い。音に敏感だ。細かいことにこだわる。接触過敏である。表情に乏しい彼女の微細な感情の変化、そして彼女の感受する世界を、映画は静かに丁寧に表現している。それは屠殺場のリアルな「機能美」と並列的かつ複数的に存する。

 詩的な風景に点描される鹿と屠殺される牛、透き通るような美しさのマーリアと枯れた男のエンドレ、それらに聖と俗の対比を読み取ることは容易い。孤独な男女が同じ夢をみるというドラマ仕掛けを効果だけだと批判することもできなくはない。たとえそうだとしても、「マーリアは私だ」という強迫観念を観る者は抱き、それは圧倒的だ。そう、「コミュニケーション」なるものが決して自明ではないということも。

『心と体と』
監督:エニェディ・イルディコー
出演:アレクサンドラ・ボアブリー/ゲーザ・モルチャーニ
劇場:シネマカリテ
2017年作品


2017/09/08
〈自分の言葉をつかまえる〉とは? 山森裕毅『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 対話を実践する試み「ミーティング文化」では、〈自分の言葉で語ること〉に価値が置かれる。 ハンナ・アーレントは「言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界のなかに挿入する」といった(『人間の条件』)。アーレントが面白いのは、ひとが言葉によって自分を表すときに、自分がいったいどんな自分を明…

2017/09/06
ダイアローグのオープンさをめぐるリフレクティング 矢原隆行『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグではポリフォニーが強調される。そこでは「すべての声」に等しく価値があり、それらが一緒になって新しい意味を生み出していくと。しかし、実際のミーティングにおいて、多くの声が響いていたとしても、それのみで既存の文脈がはらむ力関係を無効化できるものではない。 リフレクティング…

2017/09/05
ダイアローグの場をひらく 斎藤環 森川すいめい 信田さよ子『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグの前提は「わかりあえないからこそ対話が可能になる」。コミュ力の対象は「想像的他者」、すなわち自己愛的な同質性を前提とする他者。その対極はラカン的な「現実的他者」で、決定的な異質性が前提となるため対話もコミュニケーションも不可能。それに対しダイアローグの対象は「象徴的他者」…

2017/09/04
コミュニケーションにおける闇と超越 國分功一郎 千葉雅也『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 エビデンス主義は多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されている。それはメタファーなき時代に向かうことを意味する。メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということ。かつては「心の闇」が2ちゃんねるのような空間に一応は隔離されていた。松本卓也がいうように、本来だ…

2017/09/03
演劇を教える/学ぶ社会 平田オリザ『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 平田オリザは演劇を日本の教育に取り入れる実践において、まず「会話」(conversation)と「対話」(dialogue)を区別することから始める。「会話」は価値観や生活習慣なども近い者同士のおしゃべり、「対話」はあまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、というように。日本では歴史的に「対話」が概念として希薄で…

2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…

  


2018年03月12日

『ジェネラル・ルージュの凱旋』中村義洋

『ジェネラル・ルージュの凱旋』中村義洋

 大学病院内で起こる殺人事件の謎解きを竹内結子と阿部寛のデコボココンビの主演でという企画。それよりも各登場人物を演じる役者への演出力と、後半クライマックスの救急搬送体制を活写する「倫理的アクション」シーンがなかなかお見事。

『ジェネラル・ルージュの凱旋』
監督:中村義洋
出演:竹内結子/阿部寛/堺雅人/羽田美智子/山本太郎/高嶋政伸/貫地谷しほり/尾美としのり/中林大樹/林 泰文/佐野史郎/玉山鉄二/野際陽子/平泉成/國村隼
2009年作品

Gyao配信期間:2018年3月7日~2018年3月31日

2017/03/03
『フィッシュストーリー』中村義洋
4つの時代と登場人物のドラマが独立して進行しつながる。 2012年、あと数時間で彗星が地球に衝突する。ひと気の無い街で営業中のレコード店を訪れた末期ガン患者の谷口(石丸謙二郎)。「地球が滅亡する日でも好きなレコードを聴いていたい」客に、店長(大森南朋)がパンクバンド「逆鱗」の1枚のレコードを薦…



  


2018年03月11日

『雷桜』廣木隆一

『雷桜』廣木隆一

 嗚咽する蒼井優のいびつな口もとに目が離せない。それに比べれば、「身分」と「定め」に引き裂かれる悲恋物語というプロットはどうということはない。というより、蒼井優のいびつな口もとはプロットを越えている。そこが映画的なのだ。

監督:廣木隆一
出演:岡田将生/蒼井 優/小出恵介/柄本 明/時任三郎/宮崎美子/村上 淳/高良健吾/柄本 佑/大杉漣/ベンガル/池畑慎之介/坂東三津五郎(特別出演)
2010年作品

Gyao配信期間:2018年3月5日~2018年3月31日

2018/03/04
『百万円と苦虫女』タナダユキ
 蒼井優という女優は、観る者の消費的眼差しを微妙にかわすところが魅力なのだが、タナダユキはそうではなく凛とした蒼井優をとらえる。その徹底ぶりによって、逃走することが切断として肯定されるドラマ。最近ではドヤ顔ヤクザが板に付いてしまったピエール瀧が内気な農村中年を好演しているのも見どころ。『百…

2016/12/08
『アズミ・ハルコは行方不明』
 アズミ・ハルコ(蒼井優)を中心とする日常と愛菜(高畑充希)、ユキオ(太賀)、学(葉山奨之)の日常。後者の時制ではすでにアズミ・ハルコは行方不明になっているが、アズミ・ハルコの日常とのカットバックが繰り返される。それは回想という手法ではない。ユキオと学のグラフィティ・アートのユニット”キルロイ”…

2016/09/30
『オーバー・フェンス』
 アリストテレスが『詩学』で定義した「カタルシス」を再確認してしまった。この作品におけるカタルシスの表現、その映画的技法について思わずうなってしまったからだ。 プロットはこんなかんじだろうか。主人公は函館の職業訓練校で土木実習を受けている中年男性の白岩(オダギリジョー)。かつて東京で妻子持…


  


2018年03月05日

『超高速!参勤交代』本木克英

『超高速!参勤交代』本木克英

 良い企画である。ベタなエンタテインメントである。行って帰ってくるという物語の構造そのものの直球勝負である。佐々木蔵之介は上目遣いが素晴らしい役者である。

『超高速!参勤交代』
監督:本木克英
出演:佐々木蔵之介/深田恭子/伊原剛志/寺脇康文/上地雄輔/知念侑李/柄本時生/六角精児/市川猿之助/石橋蓮司/陣内孝則/西村雅彦
2014年作品

Gyao配信期間:2018年2月25日~2018年3月24日