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2018年12月08日

『みんなの当事者研究』熊谷晋一郎=編

『みんなの当事者研究』熊谷晋一郎=編

対談─来るべき当事者研究
─当事者研究の未来と中動態の世界
熊谷晋一郎+國分功一郎


 興味深い二人の対談において、2つの対立軸を乗り越える方向性が確認できた。1つは、能動/受動の対立軸、2つは、運動と研究の対立軸である。

 まずは、能動/受動の対立軸について。

 熊谷晋一郎は國分功一郎著『中動態の世界』から、依存症の自助グループが、「自分の意志ではどうにもならないと認めること」が回復の入口であると考えられている点に触れ、能動/受動の対立軸にがんじがらめにされることが依存症の本態であり、それによって、解体された中動態的な構えから回復が始まると類似性を指摘している。

 熊谷はさらに綾屋紗月の研究から、自閉スペクトラムと意志の推論について論を展開する。自閉スペクトラム症は、「相手の行動からその背後にある見えない意志を推論することの障害」される。自閉スペクトラム症の人と定型発達者が、相手の行動を観察しながら裏にある意志を読み取ろうとして失敗する場面があるとする。一般的には、前者が後者の見えない意志を推論することに失敗することが「障害」とみなされるが、熊谷によれば逆もまた同じである。定型発達者が自閉スペクトラム症の人の見えない意志を推論することに失敗することもあるのに、それは「障害」とみなされないのはおかしい、そこに「多数派によるグロテスクな論理的飛躍を感じずにはいられ」ないと述べる。これが支援の現場で日常的に起こっていることを私は知っている。「善意」がそうとは知らずに暴力を行使することがあるのを。

 「精神障害や知的障害とされる人は意思決定が不得意である。だから意思決定支援をしなければいけない」という政治が、近年作動している。熊谷が目撃した現場では、知的障害とされる人が、支援者から執拗に、オレンジジュースがいいかウーロン茶がいいか聞かれる場面があったという。オレンジジュースかウーロン茶かというのは「意志」決定ではなく、たんに「選択」の問題であるはずだが、あたかもそれが当事者の「意志」の問題であるかのようにみなされる。このように『中動態の世界』では、しばしば混同されて使われる「意志」と「選択」を区別する。

 ここから國分は「当事者研究」の「当事者」という言葉について論を展開する。「当事者」という言葉は「当事者主権」という政治性を想起させる。自分で自分のことを決めるというのは、まったく正当な主張であり、尊重されてしかるべきである。一方で、自分で自分のことを決めるというのは、どういうことなのか?主権は可能なのか?という問いが生まれる。さらにいえば、当事者に対して誰も何も語れない「内政干渉」の問題もある。「当事者研究」については、「当事者」ばかりが一人歩きして語られていないか、と。

 熊谷はこの問いに答えながら、「運動」/「研究」の対立軸について語る。熊谷自身は「当事者」よりも「研究」がより重要であると捉える。当事者研究が生まれた背景には、能動/受動図式の当事者運動・当事者主権的なムーブメントと、中動態的な依存症自助グループの実践とが、化学反応を起こして誕生したと、熊谷には考えられる。しかし、そもそもこの2つは相性が悪い。当事者主権を徹底すれば、「薬を使いたい」という依存症当事者の希望を認めることになる。ところが依存症自助グループのリカバリー概念は、本人の意志を過信しないところからスタートする。依存症の人たちは、人並み以上に自己統治を遵守するがゆえにかえって依存症が深くなることがあり、だからこそ自己断念を徹底させるのだから。

 熊谷によれば、当事者研究のミーティングにおいて、認知が変わるのは「話す側」ではなく「聞く側」だという。「聞く側」の認識が次々と変わり、みんなの発表が一周すると、その空間において共有していた価値観や知識がアップデートされる。これを受けて國分は、みんなで順に話すことによって集合知が更新されていく過程こそ、中動態的であり、「研究している人=能動」と「研究成果を聞いている人=中動」ともいえると応じる。つまり、「研究」には「運動」の要素が入っているのだ、と。


当事者研究をはじめよう!
当事者研究のやり方研究
綾屋紗月


 ここでは、自閉スペクトラム症当事者である綾屋紗月による当事者研究の具体的な方法が報告される。当事者研究発祥の地である北海道浦賀町の「浦賀べてるの家」、薬物依存症当事者である上岡陽江が代表を務める自助グループ「ダルク女性ハウス」、そして綾屋が2011年に立ち上げた発達障害者中心のグループ「おとえもじて」が比較対照される。ミーティングでホワイトボードに書かれた様々な手書き、場の配置、進行手順などのイラストがそれぞれ紹介され、とても参考になる。

 報告の中でも特に納得がいったのが、外在化=ホワイトボードの意義についてである。他者によって外部に記録されること、時間軸に沿って自分の経験の語りが並べられることは、想起される時点が行ったり来たりする当事者にとって、大きな助けになるという。

 さらに次の指摘は、当事者間のコミュニケーションの手段のみならず、支援の現場で一般的な面談室での「対話」が再考を促されるものであることに気づかされる。。

 また、他者と向かい合って対話する形式の場合、他者の視線や語りの宛先が「自分」に向かいつづけるため、「自分が抱えている問題」は自らに内在し続け、問題と自分が一体となって切り離されないままとなる。その結果、相手からの話が自分を批難しているように感じられてしまいがちである。よって、このように自分のなかにある問題や特徴を、「ホワイトボード」や「付箋と模造紙」を使用して、文字通り物理的に「外在化」することは、自分の視線も他人の視線も自分の外部に向けさせ、自分とは切り離したかたちで問題を眺めることを可能にするのだと感じられる。
(91〜92ページ)

 ミーティングにおけるホワイトボードの使用(ファシリテーション・グラフィック)の効能は、障害を持つ当事者に限らないことはいうまでもない。私自身、運動の場で、NPO活動の場で、仕事の場で、この手法を利用してきたことで、その可能性を実感している。外在化が当事者研究という新しい言葉の現場から刷新されていることに、新鮮な感覚を与えられる。

『みんなの当事者研究』臨床心理学増刊第9号
編集:熊谷晋一郎
発行:金剛出版
発行年月:2017年8月10日


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