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2018年04月09日

『享楽社会論 現代ラカン派の展開』松本卓也

『享楽社会論 現代ラカン派の展開』松本卓也

 精神分析を可能にした条件とは、近代精神医学が依拠した人間の狂気(非理性)とのあいだの関係を、言語と、言語の限界としての「表象不可能なもの」の裂け目というパラダイムによって捉え直すことであった。1950〜60年代のラカンの仕事は、フロイトが発見した無意識の二重構造を、超越論的システムとして次のように体系化することにあった。つまり、一方では、言語使用のメカニズムを支配する象徴界があり、それは〈父の名〉という特権的シニフィアンによって統御されることで初めて正常に作動する。他方では、象徴化に抗する「表象不可能なもの」としての現実界があり、そこで一瞬だけ垣間見られる真理を、「対象α」、あるいは「テュケー(偶然)」と呼んだ。

 このシステムは神経症と精神病を区分けすることを可能とする。無意識に支配される神経症者は「正常者」から地続きのものとされ、無意識に支配されない=〈父の名〉によって統御されない精神病者は、排除された〈父の名〉をめぐって生じる「過程」に従い妄想を発展させる。それにより精神病者のみがエディプスコンプレクスから逃れる例外者として機能するのだ、と(『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也)。

 ドゥルーズとガタリはこの二分法に異議を唱えた。彼らによれば、無意識はすべてエディプスコンプレクスに支配されているわけではなく、神経症・精神病・倒錯を含むあらゆる人間が自らの「過程」を生きうる。それらの臨床的形態は、「過程」がエディプス的な壁に突き当たった結果として生じるものに過ぎないのだ、と(『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 上・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ)。

 しかし、このようなドゥルーズ+ガタリによる批判は、1958年までのラカン理論に対してまでがその有効期限であり、後期ラカンはドゥルーズ+ガタリによる「エディプス的でないような仕方で生きる」というモチーフを共有していたことに著者は注意を促す。70年代のラカンは、エディプスコンプレクスは人間の心的構造のトポロジカルな結び目をつなぎあわせる複数の方法の一つにすぎないとし、非エディプス的で倒錯的な欲望を重視するように態度を変えていたのだから。

 『アンチ・オイディプス』とその後の『千のプラトー』『哲学とは何か』がドゥルーズ+ガタリによる資本主義打倒の戦術書だとすれば(『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治革命』佐藤嘉幸 廣瀬純)、ラカンにとって精神分析は「資本主義からの出口」という位置づけであった(91ページ)。
 
これはどういうことか。ラカンによれば、「資本主義のディスクール」に喪失は存在しない。

つまり、資本主義のディスクールに喪失は存在しないのである。これは、資本主義のディスクールでは次々と新しい商品が主体にあてがわれることによって主体の欲求や要求がすぐに満足させられてしまい、欲求の彼岸に穿たれる欠如を介してあらわれるはずの欲望の領野があらわれてこない、ということを意味する。このような体制においては、主体を構成する存在欠如への接近が不可能になる。つまりそこでは、喪失なしに享楽の復元が可能であるという空想(幻想)が主体に与えられることになるのである。
(90ページ)

 振り返っておこう。ラカン理論にとって欲望とは、「満足を求める欲求〔要求1〕ではなく、愛の要求〔要求2〕でもなく、後者から前者を引き算することに由来する差異」、二者間に生じるうまくいかなさのことを指した(『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也)。これが「欲求の彼岸に穿たれる欠如」のことである。資本主義体制における主体は、その彼岸に接近する前に絶えず新しい商品があてがわれ満足してしまう。よって欲求や要求は満たされても、それは欲望には達しない、すなわち享楽は復元されない。私たちは無限の「享楽(エンジョイ)」を際限なく課せられる。そこで精神分析が資本主義からの出口となるのは、「資本主義のディスクールが排除した去勢、すなわちシニフィアンと享楽の両立不可能性をふたたび主体のなかに書き込むこと」(91ページ)にある。

 このようにして、日本では翻訳すら十分でない後期ラカン、そして現代ラカン派の仕事を前半で丁寧に紹介したうえで、後半では現代的な課題について著者自身の問題意識を打ち出しているところが本書の意義と大きな魅力である。3部構成の「第Ⅰ部 理論」に続く「第Ⅱ部 臨床」では、DSM、うつ、羞恥の構造、自閉症などがラカン派理論から吟味される。「第Ⅲ部 政治」では、ヘイトスピーチ、集団的同一化における享楽の動員、否認とシニシズムといったアクチュアルな問題が緊張感をもって照射される。

 最終章で著者は突然政治の現場に立ち、ジャーナリスティックな文体を挿入する。2015年8月30日に行われた安保法案に反対する国会議事堂前デモの最前線から振り返った著者が目にしたのは、「安倍やめろ」と書かれた黒と白の風船が浮遊している不吉なそれであった。

そして、安倍政権に死亡宣告を行うその喪章の周囲にひしめく「九条守れ」のプラカードにまざって、「脱原発」「反差別」「辺野古新基地建設反対」などを主張するプラカードが自然に共存していたことに私は目を奪われた。そう、「八・三〇」は、それまでの多様なイシューが「安倍やめろ」の喪章のもとでひとつになる瞬間を生み出したのである。さまざまな政治的要求から生み出された個別のシニフィアンが、政治的アイデンテティとしてのお互いの差異を強調するのではなく、むしろ等価性の連鎖によってつながり、「安倍辞めろ」という一つのイシューへと接合されていく過程が、そこには凝縮されていた。この意味で、「安倍やめろ」というシニフィアンは、ひとりの政治家をやめさせろ、という個別の要求ではなく、彼が象徴する政治における「安倍的なもの」の廃棄と、それに代わる政治的オルタナティヴを求める要求全てが帰着する潜在性そのもののシニフィアン、すなわち意味作用の全体が帰着する空虚なシニフィアンとなっていたのである。
(264ページ)

 なるほど、これが「シニフィアンと享楽の両立不可能性をふたたび主体のなかに書き込むこと」の潜在なのか。私は不意をつかれた。なぜなら、まさに同じこの時、この場所で、私自身も振り返り同じ風景を目にしていたひとりだったのだから。

『享楽社会論 現代ラカン派の展開』
著者:松本卓也
発行:人文書院
発行年月:2018年3月10日


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