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2018年02月18日

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治革命』佐藤嘉幸 廣瀬純

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治革命』佐藤嘉幸 廣瀬純

 ドゥルーズ=ガタリ連名による著作『アンチ・オイディプス』(1972年)、『千のプラトー』(1980年)、『哲学とは何か』(1991年)は、いずれも資本主義打倒のための書である。三作は利害の闘争から欲望の闘争へという戦略(ストラテジー)において共通するが、戦術(タクティクス)が各々で異なる。『アンチ・オイディプス』ではプロレタリアによる階級闘争が、『千のプラトー』ではマイノリティによる公理闘争(諸権利や等価交換を求める闘争)が、そして『哲学とは何か』では動物(マイノリティ)を眼前にした人間(マジョリティ)による政治哲学(哲学の政治化)がその主戦場に選ばれる。 

 しかし、それら自体では資本主義打倒に不十分である。『アンチ・オイディプス』では、ブルジョワジーからプロレタリアートが割って出る「レーニン的切断」のなかで、さらにプロレタリアートから分裂者(スキゾ)が割って出る「切断の切断」が遂行され、階級外の「主体集団」が形成される必要がある。『千のプラトー』では、マイノリティがマジョリティあるいはその下部集合へと自らを再領土化しようとする公理闘争のなかで、「マイノリティ性への生成変化」を経なければならない。『哲学とは何か』では、「人間」としてのマジョリティは、「動物」あるいは「犠牲者」としてのマイノリティを眼前にして、人間であることの恥辱を感じ、「動物になる」過程に入らなければならない。

 以下、ここでのマジョリティ/マイノリティという議論を、私の唯一の関心事である沖縄-ヤマトの二項対立構造に照らし合わせてみる。

 『千のプラトー』で論じられるマイノリティ性への「生成変化」(devenir)は「・・・・になること」と言い換えることもできる。ドゥルーズ=ガタリは「黒人たちも黒人になる必要がある」と宣言したブラック・パンサー党を例に出す。それに倣い、女性たちも女性になる必要があり、ユダヤ人もユダヤ人になる必要があるとすれば、沖縄人も沖縄人になる必要がある、ということになる。 

 なぜ「生成変化」「・・・・になること」が必要かといえば、資本主義によって不等価交換の対象とされたマイノリティが公理闘争によって等価交換の対象としての承認を勝ち取ったとしても、それは資本主義を些かも脅かさないからだ。そこではマイノリティがマジョリティの中に下位集合として新たにカウントされるだけであり、また、新たな不等価交換の対象として別のマイノリティがカウントされるのを妨げることもできない。

 ドゥルーズ=ガタリがユニークなのは、ここでマイノリティとマジョリティによる二重の運動が同時進行すると述べている点にある。『千のプラトー』からの長い孫引きになるが重要な箇所なのでご容赦願いたい。
 
 しかしそうであるなら、ユダヤ人になること、ユダヤ人への生成変化は、ユダヤ人だけでなく非ユダヤ人にも必然的に関わることになるはずだ。女性になること、女性への生成変化だけでなく男性たちにも必然的に関わることになるはずだ。ある意味では、生成変化の主体は常に homme [人間=男性]だと言える。ただし homme がそのような主体となるのは、何らかのマイノリティ性への生成変化に入り、自らのメジャーな同一性から引き剥がされる限りにおいてのことだ。[…]他方で逆に、ユダヤ人たちがユダヤ人になり、女性たちが女性になり、子供たちが子供になり、黒人たちが黒人にならなければならないのは、マイノリティだけが生成変化を始動させる媒体となるからだが、ただし、そうしたアクティヴな媒体となるためにはマイノリティもまた、マジョリティとの関係において規定される集合であることをやめなければならない。従って、ユダヤ人への生成変化や女性への生成変化では、二重の運動が同時に進行すると言える。一方には、一つの項(主体)がマジョリティから逃れる運動があり、他方には、もう一つの項(媒体あるいは代行者エイジェント)がマイノリティから外れる運動がある。不可分かつ非対称的な生成変化のブロック、同盟ブロックが形成されるのだ。[…]女性は女性へと生成変化しなければならないが、この生成変化は人間全体が女性へと生成変化する中でなされなければならない。ユダヤ人はユダヤ人へと生成変化するが、それはあくまでも、非ユダヤ人のユダヤ人への生成変化の直中においてのことだ。マイノリティ性への生成変化は、共に脱領土化された一対の媒体と主体とをその要素とすることで初めて可能になる。生成変化の主体は、マジョリティにおいて脱領土化された変項としてのみ見出され、生成変化の媒体は、何らかのマイノリティにおいて脱領土化する変項としてのみ見出される。
(193〜194ページ)

 マイノリティだけが生成変化を始動でき、マジョリティにはそれができないこと。マジョリティが主体であり、マイノリティは媒体であること。マイノリティは生成変化を始動できるが、それはマジョリティが「自らのメジャーな同一性から引き剥がされ」、マイノリティ性に入ることと不可分であること。よってマイノリティがマイノリティになることとマジョリティがマイノリティに入ることは同時進行で初めて成り立つこと。それが資本主義を下部から掘り崩す戦術であると『千のプラトー』の著者はいう。

 なぜマイノリティ性への生成変化が資本主義を打倒する戦略となるのか。マイノリティ性へと生成変化することにより、マジョリティ/マイノリティという二項対立が解消され、万人がマイノリティ的になることで、一つの主体的集団が形成される。その限りにおいて、国家装置は機能不全に陥るからである。

 付言すれば、ドゥルーズ=ガタリはマイノリティによる公理闘争を決して軽視してはいない。それは資本主義を掘り崩す運動として必然的である。だが、それだけでは足りない。公理闘争という「切断」をさらに「切断」する必要がある、そのための生成変化である。

 沖縄による公理闘争とはいうまでもなく、押し付けれらた米軍基地に対するこれまでのあらゆる運動をさす。様々な市民運動、選挙、「県外移設」論、即時撤去論、独立論などなど。ドゥルーズ=ガタリを読む著者によれば、これらは皆資本主義を掘り崩す運動の経るべき道として不可欠であり必然的である。

 しかし、同時に、(資本主義を打倒するためには)「切断の切断」が必要である。マイノリティ性への生成変化が。初めに、沖縄人が沖縄人になることが。次に、非沖縄人(「日本人」)が沖縄人になることが(沖縄の運動が「資本主義打倒をスローガンに掲げることはほとんどない。それはそれとして論じるべき問題だがここではひとまず措く)。

 ところで、沖縄人が沖縄人になるとはどういうことか。「日本人」が沖縄人になるための「切断の切断」とはいかなる営為か。その問いと「結論」で展開される著者の問題意識は重なる。そこでは現在のこの国の闘いに論が展開され、福島と共に「琉球」が高橋哲哉批判も含みつつ論じられる。私がそれらを吟味するのは、これからドゥルーズ=ガタリの三作を読んでからになるだろう。

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治革命』
著者:佐藤嘉幸 廣瀬純
発行:講談社選書メチエ
発行年月:2017年12月11日


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