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2016年12月05日

『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』

『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』

 2015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチは先日の来日講演の中で、福島第一原発事故の被災地を訪ねたことに触れ、「日本社会には抵抗の文化がないのはなぜか」と問うた(「日本には抵抗の文化がない」 福島訪問したノーベル賞作家が指摘 THE HUFFINGTON POST  2016年11月29日付)。本書にはその答えが書かれている。例外的に唯一の革命家として、鎌倉時代の執権北条泰時の名を挙げ、泰時の革命がどんな革命だったか、なぜ泰時だけが革命に成功したかを示すことで、逆に、ではなぜ日本には革命が成り立たないのかの「論理」を浮き立たせるという手法で。

 著者は北条泰時の革命性として、次の二点を挙げている。御成敗式目という固有法(自国で固有に定めた法律)と、武士団が朝廷に勝利し(承久の乱)、天皇や上皇の権力を削ぎ、武士を実質的な頂点とする支配構造を東西を包括するかたち(六波羅探題)で確立したことと。二点とも、現在までその後の日本に大きな影響を与えている。

 だがこれだけでそれが革命だといわれてもピンとこないだろう。そもそも世界史において革命とは、主に次の二つに類別できる。一つが、日本語の「革命」の語源でもある中国の易姓革命である。易姓革命では、天命の変化によって皇帝も王朝の姓も変わる。それはシステムの基本構造を本質的に変わらないようにするために変化が導入される。著者はこれを「革命を否定するための革命」と表現する。

 もう一つが、ヨーロッパの歴史で繰り返された革命のことであり、わたしたちが思い描く暴力的なイメージのそれであろう。著者はそこに原型となるモデルの反復があるという。イエス・キリストである。イエス・キリストによる契約の更新、つまり、古い神との契約を破棄してしまうということは、社会に根幹的な変化を不可避的にもたらす。その神との契約の内容は、いかなる具体的な命令をも代入しうる変数Xになっている。それにより、中国の易姓革命と異なり、実際に社会の基本的構造を変えることができる。

 とはいえ、天命にしてもXへの代入にしても、なぜそのように間接的な構成が必要なのかという疑問が起こる。著者はこう答えている。《意志や欲望が、人民に分散して分け持たれているだけでは、社会は変化しない。社会が変化するためには、求められている変化が、人民に外在する〈例外的な一者〉に帰せられた意志となったとき、そのような意志として(人民によって)解釈されたとき、そのときに限られているのではないか。たとえば、天の意志として。あるいは神の意志として。意志や欲望が、いかに広く普及していたとしても、またいかに強いものだったとしても、それが〈例外的な一者〉のものにならないうちは、社会の変化をもたらすことはない》(104ページ)。人民の外部に立つ〈例外的な一者〉こそ、革命にとって不可欠である、と。

 話を日本史に戻す。では、北条泰時の革命はいかに?それは泰時が武士団として朝廷に勝利し、上皇を流罪にするという、西の朝廷に対して極めて厳しい処罰を加えたにもかかわらず、天皇制を廃止することなく、最後まで尊重したことにかかわる。なぜ武家政権は天皇制を排除しなかったのか、といいかえてもよい。

 著者はここで折口信夫の議論を引用する。折口によれば、天皇は、その身体そのものを容器として使い、「天皇霊」なる超越的身体を受け取ることで支配者としての権限を得るという。天皇は「天皇霊」を模倣し、再現しなくてはならない。この関係は、天皇と重臣との関係に援用される。すなわち、「天皇霊」の位置に天皇がつき、政治の実務について重臣の話を「知る」という関係が。そこで、天皇は重臣から政治的決定を知らされ承認するのだが、その決定は、天皇がもともと欲していたことと合致していたとみなされる。実際は、天皇は何も欲していないし決断もしていないのだが、それが天皇の意志の「再現」であるということにされる。

 ここで、中国では天命が、西洋ではイエス・キリストがそうであったように、日本では天皇が〈例外的な一者〉であるといえる。しかし、両者には決定的な違いがある。中国・西洋の〈一者〉は、人民に対して超越的な外部性がある。ところが、天皇は超越者ではなく、そこに内在する人間である。天皇は社会の意思決定に関して、「すでにあること」「与えられたこと」をただ追認するという空虚な身振りをするしかない。そこでは、現状に抗すること=革命は起こりようがない。これがなぜ日本には抵抗の文化がないのかという疑問に対する答え(の論理)となる。

 北条泰時はこの天皇制のシステムを廃棄しなかった。そのことと、貞永式目に刻印されている「自然発生的な秩序」の肯定という思想は無縁ではない。《革命は、一般に、自然発生している秩序や運動を徹底的に肯定することを通じて、自らもその秩序や運動に参加することによって実現するのだ。革命は、自然発生している秩序に抗して為し遂げられるのではなく、逆に、それを、徹底して、過剰なまでに肯定し、引き受けることによって可能となる。言い換えるならば、自然発生しつつある秩序や運動を十全(以上)に肯定することは勇気を要することであり、一般に困難なことである》(159ページ)。

 著者はここで、三・一一以降の日本の原発政策を例に挙げる。あれほどの未曾有の出来事を体験し、大規模な脱原発デモが生まれたにもかかわらず、政府が脱原発へシフトしないのは、国民が原発を支持しているからではなく、日本政府が脱原発へと向かおうとする自然発生的な秩序を引き受け、強く肯定することができないからだと。

『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』
著者:大澤真幸
発行所:朝日選書
発行:2016年10月30日


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