てぃーだブログ › 「癒しの島」から「冷やしの島」へ › 今日は一日本を読んで暮らした › 『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』東畑開人

2019年05月11日

『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』東畑開人

『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』東畑開人

 沖縄の精神科デイケア施設で心理士として勤務した4年間をエッセイ形式で綴った学術書。現在の自分の関心領域にあまりにもハマり過ぎる内容であり、時間を忘れて一気に読んでしまった。その関心とは、1に設定が沖縄であること、2に精神疾患のケア(とセラピー)についてのリアルな現場報告であることの切実さ、3に学術書でありながら論文形式をとらず物語構造をベースとしたエッセイであることのユニークさ、4に國分功一郎『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』からの引用が重要箇所でなされるなど、哲学と医療・福祉を横断的に“ひらいて”いること、などがある。

 1の沖縄について。といっても本書は企画として、すなわち営業的に「沖縄」を前面に出すことは一切していない。「沖縄だからこそ」という論点はほとんどみられない。しかしながら、現実の経験から眼差される虚構の登場人物たちや背景の描写からは、紛れもなくそこが沖縄であることが読み手には伝わる。これについては再度触れる。

 2について。精神科デイケア施設の現場報告として、極めてリアルである。その際、大事なポイントは、精神疾患を抱えたメンバー(利用者)と施設スタッフ、つまり、ケアをされる側とする側双方を安易に分離せず、双方の関係性から生じる「交換」の場としてのコミュニティという捉え方をしていることにある。

 「居る」こととは、本書によれば、身を委ねる、頼る、依存できることである。デイケアに集まったメンバーたちは、社会の中で「居る」ことがままならなくなった人たちといえる。彼女ら/彼らはスタッフに依存することでその場に「居る」ことができるようになる(ならない場合もあるし、なったとしてもそれは常に不安定なのだが)。だから、デイケアに「居られる」ためにデイケアに「居る」。著者がデイケアに勤め始めてまず学んだことが「する」ことではなく「居る」ことの意味についてであった。

 3について。あとがきには、かつてデイケアでの経験について学術論文として書くことを試したが書けなかったという告白がある。私はそこに合点がいくし、それこそが本書のポイントであると思う。そのことに関わると思われるのが、線的な時間と円環的な時間の違いである。線的な時間とは、セラピーの時間である。セラピストが病者に対する過程において、平衡状態→非常事態→あらたな平衡状態という曲折を経ながらAからBへと移行する時間をいう。それに対し、毎日同じことが繰り返されるデイケアの時間は円環的な時間といえる。本書の魅力の一つは、メンバーとスタッフのあいだでなされるデイケアの日常がユーモアを含め描かれているところにある。しかし、それはたんたる“エンタメ”ではむろんなく、読者はそのことに気づき、自らにその意味を問うことこそが求められるだろう。

 4について。著者は円環的時間について問いを深めるために、國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から引用しつつ、ハエバルくんというメンバーの一人について思いを巡らす。ハエバルくんは、自分の頭には穴が空いていて、それを塞がないといけないと打ち明け、一人の世界に閉じこもる。ハエバルくん(や他のメンバーの世界で)は、空間に「何か」が充満し、吹き荒れている。その対処として、幻聴や被害妄想などが現れる。そんなハエバルくんだが、やがてデイケアでの他のメンバーとの活動に加わり、積極性を見せるようになった。その変化にスタッフたちは当然ながら喜ぶ。繰り返される日常の円環的な時間に包まれることで、ハエバルくんは回復したのだろうか。

 ここで著者は、砂場で遊ぶ子どもを例に、「遊ぶ」という概念を持ってくる。お城作りに夢中になっている少年は、ときどき手を止め、後ろのベンチに母親がいることを確認すると安心して、再び遊びに戻る。著者は述べる。《遊びは中間で起こるのだ。主観と客観のあわい、想像と現実のあわい。子どもと母親のあわい。遊びは自己と他者が重なるところで行われる。それはすなわち、人は誰かに依存して、身を預けることができたときに、遊ぶことができるということを意味している》(154ページ)。だから、デイケアのプログラムに遊びが多いのは、たんに暇つぶしをしているわけではなく、一緒に遊ぶことによって遊べない人を遊べるようにする治療的仕掛けなのである。ということで、ハエバルくんの回復は、遊べるようになったことと同期しているといえる。

 だが、やがてハエバルくんの表情は冴えなくなる。「なんかつまらない感じがして、デイケアにいるのが長く感じるんです」と漏らす。なぜか。時間に追い立てられず、自分に向き合うだけの余裕が生まれる退屈の第二形式「何かに際して退屈すること」(『暇と退屈の倫理学』)に、ハエバルくんは至ったからだと、著者はいう。つまり、ハエバルくんは遊びの錯覚から覚め、退屈を知ったのだ。

 さて、精神障害者の就労支援施設で働いた私の経験からすると、利用者を就労させることが一応は目的のその場において、利用者とのちょっとした冗談を他のスタッフより多少多く言っていた私は、遊ぶことをそこに加えたかったのだろう。作業中の私語を許さず黙々と作業することで工賃アップに結果させるという方針の下で、それは本当にささやかな抵抗に過ぎなかった。今、本書を読んで改めて思うのは、「働く」ことを「遊ぶ」ことに変態させる場をつくること、その困難な可能性についてである。

 本書には、見事にキャラクター付けされたそれぞれ魅力的な先輩看護師たち、そして最後に著者自身がデイケアを辞めていく過程がミステリー仕立てで描かれている(傷ついた著者はメンバーから治癒される。メンバーのヤスオさんとのキャッチボールの場面は象徴的である)。なぜそうなのかの答えは、最後に理論的に書かれているが、ここでは触れない。いえることは、皆、居るのがつらくなったのだ。その意味でも、変態された「場」と変態した「私」は必要である。

 再び沖縄について。デイケアの円環的時間と「スロー」なチルダイする沖縄的時間は親和的と言えるかもしれない。しかしながら同時に、沖縄の島のいたるところで、少なくない人びとが「居るのがつらい」のが現実としてある。それは精神疾患に罹っているいないにかかわらず。

 本書では、著者の実体験としてなかったはずはないが、沖縄とヤマトの二項対立は触れられない。そこを括弧に入れている。それはそのことを否認することとは違う。「居るのがつらい」ことを普遍的に考えるためにそうしたのではないか。もちろん、そのなかに「沖縄」は「居る」。

『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』
著者:東畑開人
発行:医学書院 シリーズ ケアをひらく
発行年月:2019年2月25日


2019/03/24
『暇と退屈の倫理学 増補新版』國分功一郎
 ウサギ狩りをする人は、ウサギが欲しいから狩りをするのではなく、気晴らしが欲しいからそうする。つまり、ウサギは〈欲望の対象〉であるが〈欲望の原因〉ではない。それにもかかわらず、人は両者を取り違える。 「暇」と「退屈」は、しばしば混同して使われる。暇とは客観的な条件に関わっているのに対し、退…

2019/03/03
『技法以前 べてるの家のつくりかた』向谷地生良
 統合失調症など危機的な状況を生きる当事者とその家族。当事者は親と口をきかず部屋に閉じこもる。ときに上がる大声や暴力から、苦しみを回避したいというメッセージが著者には透けて見える。当事者と家族が対立しているように見える構造を一度ばらばらにして、当事者の振る舞いが、結果として全く正反対の暴言や暴…

2019/01/06
『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎
 中学に入学し、初めて英語を学び、能動態と受動態という2つの態がある(それだけしかない)と教えられた。だが、日常的に用いている言動として、この2つでは括れない場合があるのではという漠たる疑問があった。本書によれば、中動態という態が、古代からインド=ヨーロッパ語に存在したという。中動態というと、…

2017/02/28
『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』上間陽子
 「裸足で逃げる」とは、なんと沖縄の「現実」に刺さるタイトルだろう。あの亜熱帯の夜の、生暖かい、しかしひんやりとしたアスファルトを思わず踏みしめたときの素足の触覚が、混濁したいくつものエモーションを拓き、一条の微かな光線の可能性を喚起させる。コザのゲート通りをゲート側から捉えた夜景の表紙写真と…

2018/12/08
『みんなの当事者研究』熊谷晋一郎=編
対談─来るべき当事者研究─当事者研究の未来と中動態の世界熊谷晋一郎+國分功一郎 興味深い二人の対談において、2つの対立軸を乗り越える方向性が確認できた。1つは、能動/受動の対立軸、2つは、運動と研究の対立軸である。 まずは、能動/受動の対立軸について。 熊谷晋一郎は國分功一郎著『中…

2018/06/02
『天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル』岡 南
 認知の方法を著者は二つのタイプに分ける。頭の中の映像を使って思考する視覚優位と、言葉を聴覚で聴き覚え、理解し、思考する聴覚優位とに。これらの特徴は普通の人々にもあるが、発達障害ではその偏りが強くなる。著者は「偏り」を「優位性」とポジティブに表現する。自身映像思考の著者が室内設計家として成り立…

2018/04/29
『心と体と』エニェディ・イルディコー
 ブダペスト郊外の食肉加工場で代理の検査官マーリア(アレクサンドラ・ボアブリー)が勤務を始めた。マーリアは他者とのコミュニケーションがうまくとれずに周りから孤立している。人生にやや疲れ片腕が不自由な上司エンドレ(ゲーザ・モルチャーニ)は彼女を気にかける。やがて二人は雪降る森を彷徨う雌雄一組の鹿…

2018/01/02
「健康としての狂気とは何か━ドゥルーズ試論」松本卓也
今もっとも注目する松本卓也論考の概要。 ドゥルーズは「健康としての狂気」に導かれている。その導き手として真っ先に挙げられるのが、『意味の論理学』(1969年)におけるアントナン・アルトーとルイス・キャロルであろう。アルトーが統合失調症であるのに対し、キャロルを自閉症スペクトラム(アスペルガー症…

2017/09/08
〈自分の言葉をつかまえる〉とは? 山森裕毅『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 対話を実践する試み「ミーティング文化」では、〈自分の言葉で語ること〉に価値が置かれる。 ハンナ・アーレントは「言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界のなかに挿入する」といった(『人間の条件』)。アーレントが面白いのは、ひとが言葉によって自分を表すときに、自分がいったいどんな自分を明…

2017/09/06
ダイアローグのオープンさをめぐるリフレクティング 矢原隆行『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグではポリフォニーが強調される。そこでは「すべての声」に等しく価値があり、それらが一緒になって新しい意味を生み出していくと。しかし、実際のミーティングにおいて、多くの声が響いていたとしても、それのみで既存の文脈がはらむ力関係を無効化できるものではない。 リフレクティング…

2017/09/05
ダイアローグの場をひらく 斎藤環 森川すいめい 信田さよ子『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグの前提は「わかりあえないからこそ対話が可能になる」。コミュ力の対象は「想像的他者」、すなわち自己愛的な同質性を前提とする他者。その対極はラカン的な「現実的他者」で、決定的な異質性が前提となるため対話もコミュニケーションも不可能。それに対しダイアローグの対象は「象徴的他者」…

2017/09/04
コミュニケーションにおける闇と超越 國分功一郎 千葉雅也『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 エビデンス主義は多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されている。それはメタファーなき時代に向かうことを意味する。メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということ。かつては「心の闇」が2ちゃんねるのような空間に一応は隔離されていた。松本卓也がいうように、本来だ…

2018/04/09
『享楽社会論 現代ラカン派の展開』松本卓也
 精神分析を可能にした条件とは、近代精神医学が依拠した人間の狂気(非理性)とのあいだの関係を、言語と、言語の限界としての「表象不可能なもの」の裂け目というパラダイムによって捉え直すことであった。1950〜60年代のラカンの仕事は、フロイトが発見した無意識の二重構造を、超越論的システムとして次のように…

2018/03/21
『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 上・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
  『アンチ・オイディプス』は、「欲望機械」「器官なき身体」「分裂分析」「接続と切断」といった言葉の発明をもとに、無意識論、欲望論、精神病理論、身体論、家族論、国家論、世界史論、資本論、記号論、権力論など様々な領域へ思考を横断していくところに最大の特徴がある。「あとがき」で翻訳者の宇野邦一は、…

2018/01/02
「健康としての狂気とは何か━ドゥルーズ試論」松本卓也
今もっとも注目する松本卓也論考の概要。 ドゥルーズは「健康としての狂気」に導かれている。その導き手として真っ先に挙げられるのが、『意味の論理学』(1969年)におけるアントナン・アルトーとルイス・キャロルであろう。アルトーが統合失調症であるのに対し、キャロルを自閉症スペクトラム(アスペルガー症…

2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…

2018/10/09
『世に棲む患者』中井久夫コレクション
 統合失調症を病む者の寛解期初期の状態を、著者は角を出しはじめた蝸牛にみたてる。社会の中に座を占めようとするその行動を探索行動と表現する。医師や家族そして支援者、いや、社会は、彼ら個々の行動の成否を性急に判断したり、説教したりすることに慎重になるべきだ、と。 そこから著者には次の問いが生ま…

2018/10/08
『症例でわかる精神病理学』松本卓也
 精神病理学には3つの立場がある。記述精神病理学、現象学的精神病理学、そして力動精神医学(精神分析)という。 ヤスパースに始まる記述的精神病理学は、患者に生じている心的体験(心の状態や動き)を的確に記述し、命名し、分類する。その際、「了解」という方法がとられる。「了解」とは、医師=主体が患…

2018/06/07
『ラブという薬』いとうせいこう 星野概念
 自分のバンドのサポート・ギタリストが精神科の主治医。それがいとうせいこうと星野概念の関係である。患者と主治医がいつものカウンセリングを再現するような対談。企画したいとうせいこうのねらいは、ハードルが高いカウンセリングになかなか来られない人たちのために「ちょっとした薬」のようなものを提示したい…

2017/01/05
『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也
 本書は、ドゥルーズとガタリやデリダといったポスト構造主義の思想家からすでに乗り越えられたとみなされる、哲学者で精神科医のラカンのテキストを読み直す試みとしてある。その核心点は「神経症と精神病の鑑別診断」である。ラカンは、フロイトの鑑別診断論を体系化しながら、神経症ではエディプスコンプレクスが…

2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…

2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…

2017/09/04
コミュニケーションにおける闇と超越 國分功一郎 千葉雅也『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 エビデンス主義は多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されている。それはメタファーなき時代に向かうことを意味する。メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということ。かつては「心の闇」が2ちゃんねるのような空間に一応は隔離されていた。松本卓也がいうように、本来だ…

2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…




同じカテゴリー(今日は一日本を読んで暮らした)の記事
2019年 本ベスト10
2019年 本ベスト10(2019-12-23 21:08)


 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。