2019年01月06日
『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎
中学に入学し、初めて英語を学び、能動態と受動態という2つの態がある(それだけしかない)と教えられた。だが、日常的に用いている言動として、この2つでは括れない場合があるのではという漠たる疑問があった。本書によれば、中動態という態が、古代からインド=ヨーロッパ語に存在したという。中動態というと、能動態と受動態の中間のような態なのかといえば、そうではない。中動態は能動態と対立するものとして先に生まれ、その後中動態から受動態が派生したというのだから。
能動態と受動態の対立が「する」と「される」だとすれば、能動態と中動態の対立では、主語が過程の外にあるか内にあるかが問われる。前者の主語が過程の外に、後者は内に。本書にあるギリシア語から中動態の具体例を挙げてみる。ものが「できあがる」。これは生成の過程が表現されている。誰かが何かを「欲する」。心のなかから欲望がわき起こり、それによって突き動かされる過程のなかに主語はある。
そもそも中動態への著者の関心は、意志という概念への疑いが根本にある。能動態と受動態の対立には、それが強くある。「私が私の意志でそうする」、「私は彼女の意志によってそうされた」というように。
〈第5章 意志と選択〉で、著者はハンナ・アーレントを参照しながら、「意志」と「選択」の違いについて論じる。選択は諸々の要素の相互作用の結果として現れる。その行為が過去からの帰結であれば、それは選択である。これに対して意志は、過去から切断された絶対的な始まりという場があるとき生まれる(いかにもアーレントが言いそうなことだ)。だから、何らかの行為を自らの意志で開始したと想定されるとき、その人はその行為の責任を問われる。
日常において、両者はしばしば混同される。というか、あらゆる行為は選択である。しかし、その選択に責任が生じた場合、それは意志とみなされる。あなたがその行為をしたのはあなたの意志でやったのだから責任を負うべきである、というロジックで。意志とは《過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される》(132ページ)。
言語学の歴史をみれば、その後中動態は失われ、能動態と受動態が対立するようになる。現在のわれわれが持ってしまっているパースペクティヴである。そのときに現れたのは、単に行為者を確定するだけではない、行為を行為者に帰属させる言語が誕生したということだ。逆にいえば、中動態とは、行為を行為者に帰属させない言語、ということになる。
本書で最も力の込められた〈第8章 中動態と自由の哲学──スピノザ〉では、中動態が重要な観念であることを『エチカ』の著者が意識していたという論が展開される。有名な一節「神はあらゆるものの内在原因であって、超越原因ではない」の「超越」は、「他動詞の」と訳すこともできる。超越原因とは、その作用が他に及ぶ原因のことを指す。これに対し「内在原因」とはこういうことだ。神なる実体とは、宇宙あるいは自然そのものに他ならず、実態が「変状」したものとして万物は存在している。あらゆるものは神の一部であり、神の内にある。神は作用するが、その作用は神以外の何物にも届かない、と。著者はこの内在原因こそ中動態的だという。
「変状」することによって、神は何かしらの刺激を受ける。《しかしそれらは神自身から発したものである。つまり神は自らを刺激している。刺激を受けるのだから、神はそれら刺激を有することになる。有するというと自らの外にあるものを手に取るというニュアンスが出てしまうが、もちろんそういうことではなくて、神はその刺激によってある状態へともたらされるということである。しかし、繰り返しになるが、神に刺激を与えているのは神自身なのだから、「される」という言い方は不正確である。神がそうした状態になるのだ》(241ページ)。
このような引用をすると、「中動態とは神のレベルのことで、われわれ人間には無理なのか」という声が聞こえてきそうだが、そうではない。中動態はわれわれの日常にありふれている。その点、第5章でミシェル・フーコーの権力論とアーレントのそれとの違いから発展させて論じられる「仕方なく〜する」というわれわれの態度が参考になる。「不良から脅されたので仕方なく金を渡す」。「食うために仕方なく働く」。強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している。このような事態は能動態と受動態の対立として捉えるのには無理がある。能動態と中動態の対立として捉えることですんなりと記述できる。
冒頭の〈プロローグ〉は、薬物依存症当事者と「僕」との架空の会話で成立している。薬物依存症は病気だということを理解する「僕」は、一方で、自分の意志でクスリをやめられないのかと思ってしまうと言い、当事者は、むしろそう思うとダメだと返す。絶えずズレている二人の会話の終わり近く、当事者は「しゃべってる言葉が違う」と、救いのないオチのようにこぼす。著者に本書を書かせたのはこの「対話」の衝撃であろうし、本書が医学書院〈シリーズ ケアをひらく〉の一冊として発行されたことも確信犯的である。
「する」と「される」の外側に出たいと希求すること。その内側に囲われた息苦しさが私のまわりにあるのがみえる。1つは、障害当事者と支援者とのあいだに。2つは、沖縄とヤマトの対立における「意志」と「責任」について。
『中動態の世界 意志と責任の考古学』
著者:國分功一郎
発行:医学書院
発行年月:2017年4月1日
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Posted by 24wacky at 11:42│Comments(0)
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