2016年11月01日

『山河ノスタルジア』

山河ノスタルジア

 映画は3つの時代を時系列で描く。

 1999年、山西省・汾陽(フェンヤン)。小学校教師のタオ(チャオ・タオ)、炭鉱夫リャンズー(リャン・ジンドン)、実業家ジンジェン(チャン・イー)は幼馴染。リャンズーとジンジェンはタオに思いを寄せている。「俺には怖いものなんかない」と自信家のジンジェンがタオにプロポーズし、三人の友情を大切にしていたタオも結局受け入れる。傷心したリャンズーは上蒙古の炭鉱へ出稼ぎに行き、汾陽を去る。ジンジェンはタオとの間に生まれた男の子に、ドルにちなんでダオラーと名づける。

 2014年、タオとジンジェンは離婚、ジンジェンがダウアーを引き取り、上海に移る。タオの年老いた父親が死亡、タオは葬儀にダウアーを呼び寄せ久しぶりの再会を果たす。タオはすっかりアメリカナイズされた教育を施されたダウアーから「マミー」と呼ばれ、淋しい思いをする。ある女性と結婚し子どもも一人もうけたリャンズーだが、炭鉱の仕事の影響で肺を患う。家族で汾陽に戻り、療養のための高額費用に必要な金をタオから借受ける。

 2025年、父親とオーストラリアに移住したダウアーは19歳の大学生に成長していた。既に中国語を忘れ、逆にジンジェンは英語を喋ることができない。そのこともあってか、親子の仲は微妙なすれ違いが生じている。母親の記憶がないダウアーはアイデンティティーに悩む。香港出身でトロントから来たという大学教師のミアに対し、年の差も気にせず心惹かれる。

 グローバル資本主義が浸透する過程の只中で、広大な中国大陸で人びとはどう生きるか。ジャ・ジャンクー作品に通底するテーマがここでも反復される。リャンズーは炭鉱という前時代の資本主義の斜陽を体現し、汾陽を一度離れ、そして戻る。ジンジェンはアメリカから中国へ移ろうとする覇権そのものを体現し、上海、そしてオーストラリアへ移動する。タオだけは汾陽に留まり続ける。

 タオの欲望は汾陽の外部へ向かわない。しかし、彼女は「越境」しようと欲動する。深く深く、と。映画の冒頭とラストで「GO WEST」(ペット・ショップ・ボーイズ)に合わせてタオは踊る。1999年のタオは資本主義に踊らされているように見えるが(まさに『ダンス・ダンス・ダンス』!)、2025年の雪降る汾陽で踊るタオ=チャオ・タオの肢体は、ジャ・ジャンクー作品の堂々たるミューズとして、表面的な老いの徴候とは裏腹に凛としている。その両義性を見せつけられ、われわれは酔い、そして戸惑う。

 スクーターを運転中のタオの上空から墜落する軍用機という唐突なカット、上海から汾陽へダウアーを乗せた没個性的な旅客機、そしてダウアーとミアがキスをするのはメルボルン上空を旋回するヘリコプターの機内であった。空を飛ぶという「自由」は果たして真に自由なのか。その問いはタオの踊りと実は対をなす。

 しかし、この作品を特異にしているのは、2025年のオーストラリアのパートが、タオ、リャンズー、ジンジェンのトライアングルのドラマから大きく拡張、逸脱、そして変態している様にある。ダウアーとミアの関係が、あまりにも途上であり、現在であり、生々しいのだ。二人のあいだには失われた母親、あるいは帰るべき場所(帰ることが不可能な場所)というテーマが不在に存在する。それを現す小道具が、かつてタオからダウアーに渡されたタオの家の鍵である。その鍵がぴたりと合う場所は、たとえば「母性」といった神話のようにただ一つしかないのだろうか、それとも実はあらゆる場所に潜在しているのだろうか。そこに驚きたい私がいる。
 
『山河ノスタルジア』
監督:ジャ・ジャンクー
出演:チャオ・タオ/チャン・イー/リャン・ジンドン/ドン・ズージェン/シルヴィア・チャン
2015年作品
劇場:キネカ大森


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