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2018年06月30日

『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ

『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ

 明日灯台に行くことを心待ちにする幼い息子と息子を愛おしむ美しい母親、他愛ないそのやり取りに横やりを入れる不機嫌な哲学者=父親。イギリス人家庭を題材にした小説はそのような情景から始まる。場所はスコットランド孤島の別荘。時代は第一次大戦の頃。母親ラムジー夫人を中心に、別荘に集まる数人の関係を素描しながら、それらの意識の移ろいが読み手の快楽を徐々に高めて行く。第一部「窓」はこの一夜のみが書かれ、終える。

 第二部「時はゆく」の始まりで、ラムジー夫人のあまりにも唐突な死が伝えられる。その後、時が経ち、空っぽの別荘についての非人称による「描写」が淡々と書かれる。管理を任されたマクナブ婆さんの疲れた足取りだけがかろうじての生命感を現す。

 第三部「灯台」は、時を経て別荘に戻ってきたリリー・ブリスコウの視点を中心に、ラムジー氏や成長した息子ジェイムズらの「その後」が書かれる。しかし、彼ら彼女らがなぜ遠路はるばる別荘に戻ってきたかは判然としない。そのようにして不在のラムジー夫人が想像的に召還されるといってもいい。親子で小船に乗り灯台へ向かう。絵を描きながらその風景を視るリリー。

 時制を変えて実現される灯台への移動は「逃走」ではない。ではなにか?とりあえず、ここでも第1作『船出』を反復するように「行って戻ってくる」物語構造がある、とだけいっておく。

 ウルフの小説では、登場人物のいずれにも「感情移入」できない。これらの意識は内省ではないのだから。
 

『灯台へ』
著者:ヴァージニア・ウルフ
発行:岩波文庫
発行年月:2004年12月16日


2018/06/13
『船出(上)(下)』ヴァージニア・ウルフ
 モダニズム作家ウルフのデビュー作本邦初訳。ロンドン生まれで世間知らずの若い娘レイチェルを主人公としたビルドゥングスロマン。南米に向けた船上での人々との出会い。到着後のホテルとヴィラ二カ所を拠点に、原住民の棲む奥地へと進む船の小旅行。アメリカへと覇権が移ろうとする大英帝国没落の予兆とオリエンタ…

  


2018年06月29日

『私ではなく、風が──津島佑子の転回』柄谷行人

『私ではなく、風が──津島佑子の転回』柄谷行人

 柄谷行人は1980年代初めから文学批評から身を引いて行った。朋友である中上健次の死(1992年)がその区切りをつける出来事となった。柄谷にとって、その時から、中上の代わりに津島佑子が存在し始めたわけだが、その後『黄金の夢の歌』(2010年)によって、津島は中上の代行者以上の存在であることに気づく。アイヌや様々な遊動民について書かれた同書に、同時期に柄谷が著した『世界史の構造』と符号する物を感じ、稀有な同時代者であることを見出したからである。

 『黄金の夢の歌』とそれに続くアイヌやキリシタンを扱った『ジャッカ・ドフニ──海の記憶の物語』(2016年)は、三人の肉親の死という実際の経験を核として書かれたそれまでの津島の作品群とは明らかに異なっていた。そもそも『笑いオオカミ』(2000年)には『黄金の夢の歌』における遊動民の原型、そして、『ジャッカ・ドフニ』におけるキリシタンの「兄と妹」の旅の原型が見出される。

 「しかし」と、柄谷はいう。

 しかし、この転回は、たんにオオカミ=遊動民的な世界を描くことにあるのではない。たとえば、『笑いオオカミ』の冒頭には、オオカミに関する論考が置かれている。これは小説につけられた注釈のようなものではなく、作品の一部である。時には、新聞記事がそのまま載せられている。つまり、津島はこの作品において、小説、物語、評論、エッセイというジャンルの区別を揚棄したのである。これ以後、津島は従来の文学に「定住」するのをやめて、「遊動」し始めたのだ。そのきっかけは、「安吾」、というより、彼女がそこに見出した、吹き抜ける「風」のような自由の感覚にあったといえる。


『私ではなく、風が──津島佑子の転回』
「群像 2018年6月号」掲載
著者:柄谷行人
発行:講談社
発行年月:2018年6月1日


2018/04/15
『ナラ・レポート 津島佑子コレクション』
 優れた小説作品がそうさせるように、読書の途中でグイグイと引き込まれ、時間の経つのも忘れ、結果夜を通しての耽溺となることがある。本書がまさにそうだ。それまでは今ひとつ読む進めることに入っていけない停滞した時間が続いたのち、ある箇所から一転して読むことの快楽が刺激され、ページをめくるのが永遠に続…

2018/01/29
『大いなる夢よ、光よ 津島佑子コレクション』
 津島佑子にとって、「夢」は文学手法ではない。作品のテーマでもない。それはかろうじて生きること=書くことの総体その自由度の謂である。 一人息子の急死のあと身を寄せる母の老朽化した実家の建て直し。主人公の章子は、ついでに見直される物置き小屋を二人の男と共に「夢殿」と名づけ、そこをつかの間のシ…

2017/12/03
『夜の光に追われて 津島佑子コレクション』
 我が子の突然の死という事態に向かい、作家は書く行為に跳躍の可能性を望む。平安時代の王朝物語「夜の寝覚め」を現代語で改めて書くというアイデアに読者はじりじりとつきあわされる。「子どもの死」という普遍的なモチーフへの昇華は、千年前の「宿世」を現代の我々が読むという途方もなく贅沢な行為を媒介しては…

2017/10/14
『津島佑子の世界』
 本書は2016年12月11日にかつて若き津島佑子が在学した白百合女子大学で開催された追悼シンポジウムの記録である。鹿島田真希の基調講演に始まり、木村朗子、川村湊、中上紀、ジャック・レヴィ、菅野昭正、中沢けいなどの発言がある。その中で与那覇恵子は冒頭で、津島文学の本質を次のように見事に表現している。…

2017/08/30
「真昼へ」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 結末は正月、新居を披露するために親戚たちが集まる母の家。11歳の「私」は、ダウン症の兄を連れ、冬の日の庭を冒険する。そしてガラス戸越しに居間で談笑する大人たちを覗き見する。二人だけの秘密の冒険。「私」は木に登り、その家を見下ろす。その眼差しの先には、親戚たちに混じって成長を続ける「私」自身の姿…

2017/08/29
「悲しみについて」『悲しみについて 津島佑子コレクション』
 息子を失ったことをようやく受け入れたように、娘と二人住むことになった新しい貸家の描写。これが実は、というかやはり、夢だったという冒頭。息子の死から3年目の冬、息子は死んでいないという「喜びに充ち溢れた夢」は、もはや見なくなっている。 世間では「母親が子を失うほど悲しいことはない」とか「耐え…

2017/08/28
「夢の体」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 生々しい性的な夢想から、語り手は失ってしまったはずの息子が戻ってきての共生を断続的に噛みしめる。せっかく戻ってきた息子の「耳朶に触り、指の一本一本に触り、足にも触りたい」。だが、身近な人の顔が思い出せない自分の記憶力のなさにうろたえる。さらに、写真やビデオに残る息子の顔の記録と、自分が抱く記…

2017/08/27
「春夜」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 母が若返っていく。娘が初潮を迎える。息子の死を介して、肉親の他者性が不意を突く。語り手は語り手であるがゆえに、そのことを見て留めることができる。『悲しみについて 津島佑子コレクション』著者:津島佑子発行:人文書院発行年月:2017年6月30日2017/08/26「ジャッカ・ドフニ──夏の家」『悲…

2017/08/26
「ジャッカ・ドフニ──夏の家」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 冒頭、知人との電話の会話で息子が不在となったことがほのめかされる。だが、次の奇妙な一文で早くも展開が変わる。「そこへ移り住んで待ち続けていれば、いつということは分からないが、そして必ず、とも保証はできないが、息子が一人で戻ってくる可能性はある、ということだった」。続いて「町なかのごみごみした…

2017/08/23
「泣き声」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 夜の電話、七十なかばの母から、同居する兄がいなくなった、どうしようといって泣いている。だが、書き手はそのシークエンスを次の一文で即座にカットし、そのまま過去の追想へと転じる。「三十年近くも前、十五歳になっていた私の兄は、心臓発作で急死した」。つまり、現在時制で母と二人で暮らしているはずの兄は3…

2017/08/22
「夢の記録」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
 急死した息子ダアが夢に現れる。夢の中なので一人称のわたしも周囲の誰もそれがおかしいとは思わない。ダアの裸体を抱きしめる欲望でさえも。それら断片が記録的でもあり創作的でもある文体で記されている。それ自体が作者の奸計であることは確かだろう。「これは本当に夢の記録か?」「いや、それを装った虚構に違…

2017/03/04
『津島佑子と「アイヌ文学」 pre-traslation の否定とファシズムへの抵抗』岡和田晃
 津島佑子の遺作『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(2016年)は、なぜ、3・11後の状況とアイヌの「生存の歴史」を結びつけながら書かれたかと問う刺激的な論考である。 同作品への評価としては、少数民族に対する日本人の無理解と無関心への「悲しみと憤り」が津島の執筆動機だとする川村湊の論考「”ジャ…

2016/10/09
『狩りの時代』
 3章では、障害を負って生まれた兄の耕一郎と絵美子が自宅二階の物干し台から屋根へと冒険し、となりの風呂場の開け放たれた窓から若い女性が水浴びしているのを盗み見するところから始まる。規範から「自由な」兄とその援助者の妹がとる行動は、かつての国民的作家の「猫」がそうであったように、移動して見るとい…

2018/06/25
柄谷行人書店
ジュンク堂書店池袋本店で開催中の「柄谷行人書店」に足を運んだ。柄谷行人が「これまで考える糧にしてきた」本、書評対象の本を集めるというなんともたまらないブックフェア。期間は6月23日から約半年間。あ、フォークナー『アブサロム、アブサロム!』のポップを撮り忘れてしまった。「おお!」と唸るようなことが書いて…

2017/12/17
柄谷行人書評集
 著者の散在したこれまでの書評を集めた本書は三部構成になっている。さしずめ晩期・早期・中期という区分をさせてもらうが、時系列が攪拌されている。そこがニクい。私はⅡ部に不意打ちを食らった。若き文学批評の言葉、レトリックの切れ味の鋭さに。あとがきにはこう書かれている。それら(ブログ主注・Ⅱ部・Ⅲ部…

2017/09/20
ソクラテスの謎とイソノミア『哲学の起源』柄谷行人
 ソクラテスが告発された理由は、要約すると次の三点になる。第一に、ポリスが認める神々を認めない、第二に、新しい神(ダイモン)を導入している、そして第三に、若者たちを堕落させている。これらの嫌疑はまったく無根拠とはいえない。 しかし、ソクラテスがアテネの社会規範に対して挑戦的な存在とみなされ…

2017/09/19
イオニアの自然哲学『哲学の起源』柄谷行人
 「自由」が「平等」をもたらすイソノミア。その無支配という概念を生んだイオニアではどのような哲学があったのか。それを語るには主としてプラトンやアリストテレスによる史料が残るのみであり、彼らの見方がそのまま哲学史の通説となってきたことに注意すべきである。いわく、イオニア学派が外的自然を探求したの…

2017/09/18
デモクラシーを越える無支配のシステム『哲学の起源』柄谷行人
 「民主主義ってなんだ?」と問われる前に、柄谷行人はそれに答えていた。哲学に関するいくつかの通説を刺激的に覆し、この間探求を続けてきた資本と国家を超える交換様式と遊動性の理論に強引なまでにつなげるというやり方で。 デモクラシーの語源はdemos(大衆・民衆)とcracy(支配)、すなわち多数決原理に…

2017/02/09
『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』
 この20年とは、かつての文学批評の仕事をやめて哲学的なそれへ移る時期に重なる。しかし、その「変遷」が時系列でグラデーションのように読み取れる、というわけにはいかない。それが本書の魅力といえる。 ところで私が柄谷行人を読み始めたのは、記憶に間違えがなければ、当時住んでいた田無の図書館で借りた…

2017/02/04
『クラクラ日記』坂口三千代
 本書の言いつくせぬ魅力についてつらつらと思い巡らすのが愉しい。安吾の「無頼」ぶりが側近の妻によって私小説的に綴られ、日本文学史的価値がある?安吾に劣らずの三千代の「非常識」ぶりがノー天気な解放感を読む者に与える?そんなことよりも、はじめに確認しておこう。著者の「書く」ことの豊穣な力量について…

2018/02/03
『資本の「力」とそれを越える「力」』柄谷行人
 私が知る限り、柄谷行人がNAMについて公的な場でまとまった話をするのは、2002年のNAM解散後初めてではなかろうか。なぜ今になって語るかといえば、中国のアクティビストから『NAMの原理』中国語版を出したいという打診があり、NAMについて改めて考えることになったからだという。つまり、現実からの要請に対する応…

2018/01/08
『坂口安吾論』柄谷行人
 柄谷行人はこれまで常に「え?どうしてこんなふうに読めるの?そんなこと書いてないだろう!」といった驚くべき読み=書きをわれわれに示してきた。漱石然り、マルクス然り、カント然り、フロイト然り、柳田國男然り。私は各々の原典にあたり、難儀して読み通し(たりできなかったり)、柄谷独自の読みとの違いを再…




  


2018年06月25日

柄谷行人書店

ジュンク堂書店池袋本店で開催中の「柄谷行人書店」に足を運んだ。柄谷行人が「これまで考える糧にしてきた」本、書評対象の本を集めるというなんともたまらないブックフェア。期間は6月23日から約半年間。あ、フォークナー『アブサロム、アブサロム!』のポップを撮り忘れてしまった。「おお!」と唸るようなことが書いてあったはずなのに。ところでこのポップは直筆だろうか?だとしたらヘタクソな字に親しみを覚えてしまう。




































  


2018年06月24日

『万引き家族』是枝裕和

『万引き家族』是枝裕和

 「家族」でなくても、人はつながりを求める。という凡庸なテーゼを証明するために、ホームドラマの定番の畳部屋を、これほど味のある演出ができるとは。そこにいる役者が一人欠けても場が成り立たないという緊張感がありながら、濃厚な豊穣な人いきれを画面いっぱいに漂わせること。それでいて哀しい。それぞれの役者の存在感をきっちり残すことも、この監督の目立たない倫理観であろう。

『万引き家族』
原案・脚本・監督・編集:是枝裕和
出演:リリー・フランキー/安藤サクラ/松岡茉優/池松壮亮/柄本明/高良健吾/池脇千鶴/樹木希林
音楽:細野晴臣
劇場:新宿バルト9
2018年作品


2017/09/10
『三度目の殺人』是枝裕和
 「裁く?私に他人は裁けません」。強盗殺人の容疑者・三隅(役所広司)は弁護士・重盛(福山雅治)から殺人の動機を訊かれ、そう答える。それでは人を裁く権利は誰にあるのか?「ここ(裁判所)では誰も本当のことを言わない」という被害者の娘・咲江(広瀬すず)の言葉が「王様は裸だ」という至言のごとく響きなが…

2016/07/09
『是枝裕和X樋口景一 公園対談 クリエイティブな仕事はどこにある?』
 何を隠そう私はクリエイターという言葉の響きがきらいだ。過去何度かクリエイターとして名指しされたことがあるが、そこはかとなく不愉快であった。曖昧なのに何がしかの権威を持つような含みが嫌なのか。だから、本書冒頭に紹介される「クリエイティブな仕事とクリエイティブでない仕事があるのではない。その仕事…

2017/12/30
『Vu Ja De』細野晴臣
「悲しみのラッキースター(feat.青葉市子)(Vu Ja De ver.)これから君のために歌うよ僕の家に来てくれたらとてもできないと思ってたメロディーが生まれそうUn n n n n nそうか、これは清志郎へのアンサーソングだったんだ。アルバム『HoSoNoBa』(2011)のオリジナルヴァージョンでは気がつかなか…

  


2018年06月21日

『脱住宅「小さな経済圏」を設計する』山本理顕+仲俊治

『脱住宅「小さな経済圏」を設計する』山本理顕+仲俊治

 〈序章 住宅に閉じ込められた「幸福」〉をゾクゾクしながら読んだ。およそ次のよなことが書かれている。19世紀の産業革命以降、人間を取り巻く環境の変化として大きいのが「一住宅=一家族」という住まい方であり、それは労働者のためのものであった。優れた労働者を確保し生産性を向上させることを目的に、彼らを効率よく収容し、かつ、プライバシーを守るような住宅が求められた。プライバシーとは閉じ込められた生活を指す。人々はプライバシーの内側に閉じ込められることが幸福であると思わされてきた。「一住宅=一家族」は核家族のことであるが、現代では核家族自体がすでに崩壊し、単身世帯がほぼ半分となっている。それにも関わらず、依然として「一住宅=一家族」のプライバシーを守ることを前提とした住宅に閉じ込められている状態こそが問題である。

 新しい住宅は外側に開かれていなければならない。そのためのヒントとなるのが「閾」という空間である。「閾」とは「共同体内共同体」としての家族とその上位の共同体との関係を調停するための空間である。上位の共同体との関係において、家族は様々な多様性をもつ。「一住宅=一家族」の外側は、交通、エネルギー、医療、福祉、教育などのインフラストラクチャー網によって覆われたパブリック(公的)空間だと私たちは思い込んでいる。だがそれは、単に国家の官僚機構によって私的に分割統治された空間でしかない。

 産業革命以前の日本の町屋が参考になる。町屋は家業をもった私的(プライベート)空間である。町屋の住人たちが自主的に運営していた自治組織を町中(ちょうじゅう)という。町中は公的(パブリック)空間である。両者の中間にあって、両者を結びつける空間がお店=「閾」であった。何がプライベートかパブリックな空間かはその相互関係によって変わる。自治とは、その相互関係のあり方を決める議論に参加することである。

 町中の本質は、その地域経済とともにコミュニティがあったということである。近代の住宅計画に欠落していたのは経済である。住宅に住む人たちが同時に経済活動に参加するという仕組みをもたない限り、コミュニテイは成立不可能である。たんに「みんなで仲良く」することがコミュニティではない。

 現代版町中を「地域社会圏」と呼ぼう。そのローカルな共同体を構成する人々の空間はどのように構想(設計)されるか。自由な空間で自由に他者とかかわり合い、自由に連携することを「アソシエーション」という。しかし、アソシエーションは、その都度集まるために場所探しをしなくてはならない。アソシエーションが具体的な空間として設計されることこそ重要である。一つの集団の関係が一つの建築空間として設計され、それが実現するプロセスのことを、ハンナ・アーレントは「物化」といった。

 続く1章2章では、建築家としての著者のこれまでの試み、すなわち、単なる住宅の集合を「地域社会圏化」することが、豊富な写真とイラスト入りで紹介される。その中でも興味深いのが、東京は武蔵小山の食堂付きアパートの事例である。木造密集市街地対策として地域が様変わりしていく状況の中で、このプロジェクトは、新旧の住民のための「まちづくり」という側面があった。さらに、オーナーが商店街の一員として活動してきた経験から、この街に住むそれぞれが「創造・発信」することが重要だという信念を持っているという面もまた見逃せない。

 これらの事例を通して、著者は「小さな経済」を提唱する。「小さな経済」とは、個人の仕事、特技、趣味などを通じて、他者とかかわろうとする営みのことを指す。

 本書の内容は、およそこの15年ほど私が関心を持ち続けてきたことにいちいち突き刺さる。本書を手に、誰か仲間と激しく議論したい。そして「小さな経済」を実践したい。

『脱住宅「小さな経済圏」を設計する』
著者:山本理顕+仲俊治
発行:平凡社
発行年月:2018年3月7日


2017/03/08
『アレント入門』中山元
 本書は思想家の「入門もの」であるが、ハンナ・アーレントがドイツを離れて亡命するきっかけに切り口をしぼっている。アーレントが亡命したのはナチスの迫害を逃れるためであったことはいうまでもないが、「出来事」としてより注目すべき点がある。それは、それまで信頼していた友人たちがナチスのイデオロギーに幻…

2010/02/12
沖縄アソシエーショニズムへ 41
日本の個別社会(地域自治組織)破壊の歴史GHQによる「神道指令」「町内会の廃止」、そして昭和の大合併という二つの変革は、日本の地域自治組織を致命的なまでに弱めたが、米軍占領下で日本の法律が適用されない沖縄はそれらを免れ、相対的に地域自治組織が現在まで残される結果となった。戦前と戦後が入り混じったそ…

2005/09/24
「公」とは?
地方自治をいう場合に(地方自治のケースでなくてもいえるでしょうけど)「公」の意識をどう持つか、がポイントとなるのでは。一般的には税金を払ってその代わりに基本的サービスを受ける公共事業などを思い浮かべるのでしょうか。宮本氏がいう「共同消費」もこれ(「公」の意識)にあてはまりそうです。ただ、…

2008/12/10
評議会コミュニズム
『世界共和国へ』に関するノートのためのメモ その1チョムスキーはThe future government(1971)という講演の中で4つの政体を論じたが、柄谷はそれを次の図のように展開した。Dのリバタリアン社会主義は、反資本主義的であるのみならず、スターリニズム(国家社会主義)を、また福祉国家と柔らかな国家管理を…

2006/12/02
『現代生協改革の展望』⑧
第6章 小栗崇資 『双方向コミュニケーション型生協への模索』 双方向コミュニケーション型生協――ちばコープの挑戦双方向コミュニケーション型生協 ちば生協では1994年度から、聴く活動を業務の柱に設定し、 「血液が身体全体を循環するように、声がかけめぐる組織をつくる」ことが追求された。…

  

2018年06月13日

『船出(上)(下)』ヴァージニア・ウルフ

『船出(上)(下)』ヴァージニア・ウルフ

 モダニズム作家ウルフのデビュー作本邦初訳。ロンドン生まれで世間知らずの若い娘レイチェルを主人公としたビルドゥングスロマン。南米に向けた船上での人々との出会い。到着後のホテルとヴィラ二カ所を拠点に、原住民の棲む奥地へと進む船の小旅行。アメリカへと覇権が移ろうとする大英帝国没落の予兆とオリエンタリズムそのものの眼差し。資本と国家の運動と連動するような性差のまぐわいの無さ。近代小説と「意識の流れ」の折衷。すいすいと読ませる力の源は話の筋によるものではなく、「行って戻ってくる」物語のいくつもの途中で、人物たちの「意識」が交換しているその自由さの強度によるといえないだろうか。

『船出(上)(下)』
著者:ヴァージニア・ウルフ
発行:岩波文庫
発行年月:2017年1月17日


2018/05/20
『千のプラトー 資本主義と分裂症 上・中・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
 冒頭からリゾームという言葉のイメージの噴出に息が切れそうになる。リゾームとは樹木やその根とは違い点と点を連結する線からなる。それは極限として逃走線や脱領土化線となる。樹木は血統であるが、リゾームは同盟である。リゾームは多様体である。リゾームは生成変化である。リゾームとは定住性ではなく遊牧性で…

  


2018年06月07日

『ラブという薬』いとうせいこう 星野概念

『ラブという薬』いとうせいこう 星野概念

 自分のバンドのサポート・ギタリストが精神科の主治医。それがいとうせいこうと星野概念の関係である。患者と主治医がいつものカウンセリングを再現するような対談。企画したいとうせいこうのねらいは、ハードルが高いカウンセリングになかなか来られない人たちのために「ちょっとした薬」のようなものを提示したいというもの。

 「ラブという薬」とは、傾聴と共感のことだという。これだけだと、なるほどわかりやすい。「なんだ、そんなことか」と肩透かしを食うかもしれない。でも二人の対談を読めば、カウンセリングの再現という「対話」によって、「傾聴」も「共感」も吟味されていることがわかる。すなわち、傾聴と共感とは、なかなか伝わらないと思いながらじっくり育んでいくことだとか。

 そのほか精神科医としての星野の持論に「なるほど!」と相槌を打ってみる。「『共感する』というかたちで相手に寄り添っているから、相手が開いているとき自分も開いているように感じる」(115ページ)。『おおざっぱに相手の側に立ってから、徐々に解像度を高くしていったほうがいい」(121ページ)。

 いとうせいこうは自らの病いを公開し、同時に病いを抱える自己をメタレベルからユーモアをもって眺める。さらにその両者を星野との対談というかたちにしてコンテンツとして成立させてしまう。それはコンテンツであるが薬でもある。じわじわと効いてきそうだ。

『ラブという薬』
著者:いとうせいこう 星野概念
発行:LITTLE MORE
発行年月:2018年2月26日


2018/06/02
『天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル』岡 南
 認知の方法を著者は二つのタイプに分ける。頭の中の映像を使って思考する視覚優位と、言葉を聴覚で聴き覚え、理解し、思考する聴覚優位とに。これらの特徴は普通の人々にもあるが、発達障害ではその偏りが強くなる。著者は「偏り」を「優位性」とポジティブに表現する。自身映像思考の著者が室内設計家として成り立…

2018/05/23
『小説禁止令に賛同する』いとうせいこう
 およそ『日本近代文学の起源』(柄谷行人)を通過せず文学を語ることほど厚顔無恥なことはない。いわんや小説を書いてやろうなどと思う輩にとって、同書は最強の圧力となって必ずやそれを阻む。その大前提に立ち竦みつつ、一途なカラタニアンである著者が満をじして、かつこれでもかとばかり突発的に現した。 …

2018/05/20
『千のプラトー 資本主義と分裂症 上・中・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
 冒頭からリゾームという言葉のイメージの噴出に息が切れそうになる。リゾームとは樹木やその根とは違い点と点を連結する線からなる。それは極限として逃走線や脱領土化線となる。樹木は血統であるが、リゾームは同盟である。リゾームは多様体である。リゾームは生成変化である。リゾームとは定住性ではなく遊牧性で…

2018/04/29
『心と体と』エニェディ・イルディコー
 ブダペスト郊外の食肉加工場で代理の検査官マーリア(アレクサンドラ・ボアブリー)が勤務を始めた。マーリアは他者とのコミュニケーションがうまくとれずに周りから孤立している。人生にやや疲れ片腕が不自由な上司エンドレ(ゲーザ・モルチャーニ)は彼女を気にかける。やがて二人は雪降る森を彷徨う雌雄一組の鹿…

2018/04/09
『享楽社会論 現代ラカン派の展開』松本卓也
 精神分析を可能にした条件とは、近代精神医学が依拠した人間の狂気(非理性)とのあいだの関係を、言語と、言語の限界としての「表象不可能なもの」の裂け目というパラダイムによって捉え直すことであった。1950〜60年代のラカンの仕事は、フロイトが発見した無意識の二重構造を、超越論的システムとして次のように…

2018/03/21
『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 上・下』ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
  『アンチ・オイディプス』は、「欲望機械」「器官なき身体」「分裂分析」「接続と切断」といった言葉の発明をもとに、無意識論、欲望論、精神病理論、身体論、家族論、国家論、世界史論、資本論、記号論、権力論など様々な領域へ思考を横断していくところに最大の特徴がある。「あとがき」で翻訳者の宇野邦一は、…

2018/01/02
「健康としての狂気とは何か━ドゥルーズ試論」松本卓也
今もっとも注目する松本卓也論考の概要。 ドゥルーズは「健康としての狂気」に導かれている。その導き手として真っ先に挙げられるのが、『意味の論理学』(1969年)におけるアントナン・アルトーとルイス・キャロルであろう。アルトーが統合失調症であるのに対し、キャロルを自閉症スペクトラム(アスペルガー症…

2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…

2017/01/05
『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也
 本書は、ドゥルーズとガタリやデリダといったポスト構造主義の思想家からすでに乗り越えられたとみなされる、哲学者で精神科医のラカンのテキストを読み直す試みとしてある。その核心点は「神経症と精神病の鑑別診断」である。ラカンは、フロイトの鑑別診断論を体系化しながら、神経症ではエディプスコンプレクスが…

2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…

2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…

  


2018年06月02日

『天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル』岡 南

『天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル』岡 南

 認知の方法を著者は二つのタイプに分ける。頭の中の映像を使って思考する視覚優位と、言葉を聴覚で聴き覚え、理解し、思考する聴覚優位とに。これらの特徴は普通の人々にもあるが、発達障害ではその偏りが強くなる。著者は「偏り」を「優位性」とポジティブに表現する。自身映像思考の著者が室内設計家として成り立つように、「偏り」を逆手にそれに適した職業に就くことも可能だからだ。

 本書では視覚優位のケースとして建築家アントニオ・ガウディが、聴覚優位のケースとして児童文学者で数学者のルイス・キャロルの事例が詳しく紹介され興味深い。

 視覚優位で映像思考に偏った人は、ものごとを全体的に把握すること、それを同時に並行処理する能力に秀でる。ガウディはその建築デザインにおいて、全体の中の個々の関係性を重視し、そこから新たな発見を生み出した。

 視覚優位の人にとってこの全体優位性がいかに大切かということを、著者はその指導方法を誤る時の危険性として触れている。すなわち、視覚優位の人は、瞬時にその製作方法を理解することができるのに、いちいち細かいところまで言語で指示されると、自分がそこまで言われないと理解できない人間として扱われているように感じ、不愉快になり、意欲を削がれてしまうと。

 一方、聴覚優位のキャロルは耳から入る音声とその言葉の意味が分離している。それによって思いもかけない同音異義語を噴出させ、ストーリーを展開させる。また、彼の作品には、色彩の乏しさ、人の表情の表現がないなど、聴覚優位であるがゆえの特徴が見られると指摘される。

 さて、私はどちらの偏りを持っているだろうか。表現するということでいえば、映像表現と文章表現のどちらを得意とするかということと関わるだろうか。この二者選択は私にとって未だ容易に解けない課題としてあるのだが。

『天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル』
著者:岡 南
発行:講談社
発行年月:2010年10月7日


2018/04/09
『享楽社会論 現代ラカン派の展開』松本卓也
 精神分析を可能にした条件とは、近代精神医学が依拠した人間の狂気(非理性)とのあいだの関係を、言語と、言語の限界としての「表象不可能なもの」の裂け目というパラダイムによって捉え直すことであった。1950〜60年代のラカンの仕事は、フロイトが発見した無意識の二重構造を、超越論的システムとして次のように…

2018/01/02
「健康としての狂気とは何か━ドゥルーズ試論」松本卓也
今もっとも注目する松本卓也論考の概要。 ドゥルーズは「健康としての狂気」に導かれている。その導き手として真っ先に挙げられるのが、『意味の論理学』(1969年)におけるアントナン・アルトーとルイス・キャロルであろう。アルトーが統合失調症であるのに対し、キャロルを自閉症スペクトラム(アスペルガー症…

2017/09/08
〈自分の言葉をつかまえる〉とは? 山森裕毅『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 対話を実践する試み「ミーティング文化」では、〈自分の言葉で語ること〉に価値が置かれる。 ハンナ・アーレントは「言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界のなかに挿入する」といった(『人間の条件』)。アーレントが面白いのは、ひとが言葉によって自分を表すときに、自分がいったいどんな自分を明…

2017/09/06
ダイアローグのオープンさをめぐるリフレクティング 矢原隆行『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグではポリフォニーが強調される。そこでは「すべての声」に等しく価値があり、それらが一緒になって新しい意味を生み出していくと。しかし、実際のミーティングにおいて、多くの声が響いていたとしても、それのみで既存の文脈がはらむ力関係を無効化できるものではない。 リフレクティング…

2017/09/05
ダイアローグの場をひらく 斎藤環 森川すいめい 信田さよ子『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 オープンダイアローグの前提は「わかりあえないからこそ対話が可能になる」。コミュ力の対象は「想像的他者」、すなわち自己愛的な同質性を前提とする他者。その対極はラカン的な「現実的他者」で、決定的な異質性が前提となるため対話もコミュニケーションも不可能。それに対しダイアローグの対象は「象徴的他者」…

2017/09/04
コミュニケーションにおける闇と超越 國分功一郎 千葉雅也『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 エビデンス主義は多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されている。それはメタファーなき時代に向かうことを意味する。メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということ。かつては「心の闇」が2ちゃんねるのような空間に一応は隔離されていた。松本卓也がいうように、本来だ…

2017/09/03
演劇を教える/学ぶ社会 平田オリザ『現代思想 八月号「コミュ障」の時代』より
 平田オリザは演劇を日本の教育に取り入れる実践において、まず「会話」(conversation)と「対話」(dialogue)を区別することから始める。「会話」は価値観や生活習慣なども近い者同士のおしゃべり、「対話」はあまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、というように。日本では歴史的に「対話」が概念として希薄で…

2017/02/12
「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎
 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか? 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされ…

2017/01/05
『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也
 本書は、ドゥルーズとガタリやデリダといったポスト構造主義の思想家からすでに乗り越えられたとみなされる、哲学者で精神科医のラカンのテキストを読み直す試みとしてある。その核心点は「神経症と精神病の鑑別診断」である。ラカンは、フロイトの鑑別診断論を体系化しながら、神経症ではエディプスコンプレクスが…

2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…

2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…