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2018年06月29日

『私ではなく、風が──津島佑子の転回』柄谷行人

『私ではなく、風が──津島佑子の転回』柄谷行人

 柄谷行人は1980年代初めから文学批評から身を引いて行った。朋友である中上健次の死(1992年)がその区切りをつける出来事となった。柄谷にとって、その時から、中上の代わりに津島佑子が存在し始めたわけだが、その後『黄金の夢の歌』(2010年)によって、津島は中上の代行者以上の存在であることに気づく。アイヌや様々な遊動民について書かれた同書に、同時期に柄谷が著した『世界史の構造』と符号する物を感じ、稀有な同時代者であることを見出したからである。

 『黄金の夢の歌』とそれに続くアイヌやキリシタンを扱った『ジャッカ・ドフニ──海の記憶の物語』(2016年)は、三人の肉親の死という実際の経験を核として書かれたそれまでの津島の作品群とは明らかに異なっていた。そもそも『笑いオオカミ』(2000年)には『黄金の夢の歌』における遊動民の原型、そして、『ジャッカ・ドフニ』におけるキリシタンの「兄と妹」の旅の原型が見出される。

 「しかし」と、柄谷はいう。

 しかし、この転回は、たんにオオカミ=遊動民的な世界を描くことにあるのではない。たとえば、『笑いオオカミ』の冒頭には、オオカミに関する論考が置かれている。これは小説につけられた注釈のようなものではなく、作品の一部である。時には、新聞記事がそのまま載せられている。つまり、津島はこの作品において、小説、物語、評論、エッセイというジャンルの区別を揚棄したのである。これ以後、津島は従来の文学に「定住」するのをやめて、「遊動」し始めたのだ。そのきっかけは、「安吾」、というより、彼女がそこに見出した、吹き抜ける「風」のような自由の感覚にあったといえる。


『私ではなく、風が──津島佑子の転回』
「群像 2018年6月号」掲載
著者:柄谷行人
発行:講談社
発行年月:2018年6月1日


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『ナラ・レポート 津島佑子コレクション』
 優れた小説作品がそうさせるように、読書の途中でグイグイと引き込まれ、時間の経つのも忘れ、結果夜を通しての耽溺となることがある。本書がまさにそうだ。それまでは今ひとつ読む進めることに入っていけない停滞した時間が続いたのち、ある箇所から一転して読むことの快楽が刺激され、ページをめくるのが永遠に続…

2018/01/29
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2017/12/03
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2017/10/14
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「悲しみについて」『悲しみについて 津島佑子コレクション』
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『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』
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『クラクラ日記』坂口三千代
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2018/02/03
『資本の「力」とそれを越える「力」』柄谷行人
 私が知る限り、柄谷行人がNAMについて公的な場でまとまった話をするのは、2002年のNAM解散後初めてではなかろうか。なぜ今になって語るかといえば、中国のアクティビストから『NAMの原理』中国語版を出したいという打診があり、NAMについて改めて考えることになったからだという。つまり、現実からの要請に対する応…

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