2017年08月30日
「真昼へ」『悲しみについて 津島佑子コレクション』より
結末は正月、新居を披露するために親戚たちが集まる母の家。11歳の「私」は、ダウン症の兄を連れ、冬の日の庭を冒険する。そしてガラス戸越しに居間で談笑する大人たちを覗き見する。二人だけの秘密の冒険。「私」は木に登り、その家を見下ろす。その眼差しの先には、親戚たちに混じって成長を続ける「私」自身の姿や、「私」が産んだ二人の子どもたちがいる。やがて「あなた」(死んでしまった息子)がガラス戸越しの「私」に気づき、笑い出してしまう。まだ子どもの「私」は、あなたを見て泣いてしまう。
むろん悲しいから泣いているのではない。
『悲しみについて 津島佑子コレクション』
著者:津島佑子
発行:人文書院
2017/08/29
息子を失ったことをようやく受け入れたように、娘と二人住むことになった新しい貸家の描写。これが実は、というかやはり、夢だったという冒頭。息子の死から3年目の冬、息子は死んでいないという「喜びに充ち溢れた夢」は、もはや見なくなっている。 世間では「母親が子を失うほど悲しいことはない」とか「耐え…
2017/08/28
生々しい性的な夢想から、語り手は失ってしまったはずの息子が戻ってきての共生を断続的に噛みしめる。せっかく戻ってきた息子の「耳朶に触り、指の一本一本に触り、足にも触りたい」。だが、身近な人の顔が思い出せない自分の記憶力のなさにうろたえる。さらに、写真やビデオに残る息子の顔の記録と、自分が抱く記…
2017/08/27
母が若返っていく。娘が初潮を迎える。息子の死を介して、肉親の他者性が不意を突く。語り手は語り手であるがゆえに、そのことを見て留めることができる。『悲しみについて 津島佑子コレクション』著者:津島佑子発行:人文書院発行年月:2017年6月30日2017/08/26「ジャッカ・ドフニ──夏の家」『悲…
2017/08/26
冒頭、知人との電話の会話で息子が不在となったことがほのめかされる。だが、次の奇妙な一文で早くも展開が変わる。「そこへ移り住んで待ち続けていれば、いつということは分からないが、そして必ず、とも保証はできないが、息子が一人で戻ってくる可能性はある、ということだった」。続いて「町なかのごみごみした…
2017/08/23
夜の電話、七十なかばの母から、同居する兄がいなくなった、どうしようといって泣いている。だが、書き手はそのシークエンスを次の一文で即座にカットし、そのまま過去の追想へと転じる。「三十年近くも前、十五歳になっていた私の兄は、心臓発作で急死した」。つまり、現在時制で母と二人で暮らしているはずの兄は3…
2017/08/22
急死した息子ダアが夢に現れる。夢の中なので一人称のわたしも周囲の誰もそれがおかしいとは思わない。ダアの裸体を抱きしめる欲望でさえも。それら断片が記録的でもあり創作的でもある文体で記されている。それ自体が作者の奸計であることは確かだろう。「これは本当に夢の記録か?」「いや、それを装った虚構に違…
2017/03/04
津島佑子の遺作『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(2016年)は、なぜ、3・11後の状況とアイヌの「生存の歴史」を結びつけながら書かれたかと問う刺激的な論考である。 同作品への評価としては、少数民族に対する日本人の無理解と無関心への「悲しみと憤り」が津島の執筆動機だとする川村湊の論考「”ジャ…
2016/10/09
3章では、障害を負って生まれた兄の耕一郎と絵美子が自宅二階の物干し台から屋根へと冒険し、となりの風呂場の開け放たれた窓から若い女性が水浴びしているのを盗み見するところから始まる。規範から「自由な」兄とその援助者の妹がとる行動は、かつての国民的作家の「猫」がそうであったように、移動して見るとい…
Posted by 24wacky at 20:55│Comments(0)
│今日は一日本を読んで暮らした