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2017年02月28日

『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』上間陽子

『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』上間陽子

 「裸足で逃げる」とは、なんと沖縄の「現実」に刺さるタイトルだろう。あの亜熱帯の夜の、生暖かい、しかしひんやりとしたアスファルトを思わず踏みしめたときの素足の触覚が、混濁したいくつものエモーションを拓き、一条の微かな光線の可能性を喚起させる。コザのゲート通りをゲート側から捉えた夜景の表紙写真と、黒を基調とした装丁がさらに誘惑する。

 しかしながら、暴力とセックスの因果関係の構造に絡め取られた少女たちが「逃げる」その先は、彼女たちが生まれ育ったテリトリーを越えることはない。たとえその内部が、彼氏や夫のDVの稼働範囲内だと分かっていたとしても。「どうしてできないのか?もっと遠くへ逃げればよいだろうに」との「客観的な」意見こそ厚顔無恥の無理解であることを、本書は逆照射する。

 〈まえがき━━沖縄に帰る〉で、著者は、かつて自身の少女時代に、同世代の荒んだ暴力とセックスの現前から「逃げた」告白から始める。猛烈に勉強して東京へ立身出世するという方法で、著者の場合はテリトリーの外部へ「逃げる」ことができた。

 やがて沖縄に帰った著者は、少女たちの逃げ場がテリトリー内に限られていることを理解する。そしてそれが意味することを噛み締め、立ちすくむ。次の瞬間、彼女たちのそばで、それらの声を聞くことを始める。それは著者が「根を下ろす」覚悟でもあっただろう。

 「聞く」態度は、次にそれを「編集」する欲望を呼び起こすが、著者はその会話の核心部分をテープ起こしそのままで再現する。現代の沖縄の若者のスラングであったり、突飛な連想であったり、微妙な間であったりが再現されることで、地の文とは独立して「当事者性」が読む者の優位性から守られる。

 なぜ「当事者性」は守られなければならないのか。それは「同情」も「共感」も困難であるがゆえに、「非当時者」とのあいだに線を引くことについて自覚的であるべきだからだ。

 シングルマザーのキャバ嬢の翼が夫からボコボコにされるが、仲のいいキャバ嬢の未羽は、駆けつけても「大丈夫?」とは問わない。大丈夫でないことくらい、すでに承知していたからだ(〈記念写真〉)。

 それでも、暴力が暴力として禍々しくあらわれるこうした事態に、ひとは通常、言葉をなくしてなすすべを失ってしまうものだ。助けたいと思うものと助けられたいと思うものが、どんなに同じ思いを共有したとしても、その身体に暴力を受けて、自分を否定され傷つけられて惨めな思いを抱くものと、暴力を受けず無傷であるものの身体は、それぞれの皮膚によって隔てられている。それは被害を受けたものを、ふたたび孤独に陥れる。
(86ページ)

 この「孤独」の質をわたしは想像できるだろうか。それは、たんに「それぞれの皮膚によって隔てられている」だけではない。本来は近しい、親しい、懐かしいはずの自分たちのテリトリー内であるにもかかわらず「孤独」なのだとしたら。

 子どもの頃から大人の都合で家族が何度も変わり、家を転々とし、恋人の依頼で援助交際を糧としていた春奈は、やがて著者をはじめ知り合いから連絡を絶つ。それを知った著者は、春奈が住んでいた民宿や、客と落ち合っていた店の駐車場、ラブホテルといった痕跡を車で辿る。そして駐車場からラブホテルに向かう道の途中に春奈の家が見えることに気がつく(〈さがさないよ さようなら〉)。肝ぐるさん、この追走=追想のウッとくる近さよ。

 様々な暴力の現場と少女の家が近いこと。それを知った後で少女との距離がもはや遠いことに著者が気づくという遅延。著者は少女の傷を通し、改めて〈沖縄〉との近さを突きつけられる。

 むろん〈沖縄〉は普遍化されるための表記であってはならない。〈夜の街の少女たち〉が今もそこにいる以上。にもかかわらずそう書いてしまった「私」とは誰か。その非当事者性を晒すこと以上の意味を見出すことができるか。
 
『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』
著者:上間陽子
発行所:太田出版
発行年月:2017年2月11日
  


2017年02月27日

『ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由』「未来食堂」店主 小林せかい

『ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由』「未来食堂」店主 小林せかい

 1日1メニュー、まかない、ただめし、あつらえ、さしいれといった、シンプルで「懐かしい」定食屋の開業準備からオープンまでを綴ったブログを一冊にした前著『未来食堂ができるまで』に続いて、その後飲食店として実際どうなっているのだろうという素朴な疑問に答えてくれる第二弾。しかし、もちろんそれだけではなく、店主の独自の「思想」が、お店が稼働する日々につられて馴染んでくるような説得力を読む者に与える。

 ”まかない”というお客様でも従業員でもない”第三の立ち位置”。1度以上客として来店した人に限る。働き方の多様化として、店主にとっては理がある。

 「お金がない人」を救うこと自体をシステム化したのが”まかない”だ。金銭的に苦しい人を受け入れるのが真のねらいだが、実際どんな人なのだか尋ねることをしないのでわからない。無理に何かを話さなくても良い、ただ暖かいご飯を食べてほしい。飲食店開業の修行として来ているまかないさんに受け継いでほしいのは、”人を受け入れる姿勢”だという。

 50分のまかないをすると1食分のただめし券がもらえる。もちろんその人が利用してもいいが、券を壁に貼っておくと、他の誰かが利用できる”ただめし”。でもそれは、50分の労働=900円(定食代)という貨幣の等式ではないと、店主は強調する。「貨幣のトンネルをくぐらないあり方」が面白い、と。

 ただめし券に名前はない。誰かがまかないをした日付が記されているのみ。施す側と施される側が対面しないことで、むしろ想像力が増す螺旋形のコミュニケーションは、コミュニティや善意の押しつけに対するアンチテーゼでもある。

 ”あつらえ”については一言しておいたほうがよいだろう。実際私も来店して確認したが、それが目的で来るお客さんが多いだろうから。あつらえを店の売りにしていることと矛盾するが、実際はあまり行っていないという。あつらえは、相手の”ふつう”を受け入れるための、いわば非常口のようなもの。ところがメディアで報道されたことで、それを「体験」するのを目的に来る人が現れ、本来の趣旨とズレが出てきてしまった。メインに3種の小鉢がついたバランスのある定食で満足しているのであれば、無理に非常口を使う必要はないというのが店主の思いである(実際はオーダーしてくれた方がその分売り上げは上がるはずだが)。

 〈第3章 見たことがないものを生み出す力〉では、思いついたアイデアを実際にかたちにするためにはどうしたらよいかが解説されている。従来の「コンセプト=課題解決」という起業のノウハウとは異なり、ユニークかつオーソドックスでもあり、本書の興味深い各章の中でも白眉といってよい。ぜひ本書を手にとって読んでいただきたい。飲食店開業を準備している人だけでなく、なにか新しいことをしてみたいが一歩踏み出せないでいるあなたやわたしにも。

『ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由』
著者: 小林せかい
発行所:太田出版
発行年月:2016年12月17日


2017/02/06
『未来食堂ができるまで』小林せかい
 未来食堂のコンセプトは、「あなたの『ふつう』をあつらえる」だという。通常のメニューに加えて、希望する材料を使ったり、気分や体調に合わせたおかずを「あつらえ」として提供する。その具体性の裏には、「誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所を目指す」という深い思想がある。 さらに驚くべきは「ま…

2017/02/26
未来食堂
 昨日は映画鑑賞と併せてようやく神保町の「未来食堂」に行くことができた。まずは映画上映前のランチタイムに足を運んだが、テレビ取材が入っているとのアナウンスに遭遇。事前のサイトチェックで、テレビ東京「ガイアの夜明け」に取り上げられることになり(2/28放送予定)、3月上旬は混雑が予想されると書かれてあっ…
  


2017年02月26日

未来食堂

 昨日は映画鑑賞と併せてようやく神保町の「未来食堂」に行くことができた。まずは映画上映前のランチタイムに足を運んだが、テレビ取材が入っているとのアナウンスに遭遇。事前のサイトチェックで、テレビ東京「ガイアの夜明け」に取り上げられることになり(2/28放送予定)、3月上旬は混雑が予想されると書かれてあったことを思い出す。迷ったが、撮影が入ってどことなくテンパっている雰囲気で、普段の雰囲気がわからなくなるのは避けたいのでいったんパスすることに。

 ランチはいろいろと迷った末大通りの生パスタを食し(美味!)、神保町シアターで森崎東の『野良犬』を鑑賞。良い映画を観終え後はいつもそうなるように、そのまま帰宅するのはもったいない気分になり、ふと「未来食堂」のことを思い出す。テレビの反響でしばらく混雑が予想されるなら、その前に入っておこうと決意。18時からのご飯タイムに合わせ少し時間を潰し、再び人通りのまばらな界隈へ。

 食事は日替わりメニュー一つだけというユニークさで、今日は「冬の最後の煮物メニュー」(¥900)をいただく。イカ、里芋、厚揚げ、大根はそれぞれ味が染み込んでいるが、甘さ控えめで食べやすい。豚汁には香辛料が加えられているのか、辛めの味付けが特徴的。全体的にしっかりした手抜きのない味わい。ご飯はおかわり自由で、おひつからよそうセルフサービス。

定食

 本で得た知識によれば、平日のランチタイムで回転率4.5という高い売り上げを出す一方で、オフィス街のため土曜の夜は落ち着いているということだったが、入店時に8割がた席が埋まっていた。

 隣の空いた席に後から座った女性が戸惑っているようなので、システムをかいつまんで解説することに。食事メニューは1つだけであるというと、「あつらえ」があるはずだが、と彼女。やはりそうなんだなと合点。そのユニークなオーダーを一度は試してみたいと思うのは、じゅうぶんうなづける。自分もそうだったし。ただ、本に書かれてあったように、「あつらえ」は「定食を召し上がって、足りないようであれば」リクエストしてほしい、ということだったので、その旨を彼女にも伝える、でも「あつらえ」の瞬間を自分も見てみたいので、ぜひトライしてほしいということもつけ加えて。もっとも、この辺の「哲学」は本を読まないとなかなか理解できないだろう。

 そんなわれわれのやりとりをみたディレクターには、二人は知り合いでなく初見であるにもかかわらず、そんなやりとりをしているのが興味深かったようだ。偉そうに解説している自分も実は初めての来店なのだというと、さらにウケていた。この点についても、まさに著書に書かれているポイントだと思うが、一期一会を大切に、しかし、仲良しコミュニティにならないようにしたいという店主のポリシーが現れた瞬間といえそうだ。

 そんな店主は予想通り素っ気なかった。でも、それでいいのだ。

2017/02/06
『未来食堂ができるまで』小林せかい
 未来食堂のコンセプトは、「あなたの『ふつう』をあつらえる」だという。通常のメニューに加えて、希望する材料を使ったり、気分や体調に合わせたおかずを「あつらえ」として提供する。その具体性の裏には、「誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所を目指す」という深い思想がある。 さらに驚くべきは「ま…


関連サイト:
未来食堂
ガイアの夜明け 外食の〝新勢力〟あらわる~快進撃の裏に秘策あり~2017年02月28日放送

  
タグ :未来食堂


Posted by 24wacky at 19:55Comments(0)キモチE

2017年02月25日

『野良犬』森崎東

『野良犬』森崎東

黒澤明の1949年の名作をリメイクする、しかも集団就職被差別からの怨恨をはらそうとする沖縄出身の青年たちに犯人を設定するという森崎東の狂気=リアリズムが炸裂する。

 野良犬の比喩は早くも冒頭シーンで明確に現される。清掃工場での賃労働の帰り道、若者たちが炎天下をけだるそうに歩いている。大型ダンプがスレスレに追い越してく。若者たちは悪態を吐く。するとそのうちの一人が傍らの犬を道路外へ荒々しく放り投げる。憤懣の矛先を動物に向ける虐待かと思いきや、次のカットで道の反対側で無事の犬が写しだされる。犬が車にひかれると危ないからという青年の優しい思いであることがほのめかされる。つまり、野良犬=沖縄出身の青年たち=弱きものという見事なテーマ設定である。

 映画は沖縄出身の青年たちが拳銃を手にしてしまったことによる共同正犯が不幸へ向かうドラマが一方であり、他方で拳銃を盗まれ責任感から犯人を追う若い村上刑事(渡哲也)と相方のベテララン刑事佐藤(芦田伸介)の家庭の問題が並行して描かれる。青年たちのウチナーグチを介した連帯感の強さと日本(人)への被差別意識の強固さを、村上も佐藤も最後まで理解できない。「だからといって人を殺す理由になるのか?」と返すしかないヒューマニズムにはいかにも力がない。ホモソーシャルでもある沖縄青年たちの連帯意識の躍動的な身体表現は、村上や佐藤のみならず、映画を観る多くの日本人にとっても不可解であり、あまりにも過剰ななにかであるに違いない。森崎東の狙いはそこにあったのだろう。例えば、映画評論家の佐藤忠男は「この犯罪動機の設定が必ずしもマトを射たものになっておらず、森崎東の熱っぽい演出にもかかわらず平凡な刑事ものに終わった」と評している。佐藤には沖縄青年の「動機」が理解できていない。
『野良犬』作品紹介 (佐藤忠男) 『世界映画作品・記録全集』(キネマ旬報一九七五年659号)

 村上にとって確かに「沖縄」は不可解なのだが、それにもかかわらず、犯人が沖縄出身の青年たちだとわかるや、追跡の身振りが確固たるものになり、以降村上=渡哲也のギラツキぶりがハンパなくなっていく。黒沢版の三船敏郎のギラツキぶりを意識したことは間違いないが、三船のそれが犯人が同じ復員兵だという境遇であることでの意識の変化と共にあり、三船も犯人も同じように野良犬だという、映画をつら抜く動機がわかりやすいのに対し、森崎版の渡哲也のそれは「沖縄を理解できない」不可解さによって不本意にギラつくしかない。アクションスター渡哲也の身体は、それまでの他の映画のように生を発散することに成功しないし、観る者も溜飲を下げることを寸止めされる。

 この映画の存在を知ったのは、『沖縄映画論』(2008年)所収の四方田犬彦の論考「生きてるうちが、野良犬 森崎東と沖縄人ディアスポラ」であった。以来観る機会をうかがっていたので、待望の上映である。映画共々素晴らしい四方田の論考の一読をお勧めする。

 黒沢版と森崎版が異なっている最後のポイントは、風景をめぐるものである。黒沢版ではもっぱら東京の東半分、すなわち一九四五年三月十日にアメリカの無差別爆撃によって徹底的に破壊された浅草から上野にかけての下町が、その混沌とした復興のありさまを含めて登場している。森崎版では、幾つかの例外はあるが、風景の中心となるのは横浜から鶴見、川崎にかけての工業地帯であり、そこに見え隠れする沖縄人集落の貧しい佇まいである。廃船、廃工場、廃品回収場、スラム街、スクラップ置き場、旧軍の兵舎を利用したと思しき女子工員寮・・・・。高度成長期の日本にあって見捨てられ、隠蔽されてきた荒廃と貧困の風景が、どこまでも集められ、刑事と犯人たちとの追跡劇の現場となる。その中心となるのが鶴見の湾岸地帯にある沖縄人集落である。「復帰」以前から沖縄人が住みついていた、このひどく立地条件の悪い場所を、森崎は野良犬然として都会を徘徊する少年たちが最後に頼りとする避難所、すなわちアジールとして描いている。このことは一九七〇年代の日本映画において例外的なことであり、また現在にいたる沖縄ものフィルムのなかにあっても稀有なことであると、ここに強調しておきたい。
(100ページ)


『野良犬』
監督:森崎東
出演:渡哲也/芦田伸介/松坂慶子/赤木春恵/中島真知子/緑魔子/田中邦衛
1973年作品
神保町シアター 特集「あの時の刑事」


2009/11/14
日本名作映画劇場2009
毎秋ごとのお楽しみ、パレット市民劇場で開催される「日本名作映画劇場2009」で4本立てにトライしてきた。今回は皆軽快なタッチの作品であったためか、まったく疲れず最後まで観ることができた。以下、それぞれに短いコメントをする。

  


2017年02月24日

『地下鉄(メトロ)に乗って』篠原哲雄

『地下鉄(メトロ)に乗って』

 地下鉄丸ノ内線を媒介として、東京オリンピックの年、そしてさらに遡り戦後の闇市、そして戦中へとタイムスリップしながら描かれるのは、主人公長谷部真次(堤真一)にとっての父親小沼佐吉(大沢たかお)との和解のドラマである。ユニークなのは、それのみならず、真次の恋人の軽部みち子(岡本綾)も共にタイムスリップする。その理由がクライマックスで判明し、もうひとつの和解のドラマが輻輳する。

 新中野駅を地上出口に出た瞬間、昭和39年のノスタルジックな舞台美術が目の前に現れる。映画は、丸ノ内線乗車、駅のホーム、構内通路と過去へのタイムスリップの往復が執拗に繰り返される、地下鉄がメディアとして不可欠であるがゆえに。しかし、それが成功しているのは、丸ノ内線という地下鉄が現在進行形のノルタルジー性を強く有しているからに他ならない。

 大沢たかおは最近あまりパッとしない印象だが、この演技をみると、もっと活躍してよい気がする。岡本綾も存在感があってよいかな。

『地下鉄(メトロ)に乗って』
監督:篠原哲雄
出演:堤真一/岡本綾/岡本綾/大沢たかお/常盤貴子
2006年作品

Gyao配信期間
2017年2月20日~2017年3月5日
  


2017年02月23日

『ザ・ファイター』

『ザ・ファイター』

 ストーリーと主役の兄弟二人を実話に忠実にドラマ化。エンドクレジットに本物の映像がインサートされ、いかにマーク・ウォールバーグとクリスチャン・ベイルの演技がリアルであったかがオチとしてわかるという憎い演出となっている。特にクリスチャン・ベイルが兄のディッキーにそっくりで、洋の東西を問わず「こういうヤバそうな兄さん、いるよな」と、変に納得させられてしまう。『ロッキー』とどちらが好きかは感性の問題だろう。

『ザ・ファイター』
監督:デヴィッド・O・ラッセル
出演:マーク・ウォールバーグ/クリスチャン・ベイル
2010年作品

Gyao配信期間
2017年2月19日~2017年3月4日

  


2017年02月22日

『ブレス』キム・ギドク

『ブレス』キム・ギドク

 エロスとタナトス(フロイト)をシンプルに寓話化するとこうなるか。死の欲動とは自殺願望のことではないという。あまり好んで観る監督ではないが。

『ブレス』
監督:キム・ギドク
出演:チャン・チェン/チア/ハ・ジョンウ/カン・イニョン
2007年作品

Gyao配信期間
2017年1月28日~2017年2月27日



  


2017年02月21日

『山谷 ヤマの男』多田裕美子

『山谷 ヤマの男』多田裕美子

 東京山谷にある玉姫公園で黒布が垂らされ即席の青空写真館が現れる。そこで男たちはポーズをとり、著者が撮影するフィルムにおさまる。ただただ、浮き出される男たち。1999年からの2年間、それは仕事が激減し「福祉の街」へと相貌を変えていく、かろうじてその前の、日雇い労働者たちが日銭を飲むというシンプルな快楽を得ることができた最後の瞬間でもあった。

 撮影者が女だからであろう、男たちはみなカッコをつけている。あるいは女=カメラを見つめている。欲望が翼をつけている。執着と諦念が矛盾なくともにある。それらが刻印されたその場では、男たちはひとりぼっちだけれど平等である。女はなにを感じ、シャッターを切り、現像しただろう。それは本書の文章を越えたどこかにしまってあるにちがいない。

『山谷 ヤマの男』
著者:多田裕美子
発行所:筑摩書房
発行年月:2016年8月25日


2010/03/10
『山谷 やられたらやりかえせ』
桜坂劇場へ『山谷 やられたらやりかえせ』を観にいく。

  
タグ :山谷


2017年02月20日

『WILD LIFE』青山真治

『WILD LIFE』青山真治

 『Hepless』(1996年)でのデビューから代表作『EUREKA』(2000年)に至る間に、青山真治がいかに映画製作と格闘していたかが分かる愛すべき作品。北野武とシンクロしつつ離れていくプロセス。WILD LIFEとはその傷跡の謂である。

 それにしても國村隼のヤクザ率と光石研のチンピラ率の高さは、この映画に端を発しているのか。

『WILD LIFE』
監督・脚本:青山真治
出演:豊原功補/ミッキー・カーチス/夏生ゆうな/國村隼/光石研/矢島健一
1997年作品

Gyao配信期間
2017年2月6日~2017年3月5日


2008/01/05
『サッド ヴァケイション』
桜坂劇場で『サッド ヴァケイション』を観る。『Helpless』『EUREKAユリイカ』に続く北九州サーガ完結編。中上健次に執りつかれた作家はその名を主人公に定めることを潔しとした。そこでは、母親役の石田えりに限らず宮崎あおいも板谷由夏も山口美也子も、そして当然作家の共犯者であるとよた真帆も「母性」か…


  


2017年02月19日

『ヒアアフター』クリント・イーストウッド



 「孤独」をテーマにこれほど救われる作品はそうありそうにない。3つのストーリーをじっくりゆっくりと展開させ、最後にロンドンでチャールズ・ディケンズによって引き合わせる脚本の秀逸さには脱帽する。抑制的なマット・デイモンが見事に役にはまり込んでいる。クリント・イーストウッド監督作品の中でも、好きな作品の上位に入るのは間違いない。

 冒頭、津波に襲われるシーンがある。体験者はフラッシュバックの危険性があるので閲覧注意。

『ヒアアフター』
監督・音楽:クリント・イーストウッド
出演:マット・デイモン/セシル・ドゥ・フランス/ジェイ・モーア
2010年作品

Gyao配信期間
2017年2月15日~2017年2月28日


2009/04/27
『グラン・トリノ』
シネマスQに『グラン・トリノ』を観にいく。クリント・イーストウッド監督の一貫した「メッセージ」とはこうだ。“この世界では、やられたらやり返すタフさが必要だ”。そこで発動される暴力はいったんは肯定されるが、それが人間にとって容易に拭うことのできない性の無い「悪」であるという余韻を残しエンディングを…

2009/03/13
『チェンジリング』
シネマQで『チェンジリング』を観る。クリント・イーストウッド監督作ということで注目していたが、予告編を観たところ、彼の作品のいくつか(例えば『ミスティック・リバー』)についてまわる倒錯的なまでの暗さを感じ観るのに躊躇していたが、何人かの知人の評価を聞き、やはり観ることにした。そしてそれは正解だった…

  


2017年02月18日

『イッツ・オンリー・トーク』絲山秋子

『イッツ・オンリー・トーク』絲山秋子

 「直感で蒲田に住むことにした。」という書き出しで始まる小説の主人公、橘優子は、かつて新聞社に就職しイタリアに赴任するキャリアウーマンだったが、一年ほど精神病院に入院し、その後職を失った。蒲田の古いアパートをアトリエにして、絵を描いて過ごしている。「誰とでも寝てしまう」優子と、一風変わった男たちとの不器用なコミュニケーションが描かれる。

 優子が引っ越して間もなく蒲田で再会する本間俊徳は、大学時時代の友人で、「住民主権」を政策に掲げる都議会議員。成り行きで優子から誘われるが、ED(勃起障害)のため成立しない。

 「痴漢」とは出会い系サイトで知り合い、「合意の」プレーを始めて一年になる。ヨーカドーの上の古ぼけた映画館で痴漢プレーにおよび、優子は「四回立て続けにいった」りする(27ページ)。

 福岡のいとこの林祥一は狂言自殺を図ろうとするが、優子から呼び寄せられ、本間の選挙のボランティアをしながら、しばらくアトリエに居候することになる。ヒモのくせに料理が不味い役立たず。二人は一度だけしようとするが、中途半端に終わる。優子は「おやすみ」といって祥一を追い出すが、「本当はどきどきしていた」。その後「彼がおそらく今アトリエで性欲の処理をしているのを見たいと思った」(40ページ)。

 安田昇は二歳年下の鬱病のヤクザ。蒲田のタイヤ公園やおでん屋で優子となごむが、「私は安田を一目見てこの人とは寝ないな、と思った。安田もそう思ったんじゃないだろうか。兄弟みたいにふざけることはあっても、いく前の情けない顔なんか見たくも見せたくもないのだ」(54ページ)と、ことに及ばない。

 バッハは金髪ロン毛の大学時代の友人で、当時優子に告白したが、優子は笑って済ませた。12年ぶりに再会し、本間の選挙を手伝っている。今でも優子のことが好きだといいつつ、風俗にハマっている。そのことを祥一から聞かされた後の優子の独白。

 風俗ねえ、今更そんな年でもあるまいし、と思ったが、三十五というのは男達がその衰えを意識して焦り始める年なのかもしれない。だが祥一みたいに一生女に不自由をしない男もいる。不公平だが真実だ。

 私は不意に息苦しさを覚えた。痴漢に会いたいと思った。好意や思いやりと同じくらい理解というのが大事なのだ。痴漢の理解は試験管で取り出したようにピュアなものだった。
(59ページ)

 優子の「息苦しさ」とはなんだろうか。性をもてあました男たちの”イタさ”に対峙し、我が事のように感応しているようだ。それは「好意や思いやり」をお互いに抱いてしまうがゆえであろう。優子はそれよりも即物的な痴漢の「理解」に助けを求める。

 では「理解」とはなんだろうか。

「ふつうは射精しないと気持ちいいことしてないって思うでしょ」
「なんでそんないくいかないにこだわるのかね」
 私は安心した。安心して楽器になった。痴漢は楽器を奏でた。愛がないのに心がこもっていた。不思議だった。
(89ページ)


「いけるさ。でもいったら虚脱状態になるだろ。時間があれば君のことだっていかせないけどな。いく寸前でずっとかわいがる」
「う・・・・・」

 お風呂で痴漢に頭の先から足の先まで洗ってもらった。泣きたいような気分になった。ずっと私はそうして欲しかったのだと判った。
(91ページ)

 優子と痴漢のコミュニケーションでは、「愛」と「心」が区別される。射精して虚脱状態になれば、その区別は曖昧になる。それは可能であれば避けるべきである。優子はその仮初めの一時にかけている。
 
 ところで小説は、大学時代の友人で二十六歳で事故死した野原理香の命日に、優子が多摩墓地に墓参りする場面で終わる。帰りの車で、キング・クリムゾンが「イッツ・オンリー・トーク、全てはムダ話だ」と歌っている。


King Crimson - Elephant Talk (1995)


『イッツ・オンリー・トーク』
著者:絲山秋子
発行所:文春文庫
発行年月:2006年5月10日
  


2017年02月17日

『解放老人 認知症の豊かな体験世界』野村進

『解放老人 認知症の豊かな体験世界』

 山形県にある佐藤病院の重度痴呆症病棟の長期取材である。半分ほど読み進めたところで、先を読む意欲が湧かないのはなぜだろう。

 絶叫したり、大暴れしたり、大便を手づかみで投げつけたりする女性につかまれ、著者はその力強さの源泉を知りたいと思う。それが見つかれば、「認知症患者」が「新たな姿で立ち上がるかもしれない」という希望を抱くことができるし、「私たちの”老い”への視線が一変することだってありえ」、誰にもいずれ訪れる我が事として捉えることの重要性を説く(9ページ)。

 認知症に対するネガティブな認識を新たにしようとするその姿勢に私は共感する。であるにもかかわらず、違和感は拭えない。

 一章ごとに一人の人物を取り上げ、重度認知症の方の奇異な振る舞いを描写、そしてその意味をさぐるという構成となっている。とても巧みな文章で読みやすい。老人たちに対する著者の態度も病院側が認めているように、真摯な態度に思える。

 しかしながら、同時に、親しみやすいそのノンフィクションの文体が、私には親しめない。

 あとがきにあるように、著者には認知症の母がいて、本書執筆中にお亡くなりになった、とある。一方で、本文中で重度認知症の尋常ならざる振る舞いを描写しつつ、これを見たら家族は驚き悲しむだろうと「同情」する。それなら、自分の肉親に対してはどうだったのか、という問いかけをしたくなる。

 一言でいうと、著者が認知症という「現実」に対して「突き放される」こと、それが書かれていない。必ずそれがあったはずである。それを書かずに、初めから彼ら/彼女らを描写する余裕を持っている。そのようにこのノンフィクションは読める。それが私の違和感の元なのではないか。そのように推察するしかない、私自身が不安定なのだが。

『解放老人 認知症の豊かな体験世界』
著者:野村進
発行所:講談社
発行年月:2015年3月10日


2017/01/26
『魅力あふれる認知症カフェの始め方・続け方』
 認知症カフェとは、認知症当事者や家族が気軽にお茶を飲みながら、不安や悩みを打ち明けることができる場所として、近年ひそかに注目を集めている。厚生労働省による「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)」(2015年)が自治体に開設を促したことで、以降増加傾向にある。本書をはじめ、ガイドブックも数種…

2017/01/05
『人はみな妄想する━━ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』松本卓也
 本書は、ドゥルーズとガタリやデリダといったポスト構造主義の思想家からすでに乗り越えられたとみなされる、哲学者で精神科医のラカンのテキストを読み直す試みとしてある。その核心点は「神経症と精神病の鑑別診断」である。ラカンは、フロイトの鑑別診断論を体系化しながら、神経症ではエディプスコンプレクスが…

2016/11/20
「老いにおける仮構 ドゥルーズと老いの哲学」
 ドゥルーズは認知症についてどう語っていたかという切り口は、認知症の母と共生する私にとって、あまりにも関心度の高過ぎる論考である。といってはみたものの、まず、私はドゥルーズを一冊たりとも読んだことがないことを白状しなければならない。次に、この論考は、引用されるドゥルーズの著作を読んでいないと認識が…

2015/01/02
『パーソナルソング』
元日、初雪舞う中、渋谷のイメージフォーラムに『パーソナルソング』を観にいく。介護施設でひとりぽつりと車椅子にうなだれる認知症当事者に思い入れのある歌(パーソナルソング)を聞かせると、見違えたように生気が戻った反応を示す。じゅうぶんありえることだと想像はつくが、それがあたかもアルツハイマー病を治…

2014/12/02
書評『治さなくてよい認知症』
 認知症の母を持つ私にとって、いや、高齢になればすべての人が認知症になる可能性を考えれば、社会にとって必須の本である。それは、認知症(本書では、高齢のアルツハイマー型認知症の軽度から中等度を指す)に対するこれまでの理解が、まったくひどいものであり、いまだにそうである現状が本書を読むと痛切であるから…

2014/08/05
書評『ブログ 認知症一期一会 認知症本人からの発信』
 初期のアルツハイマーと認定された母との同居をこの春から始めた私は、いったい本人はどんなことを考えているのだろう、どんな感情をもっているのだろうという疑問と興味を持たざるを得なかった。ほとんどの時間を家の中で過ごし、横になっているかテレビを見ているだけの状態は、世間一般の見方からすれば生活に後ろ…

2014/08/04
『毎日がアルツハイマー2』
2014年企画・製作・監督・撮影・編集:関口祐加プロデューサー:山上徹二郎ポレポレ東中野で『毎日がアルツハイマー2』を観た。認知症の母にカメラを向け、決して深刻にならず掛け合い漫才のような笑いに包まれた前作『毎日がアルツハイマー』(2012年)の続編。その笑いの感覚は今作でも健在である。と同…

  


2017年02月16日

『転々』

『転々』

 一見チャラい大学生の文哉(オダギリ ジョー)は借金取りの福原(三浦友和)からの借金をチャラにする妙な提案を受けざるを得ない。自分といっしょに東京を散歩すること。ゴールは霞が関という。

 東京を歩き回るロードムービー。吉祥寺のアパートから始まり、調布飛行場、阿佐ヶ谷、新宿、東向島。東京を歩くこととロケーションという欲望が限りなく重なることを証明=照明する。

 三浦友和には「どうしてお前なのか?」という疑問符が私には絶えない。「どうして山口百恵の結婚相手がお前なのか?」「どうして清志郎の高校時代の親しいバンド仲間がお前なのか?」と。そして、今回も「どうしてこの魅力的な役がお前なのか?」と、映画が始まり草々首をかしげる。そのような反応が、彼にとって反復強迫であるかのように。

 しかし、映画が進行するにつけ、そしてラストには、福原の自首を思いとどまらせようとする文哉の変化に感情移入するように、観る者は引きの構図で映し出される三浦友和の後ろ姿を愛おしく追いかけてしまう。それだけですごい映画だ。

 エキセントリックな役者であるオダギリ ジョーが受動的な主人公を演じる。その相手の配役は難しいだろう。役所広司でも阿部寛でも渡辺謙でもないのだろう。それにはある種の凡庸さが求められる。『真夜中のカウボーイ』『さらば冬のかもめ』といったアメリカン・ニュー・シネマのエモーションを現代の東京に移植するためにも、このコンビはうってつけではないか。

 二人の東京散歩とはほぼ絡まないサブストーリーの寸劇を演じる三人組の岩松了、ふせえり、松重豊がまた見事だ。本筋にスパイスを利かす効果をねらったこの手の演出はありがちだが、奇をてらう以上の効果はないことが多い。しかし、三人組が職場のオフィスからパート仕事の無断欠勤が続いている福原の妻を訪ねに外出するやいなや、ここでももうひとつのロードムービーが始まる。そして、ふせえりのおしゃべりが風刺するところの文化論が、主人公二人の東京散歩に注がれようとする、いかにもありがちな消費欲望の眼差し━━「行列ができる店はうまい」とか「下町の商店には人情がある」とか━━を遮断することに成功している。なんともにくい演出である。

『転々』
監督・脚本:三木聡
出演:オダギリ ジョー/三浦友和/小泉今日子/吉高由里子/岩松了/ふせえり/松重豊/広田レオナ/石原良純/岸部一徳
2007年作品

Gyao配信期間
2017年2月5日~2017年3月4日
  


2017年02月15日

『カケラ』

『カケラ』

 アップに耐えうる満島ひかりのうつろな顔がいい。ロケーションの肌理の細やかさがいい。しかし、後半30分の脚本が弱いような。ハルとリコの変化・成長の微妙さを描くのは容易ではないだろうが。

『カケラ』
監督:安藤モモ子
出演:満島ひかり/中村映里子
2009年作品

Gyao配信期間
2017年2月11日~2017年3月10日
  


2017年02月14日

『ナイト・アンド・ザ・シティ』アーウィン・ウィンクラー

『ナイト・アンド・ザ・シティ』

 デ・ニーロのニューーヨーク物で共演がジェシカ・ラングとなれば期待しないわけにはいかないが、45分経過で席を立ってしまう。

 マンハッタンの三流弁護士ハリー(ロバート・デ・ニーロ)が古き良き時代のボクシングを復活させ、プロモーター業で成功する夢を抱く、その動機に説得力がない。悪徳プロモーターとの対立構造があるが、その相手に勝つためというにしては動機が弱い。

 監督のアーウィン・ウィンクラーは言わずと知れたロッキー・シリーズのプロデューサー。マンハッタンの風景、市井の人々の描き方はいかにもな腕を見せてくれる。他に『ニューヨーク・ニューヨーク』、あの名作『レイジング・ブル』、あの駄作『グッドフェローズ』など、デ・ニーロ&スコセッシ作品をプロデュースしている。どうりでデ・ニーロがデ・ニーロを演じているようなデ・ニーロ臭が鼻につく。というか、見終わった後しばらく、デ・ニーロのモノマネをすることになる。こういうとき、独りだといたたまれない。

『ナイト・アンド・ザ・シティ』
監督:アーウィン・ウィンクラー
出演:ロバート・デ・ニーロ/ジェシカ・ラング
1992年作品

Gyao配信期間
2017年2月3日~2017年2月28日


2017/02/05
『ブロンクス物語/愛につつまれた街』
 1960年代のニューヨーク、ブロンクス。ドゥーワップの甘い音色が街角から漏れ聞こえ、ヤンキースのミッキーマントルが英雄として噂になる。イタリア系移民のバス運転手ロレンツォ(ロバート・デ・ニーロ)と母に育てられたカロジェロ(フランシス・キャプラ)は、マフィアのボス、ソニー(チャズ・パルミンテリ)に…

  


2017年02月13日

『大人ドロップ』飯塚健

『大人ドロップ』飯塚健

 青春映画の傑作との出会いは僥倖だ。その後の記憶に消し難く残る。その溜まりこそが人生だとさえいいたい。それにしても2013年のこの大傑作をまったく知らなかった。あまりにも迂闊すぎる自分を呪いそうになる。まだ観ていないあなたは軽薄だぞ。それにしても、そこにいた蒼い自分が失われてしまったことに、「元気ですか?」といえるだろうか?

 伊豆を舞台にした高校生の一夏の物語。大人になることへの不安。他人を好きになることのとまどい。一人だけ先に大人にならなければならないという後半の展開は、夏休みの和歌山への移動劇という切ない普遍劇を生む。これこそ映画だ。

 それにしても、、、である。エンドクレジットに挿入される、既に大人になった二人の再会シーンの時制はなんだろう。現在形ではない。未来形でもない。むろん過去形ではありえない。それは「現実」だ。

『大人ドロップ』
監督:飯塚健
出演:池松壮亮/橋本 愛/小林涼子/前野朋哉
監督:飯塚 健
2013年作品

Gyao配信期間
2017年2月12日~2017年3月11日


2017/01/15
『男子高校生の日常』松居大悟
 傑作『アズミ・ハルコは行方不明』の松居大悟監督作ということでさっそくチェック。 男子校という限定された場所と時間の特異性が永遠をはらみつつ普遍性へと開示するときめき。そのときめきに立ち会うことができるフィクション、などと表現すれば陳腐だろうが、それでいいのだ。 原作漫画→アニメ化→実写…

2016/12/08
『アズミ・ハルコは行方不明』
 アズミ・ハルコ(蒼井優)を中心とする日常と愛菜(高畑充希)、ユキオ(太賀)、学(葉山奨之)の日常。後者の時制ではすでにアズミ・ハルコは行方不明になっているが、アズミ・ハルコの日常とのカットバックが繰り返される。それは回想という手法ではない。ユキオと学のグラフィティ・アートのユニット”キルロイ”…

  


2017年02月12日

「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎

「強いられる他者の理解」熊谷晋一郎

 『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』では、編集部から依頼されたお題に対し、著者はそれが強いられているとアンチテーゼを掲げる。「他者の理解」こそ、共生社会にとって不可欠ではないのか。いったいどういうことか?

 急増する発達障害、ASD(自閉スペクトラム症)は、最近になって急に障害者とされるようになった。かれらには「他者の理解」が欠けているとされ、社会的な排除が進行しつつあることが示唆される。

 経済協力開発機構(OECD)が1997年にスタートさせたプログラムで掲げられる「キー・コンピテンシー」とは、「思慮深さ」(相手の立場に立ち、自らが所属する社会や文化を相対化して自主的な判断を行える能力)を、個人が備えるべき素質として、経済合理性の下で公認させようとしている。本来は社会的な問題に原因がある場合もあるにもかかわらず、自助と自己責任を強いようとする。それを自らの問題として引き受け過ぎてはならない、と著者は述べる。

 ヴィクトール・フランクルの実存分析は当事者研究にも影響を与えた。「どんな条件や状況のもとでもなんらかの仕方で心身的なものから一線を画し、心身的なもにに対して実りある距離に立つことができるという精神の能力を信じること」が重要であるとされる。これに倣えば、当事者研究においても、調子が悪いから医者に薬をもらうのではなく、苦悩を研究対象として自分の中に取り戻していくスタンス(外在化)が重視されることになる。

 しかし、「自己から距離をとること」を強調することで、社会化の論点が見逃されることを著者は危惧する。外在化できない原因を個人の能力や態度の問題にされかねない、と。

 「浦河べてるの家」のミーティングでこぼれる「横の笑い」には、幻覚妄想の渦中にいるときは笑えないが、その経験があるからこそ笑えるという二重性がある。個人個人が体験している「主観的な現実」としての幻覚妄想を、「幻聴さん」などと呼びラベリングすることで、「べてるの家全体にとっての現実」と区別される。《べてるにおいて外在化は、一人で成し遂げられるというよりも、自分と異なる主観的現実を生きる他者の支えによって、はじめて可能になるものだと言える》(12ページ)。つまり、べてるの家の実践においては、自己から距離を置くことが他者の連帯につながり、のみならず、他者との連帯が自己から距離を置くことを可能にする側面もあるといえる、と著者は評価する。

 べてるの家の「横の笑い」は、《専門家や患者といった単一の声(モノフォニー)をもつ人物が主体の座を占めることに反対し、多数的な声(ポリフォニー)が鳴り響く空間へと主体を変容させることを企図する》「水平方向のダイアローグ」(松本卓也)と似ているように私には思える。

2016/11/19
「水平方向の精神病理学に向けて」
 「水平方向の精神病理学」とは、精神病理学者ビンスワンガーの学説による。彼によれば、私たちが生きる空間には、垂直方向と水平方向の二種類の方向性があるという。前者は「父」や「神」あるいは「理想」などを追い求め、自らを高みへ導くよう目指し、後者は世界の各地を見て回り視野を広げるようなベクトルを描く。通…


「強いられる他者の理解」
『atプラス 31号 2017.2 【特集】他者の理解』
著者:熊谷晋一郎
発行所:太田出版
発行年月:2017年2月13日
  


2017年02月09日

『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』

『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』

 この20年とは、かつての文学批評の仕事をやめて哲学的なそれへ移る時期に重なる。しかし、その「変遷」が時系列でグラデーションのように読み取れる、というわけにはいかない。それが本書の魅力といえる。

 ところで私が柄谷行人を読み始めたのは、記憶に間違えがなければ、当時住んでいた田無の図書館で借りた『日本近代文学の起源』が最初。ということは、90年代前半のはず。文学ばかり読んでいた当時の私は、日本文学に関する普遍的な知見を得られると期待して手に取ったのだろう。しかし、難しくてよく分からず挫折して返してしまった。しかし、なんだか気になり、しばらくして再度借りて読むことに。そして衝撃を受けた。文学に対する価値判断を根こそぎ破壊されながら。つまり、私は柄谷の「移動」の渦中に、彼がすでに捨ててしまった仕事に出会うという「遅れてきた青年」だったわけだ。

 「変遷」が必ずしも時系列で読み取れないことが魅力ということの意味はこうだ。柄谷によれば、小説というジャンルに特別な意味があった時代は1980年代で終わり、中上健次の死(1992年)でそれを実感し、「近代文学の終わり」というタイトルの講演時(2003年)には、柄谷はすでに文学批評の仕事をほぼ手放していいた。見落としがちだが、その間に、NAMという運動の実践に「移動」し(そして私も含め失敗し)、あわせてその理論書『トランスクリティーク』を完成させている事実である。講演「近代文学の終わり」は、その前ではなく後なのだ。

 あるいは、「日本精神分析再考」(2008年)は、ラカンの精神分析からおなじみの日本近代文学の「言文一致」論に展開する文学批評といってよいし、中上健次論としての「秋幸または幸徳秋水」(2012年)や、柳田國男論としての「山人と山姥」(2014年)は言わずもがなである。《はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くした》(40ページ「近代文学の終わり」)と突き放すにもかかわらず、柄谷は文学批評的な態度を時に復活させる。

 それはなぜかというのが本書ではよくわかる。その都度その都度、外部から要請されて、それに応答しているからである。講演会主催者からのテーマ設定であったり、出版社からの定本企画であったり、という経緯で。

 このことを別の角度からみる。話題が幅広いこの講演集成では「抑圧されたものの回帰」という概念が頻出する。意識から抑圧されたものは必ず回帰する、そしてそれは脅迫的なかたちをとる、というフロイトの考えである。たとえば、それは「世界史の構造」を論じるなかで、「自由主義的」段階と「帝国主義的」段階が、たんにリニアなものではなく、循環的に反復するという考えとして(「近代文学の終わり」)。たとえば、ソクラテスに対し、アテネの民会に行かずに正義のために戦えと指令するダイモン(精霊)。指令を受けたソクラテスは、広場に行って人々と問答する。ソクラテスが広場に見出したのは、イソノミア(無支配)であり、しかし、ソクラテスは意識的にそうしたわけではないと、柄谷はいう。それが「抑圧されたものの回帰」なのだ(「「哲学の起源」とひまわり革命」)。たとえば、一度は定住した遊動民に、しかしながら抑圧され執拗に残る原遊動性として(「山人と山姥」)。

 つまりはこういうことである。文学批評は柄谷にとって、「抑圧されたものの回帰」である。彼は意識的にそうしたわけではないが、そうしている。

『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』
著者:柄谷行人
発行所:筑摩書房
発行年月:2017年1月10日


2017/02/04
『クラクラ日記』坂口三千代
 本書の言いつくせぬ魅力についてつらつらと思い巡らすのが愉しい。安吾の「無頼」ぶりが側近の妻によって私小説的に綴られ、日本文学史的価値がある?安吾に劣らずの三千代の「非常識」ぶりがノー天気な解放感を読む者に与える?そんなことよりも、はじめに確認しておこう。著者の「書く」ことの豊穣な力量について…

2016/08/22
『怪談前後 柳田民俗学と自然主義』
 柳田國男の『遠野物語』は自然主義文学だった。それは観察の眼を「私」に向ける田山花袋の自然主義とは異なるもう一つの可能性を秘めたものとして。いわば、日本の自然主義は田山と柳田とで二極に分化した、言い方を換えれば、柳田の民俗学とは根源的な私小説批判としてあったとする刺激的な論考である。 そも…

2016/08/21
『物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』その3
第三章 イデオロギー化する「物語」 9・11同時多発テロからイラク戦争までの過程は、ハリウッドの脚本的な論理性に支配されていた。それは「9・11がまるでハリウッド映画のようにみえた」という比喩的な意味でそういうのではなく、テロ後のアメリカの行動がハリウッド映画の主人公の行動原理そのものだったとい…













  


2017年02月07日

『コンタクト』

『コンタクト』

 宇宙人のように美しい?ジョディ・フォスターのはまり役。ジェイムズ・ウッズもバイプレイヤーとしていい味を出しているし、デイビッド・モースも存在感あり。作品の仕上がりも安定感あり。科学と宗教の論争にこれ以上深入りしないのはハリウッド映画の限界か、エンタテイメントの合理性として良しとするか。

『コンタクト』
監督:ロバート・ゼメキス
出演:ジョディ・フォスター/マシュー・マコノヒー/ジョン・ハート/ジェイムズ・ウッズ/デイビッド・モース

Gyao配信期間
2017年1月27日~2017年4月6日

  


2017年02月06日

『未来食堂ができるまで』小林せかい

『未来食堂ができるまで』

 未来食堂のコンセプトは、「あなたの『ふつう』をあつらえる」だという。通常のメニューに加えて、希望する材料を使ったり、気分や体調に合わせたおかずを「あつらえ」として提供する。その具体性の裏には、「誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所を目指す」という深い思想がある。

 さらに驚くべきは「まかない」制度である。スタッフに提供するまかない飯のことではない。50分手伝いをすれば、1食無料提供がある。金がなく、食に事欠く人のために設けられた。実際は、たんに食事代を浮かしたいから利用する人も中にはいるだろう。いちいちその動機を確認することはしないのだから。それでいいのだ、と代表はいう。そのユルさ、寛容さがあるからこそ、他の誰かに1食をプレゼントすることもできるという無償性も生まれる。

 ここまでくると、コミュニティや居場所を作ろうとしているのではと思いたくなるが、そうではないと著者はいう。あなたがどこかのグループの一員である必要はなく、「ただ来て、ただ座って、ご飯を食べていたらそれでいい」(208ページ)のだ、と。

 ところで、本書の冒頭で、未来食堂を思いつく原点を振り返り、著者はそれが「人と共にいる」こと、「それが食卓である」こと(15ページ)を実感した経験について、語っている。「人と共にいる」「食卓」であるのにコミュニティではない場とは、一見矛盾しているように思える。それはこういうことではないか。贈与に対しお返しが求められる互酬性の交換には「自由」がない。「誰もが受け入れられ誰もがふさわしい」=「平等」のみならず、「自由」という交換の場を創出したいのだ、と。だから、それは必ずしも「食堂」(飲食店)である必要はなく、いずれ別のかたちに発展していくことを、著者は早くも見据える。

 でも、そんな場所はまだない(準備段階から開業までをブログで綴った本書内容の段階では)。だから「未来食堂」なのだ。

 抽象論に走ってしまったが、本書は飲食店経営のリアルな手引書として、何よりも有効である。事業計画書、月次報告、まかないガイドなどの公開は必読である。徹底して効率的なオペレーションを追求してこそ実現可能な「あつらえ」や「まかない」であることは押さえておきたい。

『未来食堂ができるまで』
著者:小林せかい
発行所:小学館
発行年月:2016年9月14日