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2014年12月02日

書評『治さなくてよい認知症』

 認知症の母を持つ私にとって、いや、高齢になればすべての人が認知症になる可能性を考えれば、社会にとって必須の本である。それは、認知症(本書では、高齢のアルツハイマー型認知症の軽度から中等度を指す)に対するこれまでの理解が、まったくひどいものであり、いまだにそうである現状が本書を読むと痛切であるから、とりわけ私の浅い経験からも思い当たることが多々あり、衝撃的だからこそ必須なのである。

 まず、認知症は治らない。だから治そうと努めなくてよい。治そうとする周りの「善意」が、本人にとってどれだけ暴力的であるかを著者は強調する。家族にしてみれば治ってほしいのは気持ちとしてうなずけるが、実際は治らないのである。それをあたかも治るかのように診察する医師、報じるメディアの罪は大きいと著者は警鐘を鳴らす。なによりも重要なのは、周囲が「治らなくてもよいと早期に認識すること」なのだと。

 ではどうしたらよい?周囲は認知症の人に対し「慰め、助け、共にする」こと、これに尽きると著者はいう。本人にとっては、「家族ら介護者との交流、周囲の人たちと共にする日々の食事や『用事』、慕われ頼られる感じを持てる日常など、社会性と活動性と役割を持った生活ができているか」が大切である。すなわち、自己肯定感の回復である。

 認知症診療は「生活を診る」ことにほかならないと著者は喝破する。これは現実の診療に対するアンチテーゼである。実際の診療は、症状や認知機能にばかり注目しがちだという。抗認知症薬を処方し、改定長谷川式簡易知能評価尺度(HDS-R)でその程度を判定する。それしかしない。私が毎月母の診療に付き添って目にしてきた光景と重なる。そこで抜け落ちているのは「生活」であると著者は批判する。

 認知症に対する無理解で最たるものは、不機嫌、イライラ、抑うつ、暴言、妄想、暴力、徘徊といった症状が、認知症という脳気質性の疾患、脳の神経機能障害によって生じるものであるという誤解である。これら反応性の症状は、急激な環境変化に直面したとき、失われた能力への過度な期待がかけられたとき、拒絶や無視などにさらされたときに生じることが多い、つまり、精神的反応によるものであるという。これらの症状が生まれたとき、周囲はそれを認知症の症状だと思い込み、当人を非難したり、抑え込んだり、薬を処方したりする。そうではなく、そういった周囲の無理解な態度こそ、その原因なのである。だから「生活を診る」必要があるのだ!


書評『治さなくてよい認知症』
『治さなくてよい認知症』
著者:上田諭
発行:日本評論社
発行年月:2014年4月30日
 


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この記事へのコメント
こんにちは。読んでいます。

またしてもいつもの癖で自身のことだけを書くのですが、どうぞご容赦下さい。

 24wackyさんによるインタビューの内容を勝手に(ごめんなさい)
文字に起こした先生がお隣におられた、その頃の記憶が個人的には一番古いものです。
異様な記憶で、これは「視覚の記憶」です。
玄関でヘンな怖いオジサンが何かアビっています。小さな白いワンピースを着た女の子(私自身)がそれにビビって泣き喚いているのが玄関全体の右上から見えます。後になって、今で言うW不倫をしていた父の交際相手の御主人が、酔っぱらって家に怒鳴り込んで来た時のことなのだ、と知るのですが……思い出せないことは数多くあるのに、なぜ当時のことがこれだけ鮮明にあるのか、それもヘンです。
 
 あれだけの勝手を働いたのは、そういう環境の中で自身を守っていてくれていたのは、薄ぼんやりと、でも、確かにどこかで憶えている「優しいオジサン」を始めとした多くの人たちだったろう、ということが容易に推測しえて、その人たちがいなければ、文字起こし当時における生存の可能性が大きく違っていた、と考えたからでした。
(24wackyさんのおかげで、あれだけのお忙しい方が、あれだけの時間を経てなお、当時のことを憶えておられて「どんなお嬢さんになったのか」と …… それから察するに、その推測が間違っていなかった、というのが事実でしょう。
おかげさまで、自身に関わる本当のことを知ることが出来ました。感謝しています)

……このご説明を以て、お詫びに代えさせて下さい。

 突然話題が変わるのですが、以下は随分と前に書いた「イン・ザ・プール」という小説の感想文です。この本そのものが認知症をテーマにしてはいませんし、ご存知のように感想文は書けても書評を書くことなんて出来ないです(汗)
でも、患者さんの身体の一部だけに特化してそれを治そうとする「対処療法」ではなく、
その心身の全体を診なければ、と考える「ホリスティック医療」と呼ばれる医療があるのだ、
と初めて知った頃に書いたので。

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治さない、治療  2008/8/11


伊良部医師は、患者を治さない。
治らない患者をそのまま受け容れられる。
そして ―― 自らも治らない何かを充分に患っているように見えるけれど ――
そのままで生きている自分を見せる。
それだけ。

「受け容れられる」ことを求める人の想いは本当に切実で、
とても深刻な愛のあり方のはずなのに、どこか可笑しくて。

そして、患者自身が患者を受け容れる時、病はいつの間にか消失する。
病は病でなくなるのだ。
その人は、その人自身に戻るだけ。
「受け容れる」のは患者自身なのであって、医者ではない。

病を癒すものは何か ――
抱腹絶倒のエピソードの中に共通する、そのただ一点を見つめる時、
なぜこのお話がこんな笑い話でありながら、ここまで人の心を動かし、
癒される気がするのか、納得させられるように思う。

「自然体で生きていると、何もかも笑い話になってしまいます。」
そう言って講演会会場の笑いをさらった、
薬を使わない医療を続ける、尊敬する精神科のお医者様を彷彿とさせました。

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Posted by ブーウジぬイナグングヮ at 2015年02月15日 18:39
ブーウジぬイナグングヮさん

コメントありがとうございます。
母は自分の状態を完全に受け入れるまでには至っていないようです。徐々にということで。
Posted by 24wacky at 2015年02月20日 16:02
 
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