2018年11月05日
『メガネと放蕩娘』山内マリコ

シャッター通りと化した商店街を舞台に、地域の活性化とは何かをテーマにしているといえる。というか、そのままの作品である。なるほど、巻末には参考文献として、関連書籍が列記されている。かなりベタである。物語のどこかで、読者を戸惑わせる策謀があるかというこちらの期待は最後までかなわない。読む者に「おまえも分裂症であろう」と切りつける『アズミ・ハルコは行方不明』をすでに読んでいる私の、それが読後の第一印象である。では、この作品の魅力はどこにあるのだろうか。
とある地方の商店街に代々店を構えるウチダ書店の長女タカコは、三十代の独身で、一度も地元を離れたことなく、市役所の広報課に勤めている。生まれ育った商店街が気がつけばさびれつつある現状を寂しく思っている。そこへ数年前に家を飛び出し、東京へ姿をくらましたはずの妹ショーコが戻ってくる。再会もつかの間、大きなお腹を破水するという劇的な物語的展開を示唆しながら。かつて不良少女そしてギャルとなったショーコは直情行動型であり、何ごとにも地味なタカコとは対照的なキャラクターとして描かれる。閉塞感漂う地元を一度は離れたショーコだが、さびれた商店街を憂い、なんとかしたいという気持ちはタカコと共通する。やがて二人は、都市環境デザインを専門とする大学教授のまゆみ、実直なゼミ生の片桐、事なかれ主義の中心市街地活性課職員の星野、商店街にとっては「よそ者」であるセレクトショップ《リスキージョイ》店主の潮見などと協力しながら、商店街の活性化に取り組む。
単発イベントとしてのファッションショー、シェアハウス化計画などで一定の成功を収めていくが、閉店したウチダ書店をテナント化しての月極の店舗計画に対し、地元の不動産屋の金子からストップがかかる。勝手に賃料を下げられると、横並びにしている他の店主にも影響してくるし、地価を下げることにもなるのだと。そこで「シヤッターが下されれいる本当の理由」が見えてくる。かつて高度経済成長期に右肩上がりだった商店街の店主たちは、十分な教育費をあて子供たちを東京に送り出し、一財産を残している者も少なくない。店舗はもち物件のため家賃が発生しない。老いて二階に居住しながら、再開発の計画が実行されるのを待っている。その反面、地価に応じて家賃が高いため、空き物件に店子で入る起業者は経営に苦労する。そんな裏の事情があった。
つまりは、よそ者を拒む排他的な「感情」には交換様式A(贈与とお返し)が、商店街を統制する不動産屋には交換様式B(略取と再分配)が、そして再開発で消えていく商店街には商品交換C(貨幣と商品)が、それぞれ支配的に「力」を行使している結果なのだ、と(交換様式については以下を参照のこと。『世界共和国へ』を読むためのメモ その2)。
最終章の七章は、それまでのタカコの一人称から、ショーコの一人称へと代わる。再開発は計画通り行われ、商店街は消滅した。そこへ結婚を機に3年前街を離れたタカコが「帰還」する。妊娠したお腹を破水するという、かつてのショーコの身振りを反復しながら。街の風景は再開発で一変するが、ショーコはかつての仲間たちと寺の敷地を利用して、あきらめずにショップ経営を再開していた。再度一人称はタカコに移り、《またここで、何かやりたい》という気持ちが発せられる。そして再開発ビルの通りにある託児所を訪れる。そこは地元の子も新住民の子どもも歓迎され、それだけでなく、高齢者のデイサービスを兼ね、障害者も受けれているという。それを見たタカコは語る。
街っていうのは、あまりにとりとめなく、大きすぎて、わたしたちの力では、歯が立たない。
でも、商店街だろうが、住宅街だろうが、マンションだろうが、そこに子どもがいて、その子たちが楽しそうに遊んでるんなら、別になんだっていいやと、わたしは思った。
249〜250ページ
個人が抗するに、いや、他者と共に行うアソシエーションであったとしても、資本の力に対しては微力である。最後に描かれる寺の敷地内にしぶとく営業するショップと、再開発の通りに新設された「社会的弱者」のための居場所に、はたして希望はあるだろうか。これらがそこにあるからといって、資本はビクともしない。むしろ、資本にとって、資本が覆い尽くせない余剰の領域を交換様式Aによって生き延びさせてくれる、つまり、資本を補完することでしか、それらはない。そのような冷徹な認識をせざるをえない。とはいえ、このようなアセンブリを現実の生活レベルで夢想する私にとって、この物語は切実であり、かろうじて絶望的ではない。それがこの小説の力である。
『メガネと放蕩娘』
著者:山内マリコ
発行:文藝春秋
発行年月:2017年11月17日
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Posted by 24wacky at 21:52│Comments(0)
│今日は一日本を読んで暮らした