切断、再接続、逃走、闘争

24wacky

2018年01月03日 17:39



 朝日新聞の興味深い新年特集記事「逃走闘争2018」で、『逃走論』(1984年)の著者浅田彰は述べている。重厚長大型から軽薄短小型への変化がある一方で、古い価値観やイデオロギーに固執する人々も相変わらず多いという当時の社会状況に対し、資本主義を半ば肯定しつつ、パラノ(偏執)的な鋳型を捨てて、スキゾ的(分裂)に逃走しようと提唱した。しかし、その後のグローバル資本主義の力は恐ろしく、逃走の試みの多くはそれに飲み込まれた。《大事なのは、(哲学者の)ドゥルーズと(精神分析家の)ガタリのシャレで言えば「コネティカット(Connecticut)」=「Connect/I/Cut」です。つないで切断し、切断してつなぐ。ネットの村祭りの熱狂から一歩引いたクールなコミュニケーションが重要です。その意味で「逃走論」は今も有効だと思います。(中略)逃走は「闘争」です。68年全共闘世代が自己のアイデンティティーに基づく闘争を志向した一方、僕はアイデンティティーからの逃走を唱えました。ただ、ネット社会で様々な帰属先を持つことで複数の「私」があるといっても、複数の「私」の束という多重人格的なあり方では逃走さえできない。ときには接続を切り、ネット村から逃走する必要がある。そのとき「Connect」と「Cut」の間に「I(私)」が発生する。そういう逃走が、ソフトな抑圧と闘い、社会を変えてゆく闘争につながるのです。
(逃走/闘争 2018:1)遠のく、時代のシンボル 踊るのは私たち、多数決の仕掛け離れ 

 地方都市の閉塞感という「ムカつく現実から逃げる」声かけが、すでに姿を消している主人公から発せられる『アズミ・ハルコは行方不明』は、浅田の呼びかけに応答するような作品でである。
2017/01/24

2016/12/08

 松本卓也はドゥルーズに導かれながら、「深層」に降りるのでなく、「表面」の原語が可能にする〈他者〉との脱接続と再接続に賭ける「健康としての狂気」に着目する。
2018/01/02

ルイス・キャロルの場合は、言葉遊び(表面の言語)に共に興じるアリスが少女=〈他者〉であるという条件がそれを可能とした。現在において、ASD者に向き合う私(たち)は、いかなる表面の言語を獲得することが可能か。もはやそれは「心のケア」と呼ばないかもしれない。あるいは「寄り添う」立場ほど自明ではないだろう。いったん切断した後、アズミ・ハルコのように「逃げろ」と声かけすることは可能か、しかも再接続の可能性をイメージさせながら。

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