2018年01月14日
『戦争小説家 古山高麗雄伝』玉居子精宏
文芸批評家時代の若き柄谷行人は、『古山高麗雄集』(1972年・河出書房新社)の解説を次のように書き始めている。《古山氏は四十八歳まで何も書かなかった。何も書かなかったのは、やがて書こうという目的やあてがあってのことではない。また、氏が書きはじめたのは、どうしても書かねばらならいことがあったからではない》。古山高麗雄にとって「戦争体験」は「どうしても書かねばならないこと」ではない。その作品のノンシャランさを読むことで、自己の経験に特別な意味を与えずにはいられない自意識を切りすてる《自己放棄》のかたちこそ問題だということがわかる、と。
しかしながらというべきか、戦争の記憶と追憶が残り、同時代の小説家によりそれを題材にした作品が生み出され、それを共有できる読者層が少なくない時代が過ぎ去った後も、古山高麗雄は戦争について書くことはやめず、2002年に没するまでそれは続いた。
本書の「まえがき」によれば著者は、古山がなぜ戦争を書き続けたのかと問いつつ、その生涯を辿りながら戦争がどんなものかを知りたいというのが執筆動機であったと述べている。それでも著者はその答えを軽薄に書くことを控えている。古山の文体がそうであるように、評伝は淡々と記録され、まとめられている。その淡々さから、むしろ古山の「戦争体験」の「心の傷」を私は想像する。
自意識を切りすてる《自己放棄》と「心の傷」のあいだに、古山高麗雄の文学はかろうじて成立している。それがたとえ戦争小説以外の作品においても存在する。古山高麗雄の魅力はそこにあるのかもしれない。
『戦争小説家 古山高麗雄伝』
著者:玉居子精宏
発行:平凡社
発行年月:2015年8月5日
2018/01/08
柄谷行人はこれまで常に「え?どうしてこんなふうに読めるの?そんなこと書いてないだろう!」といった驚くべき読み=書きをわれわれに示してきた。漱石然り、マルクス然り、カント然り、フロイト然り、柳田國男然り。私は各々の原典にあたり、難儀して読み通し(たりできなかったり)、柄谷独自の読みとの違いを再…
2018/01/04
分厚い『柄谷行人書評集』のなかで最も面白かったのが本書の解説として書かれた一文であった。恥ずかしながら古山高麗雄という作家をそこで初めて知ったのだが、まだ知らぬ作家についての批評が面白く、その作家に俄然興味が湧き、しかもこの作家は自分の趣味に合っているに違いないという根拠の薄い確信が伴い、実…
2017/12/17
著者の散在したこれまでの書評を集めた本書は三部構成になっている。さしずめ晩期・早期・中期という区分をさせてもらうが、時系列が攪拌されている。そこがニクい。私はⅡ部に不意打ちを食らった。若き文学批評の言葉、レトリックの切れ味の鋭さに。あとがきにはこう書かれている。それら(ブログ主注・Ⅱ部・Ⅲ部…
Posted by 24wacky at 10:54│Comments(0)
│今日は一日本を読んで暮らした