2018年09月24日
『六月二十三日 アイエナー沖縄』大城貞俊
表題作『六月二十三日 アイエナー沖縄』は、沖縄戦終結の日とされる6月23日が章ごとに舞台設定され、以降10年ごとにそれぞれ個別の一人称の語りが綴られるというユニークな形式がとられている。各章の語り手は、それぞれ「戦後」沖縄のネガであり裸像といえる。沖縄島北部の護郷隊に選ばれ生まれ島の戦地を彷徨う青年(1章・1945年)、米兵に暴行殺害された戦後生まれの六歳の少女の死者の語り(2章・1955年)、基地収入で働かずして生活する二十歳の青年のニヒリズム(3章・1965年)、基地の街コザのAサインバーで働くホステスの粗野かつヴァイタルな語り(4章・1975年)、反基地運動を憎悪する若き機動隊員のサディステックな症例(5章・1985年)、少女暴行事件を反復するようにもう一人の「わたし」として傷を提示する女子中学生の語り(6章・1995年)、かつて強制集団死で命を絶った女性が老婆として語る沖縄戦の記憶の継承(7章・2005年)、戦後70年が経過しても変わらぬ現状を変革すべくテロを妄想する四十三歳の新聞記者の男が語るディストピア(8章・2015年)。
これらの題材それ自体は、それぞれ戦後沖縄を語る/語られる「風俗」として、すでに手垢にまみれている。その意味で(も)沖縄を伝える分かりやすく普遍的な「沖縄本」として本棚に置かれることがあってもおかしくない。実際、本書は読みやすい。
そこでこの本が小説(虚構)であることの意味を考えてみる。各章で発せられる感嘆符「アイエナー」は容易に日本語訳できないことはもちろんだが、「戦後」沖縄を生きることの切なさとして、第一に、その切なさを共有できるであろう「他者」に向かって発せられる哀歌(ブルーズ)としてある。その反復こそ、虚構であればこそ可能であり、「風俗」に接しながら遠ざかるヴェクトルとして清々しい。
であれば、6月23日を反復することの意味はなにか?それは、反復することによって反復することを拒否する、あるいは近い将来必ず消去するという過激な試みといえないだろうか。それは「戦後」沖縄からカッコをはずす為にこれまで市井の人々によって営まれてきた数々の実践と共にあることで初めて意味をなす。たとえ6月23日の反復が解消されたとしても、「アイエナー」という感嘆符は残るのだから心配はいらない。
『六月二十三日 アイエナー沖縄』
著者:大城貞俊
企画編集:なんよう文庫(川満昭広)
発行:インパクト出版会
発行年月:2018年8月6日
Posted by 24wacky at 09:51│Comments(0)
│今日は一日本を読んで暮らした