2019年01月22日
『洲崎パラダイス』芝木好子

映画を観たあと原作を読むということはそれほどしない方だが、この映画についてはなんでも知りたい。たとえば、川島雄三がなぜこの原作を選んだのか、そして原作をどう翻案したのか。
なぜこの原作を選んだのか。原作は芝木好子の短編である。敗戦から復興途上にある東京という風俗を背景に、生活に疲れ行く当てもない蔦枝と義治がたどり着いた洲崎パラダイス入り口。その堀割の飲み屋を主な舞台に、男女の腐れ縁の顛末が描かれる。つかず離れずの二人の駆け引き、心理のあやが原作の基調となっている。女性作家は三人称という手法で、主に蔦枝の心理の移ろいを丁寧に描写する。仕事を失い、甲斐性がなく、うじうじとした義治に対する蔦枝のアンビバレントな感情の発露を、飲み屋の女将を受け手として描出することに成功している。
蔦枝は羽振りの良い客の落合と懇ろになり、それを知った義治は狂気の態で雨の夜、蔦枝を探し歩く。痴情の縺れを想像する女将は不安に駆られる。その後義治は姿をくらまし、今度は蔦枝が気を揉む。やがて入り浸る宿屋から金の工面を申し出る義治からのあきれた便りを聞き蔦枝は激怒するが(この設定は映画では省かれている)、期待していたはずの落合が用意したアパートでの新生活よりも、先の見えない義治を選ぶ。蔦枝の感情の起伏の激しさ、変調を見せつけられ、女将は驚き、戸惑う。つまり、作家は激しく揺れる蔦枝と受動的な女将という女性の一対に焦点を定めることで、主に「女心」の不可思議を描く。
映画でも轟夕起子扮する女将の受動性が重要な役割を与えられていることは、原作と変わらない。さらに映画では、堀割に位置する飲み屋の舞台美術が秀逸であり、場所そのものが主人公である。カウンターのみの店内、女将と子ども二人の生活空間でもある奥座敷、そして梯子を上った先には、蔦枝と義治が最初に泊り込む狭い部屋がある。窓から差し込む川の淀みの反射が、不安定な二人の行く末を暗示する。暗にかろうじて明が差し込む。
しかしながら、川島雄三は、蔦枝にも義治にも、そして女将のお徳にも焦点を偏らせない。淡々と、しかし歯切れよく、つまり見事な編集技術によってドラマを展開させていく。
原作にない映画独自の脚色の一つに、落合と蔦枝を探し求め、義治が神田界隈を彷徨うシーンがある。空腹で、喉もカラカラになり、野良犬のように彷徨う義治の鬼気迫る肉体表現は絶望的であるが、生の肯定の予兆でもある。
それは、ラストでオープニングシーンと同じ場所、勝鬨橋に戻るシーンにつながる。オープニングでは、蔦枝が先をゆくようにバスに乗り込んだが、ラストでは義治がリードしてバスに乗る。このラストの勝鬨橋のシーンは、原作にはない。原作では蔦枝が義治の元に駆ける場面で終わるのに対し、映画では義治が先に動く。この違いが意味することは明らかである。川嶋は、芝木好子の原作が現す蔦枝の変調に注目し、それを描いているけれども、それを「女心」の不可思議としてではなく、義治の生の可能性に釣り合う力動としてとらえている。
川島雄三は、芝木好子の原作に対して、勝鬨橋と洲崎パラダイスとの往復運動、すなわち「行って帰る」物語の文法を導入した。スタート地点の勝鬨橋から洲崎パラダイスへ「行って」勝鬨橋へ「帰る」には、義治の変身が必要であり、義治が変身するためには、予兆としての彷徨いが前振りとして挿入される必要があった。それは芝木好子が女目線で短編を書いたのに対し、川嶋が男目線の物語に改変したというようなもっともらしい話ではない。あくまで物語の文法がそれを要請したのであり、川嶋はそれを映画的であると確信したのだ。
『洲崎パラダイス』
著者:芝木好子
発行:集英社文庫
発行年月:1994年9月25日
2019/01/14
自分のフェティッシュな映画愛の最も近しいところにある作品。その再会を、新年早々寒い道を歩いて求めた。 初めて観たときの印象としてひたすら脳裏から離れない冒頭の勝鬨橋のシーン。はすっぱながら粗末な着物姿からも色気を漂わせる蔦枝(新珠三千代)と失業中で暗い表情の義治(三橋達也)。生活に疲れ行く当…
Posted by 24wacky at 20:23│Comments(0)
│今日は一日本を読んで暮らした