2006年10月29日
「不偏不党」の起源
本音を隠す言葉の暴力―「抑止力の維持と負担軽減」のウソ16段目でこう書いた。
少なくとも読者は「集落の上空を避けられる」ことが既成事実であるかのように受け取る。ここには新聞記者がそう意識しているか否かに関わらず、「不偏不党」という中立性=透明性に忠実であることで権力側の言説を代表する=代弁する力に吸い寄せられるカラクリが見て取れる。
ここには「市民記者」なる立場で記事を書き編集部とのやり取りを重ねる中で、「不偏不党」という言葉を疑うようになった経験が背景にある。
そこで「不偏不党」の起源を探ることにした。図書館に行き、関連図書数冊を借りた。
最初に手にした書の序に書かれている内容は、早くも正に求めているものだった。以下にメモ書きを記し、思考を鍛える端緒にしたい。
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『新聞記者の誕生』山本武利著 新曜社 1990
序 コミュニケーション史における記者
一 封建社会と「世間師」
中世ヨーロッパにおいて、閉鎖的な共同体郡をつなぐものとして、行商人、職人、旅芸人、教会人などの漂泊者がいた。彼らは外の世界の情報を共同体に伝える役割を果たしていた。
日本でも富山の薬売り、高野聖などの行脚僧、旅芸人などが、共同体と共同体の間を徘徊し、人間的なメディアとして情報を伝えた。柳田國男が「世間師」「遊行者」とよぶ人びとがそうだ。他郷の情報に強い好奇心をいだく田舎の人びとは、その話に熱心に耳をそばだてた。
二 都市の成立と「世間師」
出版、新聞など新しいメディアの都市での誕生は、「世間師」の都市への定着なくしてはありえなかった。また「世間師」こそは記者のルーツそのものである。そしてかれらはもっとも都市的な職業であった。その職業に従事する人たちは、情報に敏感な都市の人びとを満足させるために、村落共同体の人びとに対する以上の情報への感性とサービスが必要とされた。そして、都市での情報メディアの形成は、「世間師」から情報提供サービスの機能を奪い、かれらの共同体での存在意義を減少させるものであった。(p.20)
三 「往来交通」と記者の対立意識
西南戦争後の民権論が本格的な高まりをみせはじめた明治12年(1879)11月21日の『朝野新聞』に、「往来交通」というタイトルの社説が無署名で掲載された。コミュニケーションに「往来交通」の訳語をあてている。
・・・民権派の新聞の理念型には、コミュニケーションは送り手から受け手への一方的な流れではなく、送り手と受け手相互の情報の交換、役割の互換を前提としている。新聞は読者とともにつくるものであり、そこには読者の参加が前提とされていた。その参加というのも、新聞への投書や通信に大きなスペースを割いたり、投書家を記者に登用するだけではない。記者が組織した政党、政治団体、演説会への積極的な参加を当然視していた。読者と記者は相互の活発なコミュニケーションを通じて、新聞という運命共同体を築き、その新聞を通じて社会や政治の改革や革命を目指す仲間いや同士なのであった。(p.22)
権力者は水平的、横断的な「往来交通」が活発になり、反政府的な世論が形成されることを恐れた。なによりそれが民権派によって駆使されるのを恐れた。そして記者、投書家、演説家を容赦なく弾圧していった。特に投書家への弾圧が厳しかったのは、彼らが記者の予備軍だったからだけではなく、地方農村の政治的オピニオン・リーダーだったからだ。
これら民権派新聞だけでなく官権派新聞も明確な対立意識を持ち、読者もそれを支持し声援を送った。このように記者、読者、投書家が三位一体的に同一化したニューメディアが民権期の特色といってよい。
四 「不偏不党」と政論記者
ところが自由民権運動のピーク時に、その運動の機関紙としての政論新聞の内部に有力紙の政党離れ、機関紙離れが顕在化してしまった。明治16年(1883)6月の『朝野新聞』の「不偏不倚」宣言がそれである。これは明治20年代から民権派系各紙に波及する「不偏不党」宣言の先がけであった。~
民権派の政党幹部=有力記者が内ゲバにうつつを抜かして、自らの行為が権力者に漁夫の利を与えていることに気づかないときに、権力側が政論記者の代表格の成島柳北と末広重恭の政見上での仲間割れから生ずる『朝野新聞』の脱機関紙の到来必至をすでに6ヶ月前に察知し、待望していることがわかる。この『朝野新聞』の転換とそれへの権力側の歓迎振りは、「不偏不党」の本質を解明する手がかりを提供してくれるものなのだ。(p.27)
政府系新聞の『東京日日新聞』は早くも明治9年(1876)「不党不偏」という言葉を使って政府御用、民権派否定の立場を鮮明にしていた。そして御用、民権派の対立がピークの明治15年に創刊された大阪の政府御用紙『大東日報』は、「本社ハ常ニ官民ノ間ニ介立シテ不偏不党正理ヲ守リ是非曲直ヲ痛論批評ヲ為スト雖ドモ、宣ク臣民ノ本分ヲ守リ法律ヲ遵奉スベシ」と社是を述べている。この動きは後の憲法発布時に超然主義を唱え、政党責任内閣を否定する藩閥政府の論理を準備するものに他ならず、実際に憲法が発布されると、政府と連動した御用紙の相つぐ「不偏不党」宣言がおこなわれた。
「不偏不党」は一見、ニュートラルに見えるが、しかしきわめて強い権力傾斜の対立意識を表明していた。それはスチュアート・ホールがいう支配的なイデオロギー的言説を再生産させるメディアの論理にほかならない。つまり権力側の非権力側への対立意識をすぐれて表現するのが「不偏不党」ではなかったろうか。(p.31)
結果的に「往来交通」論者の民権派的なコミュニケーション革命は実現せず、「不偏不党」という権力側のコミュニケーション革命が実現してしまった。
五 「小新聞」の発展と新聞経営者
政府からの弾圧によって減少した政論新聞に変わって読者を吸収したのが「小(こ)新聞」であった。「小新聞」は政論中心の「大(おお)新聞」に対して紙面が小さく、ふり仮名、挿絵つきの艶種、警察種などの社会記事を載せ、政論は欠落していた。「大新聞」は知識人、士族などが読者層で、「小新聞」は商人、職人などに愛読された。
明治21年(1888)創刊の『東京朝日新聞』は「小新聞」になかった論説的活動を取り入れた。つまり営利主義と「不偏不党」、「小新聞」と「大新聞」とを合体させることで新聞界のリーダーとして台頭した。
山県有明は民営の新聞を援助して、政府側に立つ対立意識のメディアとして強化する政策を持っていた。それを実行するためには、公然たる政府系新聞よりも、一見無色の『朝日新聞』のような新聞のほうが望ましいことも指摘している。
経営者ももはや「往来交通」を望まない読者をたんなる消費者と看做し、「不偏不党」=政府支援活動の機能を知って知らずか、「不偏不党」=営利主義活動に力を入れるようになる。
六 上意下達と報道記者
記者は2つの点で中央志向、頂点志向となった。社内的にはピラミッド構造のなかで上からの指示を仰ぎ組織の歯車となる。社外的には中央の役所や企業からのニュースソースに配置された記者クラブに安住し、そこで配布された情報を全国へ伝える。
「不偏不党」化した新聞は、権力側の中央の情報を底辺記者に伝達する上意下達のメディアとなった。
(概略ここまで)
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経営者ももはや「往来交通」を望まない読者をたんなる消費者と看做し、「不偏不党」=政府支援活動の機能を知って知らずか、「不偏不党」=営利主義活動に力を入れるようになる。
ここにおいて「不偏不党」=権力装置の起源は忘却され隠蔽される。同時にそれは営利主義活動=資本制経済によって強化される。
少なくとも読者は「集落の上空を避けられる」ことが既成事実であるかのように受け取る。ここには新聞記者がそう意識しているか否かに関わらず、「不偏不党」という中立性=透明性に忠実であることで権力側の言説を代表する=代弁する力に吸い寄せられるカラクリが見て取れる。
ここには「市民記者」なる立場で記事を書き編集部とのやり取りを重ねる中で、「不偏不党」という言葉を疑うようになった経験が背景にある。
そこで「不偏不党」の起源を探ることにした。図書館に行き、関連図書数冊を借りた。
最初に手にした書の序に書かれている内容は、早くも正に求めているものだった。以下にメモ書きを記し、思考を鍛える端緒にしたい。
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『新聞記者の誕生』山本武利著 新曜社 1990
序 コミュニケーション史における記者
一 封建社会と「世間師」
中世ヨーロッパにおいて、閉鎖的な共同体郡をつなぐものとして、行商人、職人、旅芸人、教会人などの漂泊者がいた。彼らは外の世界の情報を共同体に伝える役割を果たしていた。
日本でも富山の薬売り、高野聖などの行脚僧、旅芸人などが、共同体と共同体の間を徘徊し、人間的なメディアとして情報を伝えた。柳田國男が「世間師」「遊行者」とよぶ人びとがそうだ。他郷の情報に強い好奇心をいだく田舎の人びとは、その話に熱心に耳をそばだてた。
二 都市の成立と「世間師」
出版、新聞など新しいメディアの都市での誕生は、「世間師」の都市への定着なくしてはありえなかった。また「世間師」こそは記者のルーツそのものである。そしてかれらはもっとも都市的な職業であった。その職業に従事する人たちは、情報に敏感な都市の人びとを満足させるために、村落共同体の人びとに対する以上の情報への感性とサービスが必要とされた。そして、都市での情報メディアの形成は、「世間師」から情報提供サービスの機能を奪い、かれらの共同体での存在意義を減少させるものであった。(p.20)
三 「往来交通」と記者の対立意識
西南戦争後の民権論が本格的な高まりをみせはじめた明治12年(1879)11月21日の『朝野新聞』に、「往来交通」というタイトルの社説が無署名で掲載された。コミュニケーションに「往来交通」の訳語をあてている。
・・・民権派の新聞の理念型には、コミュニケーションは送り手から受け手への一方的な流れではなく、送り手と受け手相互の情報の交換、役割の互換を前提としている。新聞は読者とともにつくるものであり、そこには読者の参加が前提とされていた。その参加というのも、新聞への投書や通信に大きなスペースを割いたり、投書家を記者に登用するだけではない。記者が組織した政党、政治団体、演説会への積極的な参加を当然視していた。読者と記者は相互の活発なコミュニケーションを通じて、新聞という運命共同体を築き、その新聞を通じて社会や政治の改革や革命を目指す仲間いや同士なのであった。(p.22)
権力者は水平的、横断的な「往来交通」が活発になり、反政府的な世論が形成されることを恐れた。なによりそれが民権派によって駆使されるのを恐れた。そして記者、投書家、演説家を容赦なく弾圧していった。特に投書家への弾圧が厳しかったのは、彼らが記者の予備軍だったからだけではなく、地方農村の政治的オピニオン・リーダーだったからだ。
これら民権派新聞だけでなく官権派新聞も明確な対立意識を持ち、読者もそれを支持し声援を送った。このように記者、読者、投書家が三位一体的に同一化したニューメディアが民権期の特色といってよい。
四 「不偏不党」と政論記者
ところが自由民権運動のピーク時に、その運動の機関紙としての政論新聞の内部に有力紙の政党離れ、機関紙離れが顕在化してしまった。明治16年(1883)6月の『朝野新聞』の「不偏不倚」宣言がそれである。これは明治20年代から民権派系各紙に波及する「不偏不党」宣言の先がけであった。~
民権派の政党幹部=有力記者が内ゲバにうつつを抜かして、自らの行為が権力者に漁夫の利を与えていることに気づかないときに、権力側が政論記者の代表格の成島柳北と末広重恭の政見上での仲間割れから生ずる『朝野新聞』の脱機関紙の到来必至をすでに6ヶ月前に察知し、待望していることがわかる。この『朝野新聞』の転換とそれへの権力側の歓迎振りは、「不偏不党」の本質を解明する手がかりを提供してくれるものなのだ。(p.27)
政府系新聞の『東京日日新聞』は早くも明治9年(1876)「不党不偏」という言葉を使って政府御用、民権派否定の立場を鮮明にしていた。そして御用、民権派の対立がピークの明治15年に創刊された大阪の政府御用紙『大東日報』は、「本社ハ常ニ官民ノ間ニ介立シテ不偏不党正理ヲ守リ是非曲直ヲ痛論批評ヲ為スト雖ドモ、宣ク臣民ノ本分ヲ守リ法律ヲ遵奉スベシ」と社是を述べている。この動きは後の憲法発布時に超然主義を唱え、政党責任内閣を否定する藩閥政府の論理を準備するものに他ならず、実際に憲法が発布されると、政府と連動した御用紙の相つぐ「不偏不党」宣言がおこなわれた。
「不偏不党」は一見、ニュートラルに見えるが、しかしきわめて強い権力傾斜の対立意識を表明していた。それはスチュアート・ホールがいう支配的なイデオロギー的言説を再生産させるメディアの論理にほかならない。つまり権力側の非権力側への対立意識をすぐれて表現するのが「不偏不党」ではなかったろうか。(p.31)
結果的に「往来交通」論者の民権派的なコミュニケーション革命は実現せず、「不偏不党」という権力側のコミュニケーション革命が実現してしまった。
五 「小新聞」の発展と新聞経営者
政府からの弾圧によって減少した政論新聞に変わって読者を吸収したのが「小(こ)新聞」であった。「小新聞」は政論中心の「大(おお)新聞」に対して紙面が小さく、ふり仮名、挿絵つきの艶種、警察種などの社会記事を載せ、政論は欠落していた。「大新聞」は知識人、士族などが読者層で、「小新聞」は商人、職人などに愛読された。
明治21年(1888)創刊の『東京朝日新聞』は「小新聞」になかった論説的活動を取り入れた。つまり営利主義と「不偏不党」、「小新聞」と「大新聞」とを合体させることで新聞界のリーダーとして台頭した。
山県有明は民営の新聞を援助して、政府側に立つ対立意識のメディアとして強化する政策を持っていた。それを実行するためには、公然たる政府系新聞よりも、一見無色の『朝日新聞』のような新聞のほうが望ましいことも指摘している。
経営者ももはや「往来交通」を望まない読者をたんなる消費者と看做し、「不偏不党」=政府支援活動の機能を知って知らずか、「不偏不党」=営利主義活動に力を入れるようになる。
六 上意下達と報道記者
記者は2つの点で中央志向、頂点志向となった。社内的にはピラミッド構造のなかで上からの指示を仰ぎ組織の歯車となる。社外的には中央の役所や企業からのニュースソースに配置された記者クラブに安住し、そこで配布された情報を全国へ伝える。
「不偏不党」化した新聞は、権力側の中央の情報を底辺記者に伝達する上意下達のメディアとなった。
(概略ここまで)
:::::::::::::::::::::::::
経営者ももはや「往来交通」を望まない読者をたんなる消費者と看做し、「不偏不党」=政府支援活動の機能を知って知らずか、「不偏不党」=営利主義活動に力を入れるようになる。
ここにおいて「不偏不党」=権力装置の起源は忘却され隠蔽される。同時にそれは営利主義活動=資本制経済によって強化される。
Posted by 24wacky at 22:23│Comments(2)
│今日は一日本を読んで暮らした
この記事へのコメント
こんにちは。
と、言うかお久しぶりです。
お元気そうでなによりです。
なるほどおもしろいですね。
勉強になりました。
と、言うかお久しぶりです。
お元気そうでなによりです。
なるほどおもしろいですね。
勉強になりました。
Posted by arime at 2006年10月30日 17:50
うわ~、arimeさん、お久しぶりです!
HP,ブログを拝見しました。
そちらこそますますお盛んそうで(何が?)なによりです。
これを機会にまたよろしくお願いします。
HP,ブログを拝見しました。
そちらこそますますお盛んそうで(何が?)なによりです。
これを機会にまたよろしくお願いします。
Posted by 24wacky at 2006年10月30日 20:43
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