2009年05月08日
まだ涙が出ない 君はそのうち死ぬだろう
このライブの模様はアルバム『the TEARS OF a CLOWN』(1986)として発売された。この曲も元はかなり古い。ノイローゼぎみの友人を励ます?意味で作ったが、実際彼はその後自殺してしまったという。もちろんこんな曲をレコード化できるわけがなく(オーディエンスも固まっている)、長らくお蔵入り同然になっていた。
当時アイドル歌手の投身自殺に端を発し、若者の自殺が深刻な社会現象となった。キヨシローが自殺に対し否定的だったのは、複雑な家庭環境等自身にも抱えてきた「闇」があり、そうであるがゆえに現実に立ち向かう勇気を持つべきだと確信していたからではないのか、などとこの時は勝手に想像したりしたが、彼の最期をみればあながち間違っていなかったかもしれない。
当時アイドル歌手の投身自殺に端を発し、若者の自殺が深刻な社会現象となった。キヨシローが自殺に対し否定的だったのは、複雑な家庭環境等自身にも抱えてきた「闇」があり、そうであるがゆえに現実に立ち向かう勇気を持つべきだと確信していたからではないのか、などとこの時は勝手に想像したりしたが、彼の最期をみればあながち間違っていなかったかもしれない。
今回この映像を観て、キヨシローのパフォーマンスに対する「気がかり」として長年ひっかかってきたことを、少し言語化できる気がする。それは彼がステージ上で見せる醒めた表情である。ロック・アーティストというのは、大音量でオーディエンスとの共同幻想を仮構する。特にボーカリストはシャウトし、ダンスし、アジテーションを仕掛け、その波動を増長させる。彼あるいは彼女はそこで、ナルシスティックな没我の域に意識的にであれ無意識的にであれ入らんとする。また、オーディエンスはその姿に自己投影する。
キヨシローはどうかというと、同様にシャウトし、ダンスし、、アジテーションを仕掛ける。そのエネルギッシュなパフォーマンスに人々は酔い痴れる。しかし、その間彼の視線は、俯瞰から冷静に客席のやや斜め上のあたりに落とされている。シャウトした後も、ふと同じ表情をする。そこにはロックン・ローラーの陶酔がない。オイラにはこれが「気がかり」だった。
オイラにとって、この「気がかり」こそ、実は彼の魅力であることに気づいた。ここで漱石が使った「淋しい(さむしい)」という言葉を使いたい。実はキヨシローは、ステージの上でひたすら「淋しい(さむしい)」を表現し続けてきたのではないか。「淋しい(さむしい)」を言葉を変えれば、キヨシローがこだわって言い続けた「ブルーズ」となる。彼の魅力は「反骨精神」かラブソングかの二項対立で語るより、「淋しい(さむしい)」とする方がふさわしい。
Posted by 24wacky at 21:53│Comments(0)
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