2009年05月11日
涙ぽろぽろ落ちるだろう
忌野清志郎が死んだという報せに、多くの彼のファン同様、しこたま打ちのめされた。そのことにどう対処すれば良いのか、なにをいうべきか、自分にはさっぱり分からなくなってしまった。かれこれ30年あまり聴き続けて来たのだから、自分の人生に影響を与えられてきたのだから、ショックを受けることは当然過ぎる。
だがしかし、彼と直接知り合ったわけではない。肉親でも友人でも恋人でもない。音楽を通して、間接的に彼を知っていただけだ。所詮その程度の相手の死に対し、自分は間違えなく激しくうろたえている。この事実にまず驚いた。
こういうときは、ただ静かにした方がよい、とひとまず思った。そうするつもりでいた。だが、そうしている間にも、明らかに自分のダメージをコントロールできなくなっている。ヤバイ。
とりあえずブログに書いていこう。結論じみたことは書けないし、書く気もしない。自然とYouTubeの映像に対するリアクションの断片を書いていた。同時に、映像の投稿は増え続けた。初めて観る清志郎の姿が惜しげもなく現れる。私はそのラビリンスに確信的に入っていった。外部との交渉はほとんどシャットアウトして。
次々と再生される清志郎を終わりもなく見続けても、飽きるどころかその都度食い入るように見入る自分がいた。一週間見続けていても、まだ次が見たい思いに駆られる。これは自分が熱烈なファンであることの証しというよりは、忌野清志郎という表現者が他に類を見ないほど、何かを伝えようとする力を強くもっているということに違いない。
意外といえば、世間一般の反響の大きさも予想していなかった。メディアの扱う量にしても、一般の受け止め方にしても。ロック・スターとしても芸能人としても、彼がそれほどメジャーな評価を受けているとは思えない(もちろん、それは彼本来の魅力と関係ないが)。皮肉を込めていえば、彼の死のニュースを機に多くの人が清志郎の魅力に気づいたというよりは、清志郎は死んでも尚、じゅうぶん理解されえなかった。
「反骨精神」という紋切り型の形容詞が踊ったことに対し、私は批判したが、一週間経過してもまだ訳知り顔で使っているタレントが後を絶たないこと。
告別式を伝えるテレビ番組では、テレビマンによって選抜された清志郎の「友人」たちが涙ながらに別れを告げる映像がリピートされていたこと。
これらを覗き見るにつけ、この一週間の作業をやっておいて良かったと思った。少なくともここには私の彼に対するリアリティがある。忌野清志郎を世界中に自慢する時に、「そんなものウソさ そんなものデタラメだ」こちらを見てくれということができる。それにしても「なぜ悲しい嘘ばかり テレビは言い続ける」。もちろんそう問いかけた彼は、その答えを知っている。
これでこの一連の作業の手を休める。明日からのねじを巻くことにする。「大人だろ 勇気を出せよ」という声が聴こえるので。
最後にひとつだけ。テレビに映し出された人たちも悲しんだことだろう。だが当然のことながら、そこに「彼」の姿はなかった。恐らく最も悲しみに打ちひしがれ、うろたえ、言葉を失っているであろう彼の姿は。私はこのナイーブ過ぎる男が心配でならない。
こういうときは、ただ静かにした方がよい、とひとまず思った。そうするつもりでいた。だが、そうしている間にも、明らかに自分のダメージをコントロールできなくなっている。ヤバイ。
とりあえずブログに書いていこう。結論じみたことは書けないし、書く気もしない。自然とYouTubeの映像に対するリアクションの断片を書いていた。同時に、映像の投稿は増え続けた。初めて観る清志郎の姿が惜しげもなく現れる。私はそのラビリンスに確信的に入っていった。外部との交渉はほとんどシャットアウトして。
次々と再生される清志郎を終わりもなく見続けても、飽きるどころかその都度食い入るように見入る自分がいた。一週間見続けていても、まだ次が見たい思いに駆られる。これは自分が熱烈なファンであることの証しというよりは、忌野清志郎という表現者が他に類を見ないほど、何かを伝えようとする力を強くもっているということに違いない。
意外といえば、世間一般の反響の大きさも予想していなかった。メディアの扱う量にしても、一般の受け止め方にしても。ロック・スターとしても芸能人としても、彼がそれほどメジャーな評価を受けているとは思えない(もちろん、それは彼本来の魅力と関係ないが)。皮肉を込めていえば、彼の死のニュースを機に多くの人が清志郎の魅力に気づいたというよりは、清志郎は死んでも尚、じゅうぶん理解されえなかった。
「反骨精神」という紋切り型の形容詞が踊ったことに対し、私は批判したが、一週間経過してもまだ訳知り顔で使っているタレントが後を絶たないこと。
告別式を伝えるテレビ番組では、テレビマンによって選抜された清志郎の「友人」たちが涙ながらに別れを告げる映像がリピートされていたこと。
これらを覗き見るにつけ、この一週間の作業をやっておいて良かったと思った。少なくともここには私の彼に対するリアリティがある。忌野清志郎を世界中に自慢する時に、「そんなものウソさ そんなものデタラメだ」こちらを見てくれということができる。それにしても「なぜ悲しい嘘ばかり テレビは言い続ける」。もちろんそう問いかけた彼は、その答えを知っている。
これでこの一連の作業の手を休める。明日からのねじを巻くことにする。「大人だろ 勇気を出せよ」という声が聴こえるので。
最後にひとつだけ。テレビに映し出された人たちも悲しんだことだろう。だが当然のことながら、そこに「彼」の姿はなかった。恐らく最も悲しみに打ちひしがれ、うろたえ、言葉を失っているであろう彼の姿は。私はこのナイーブ過ぎる男が心配でならない。
Posted by 24wacky at 02:36│Comments(0)
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