2009年05月13日
「お国は?」「沖縄ですが、何か?」に期待する
来る15日(金)に「アトミックサンシャインin沖縄」展クロージング・イベント「『お国は?』『沖縄ですが、何か?』 ーネイションとアイデンティティの対話」が県立博物館・美術館3F講堂にて開催される。これに向けて、パネリストの一人である萱野稔人氏が「『お国は?』『沖縄ですが、何か?』に寄せて」という文章を沖縄タイムス11日付文化欄に載せているが、これが興味深い。
ここで萱野氏が注意を呼びかけているのは、反復帰論として川満信一氏によって書かれた「琉球共和社会憲法C私(試)案」への近年の評価、とりわけ上野千鶴子氏の「おどろくべきポスト国民国家の思想」という礼賛についてである。
萱野氏はこの憲法草案を「沖縄の歴史的経験から生まれた稀有な反国民国家の思想」であると一定の評価をした上で、それに対して「国民国家の可能性を過剰に、そして安易に読み込むことには慎重でなくてはならない」と述べ、その理由として2つを挙げる。
同草案11条には、人種、民族、性別、国籍のいかんを問わず資格を認められると書かれているが、たとえそうだとしても、「言語の共通性の問題は必ず残る」と萱野氏はいう。
それは沖縄の現実の問題をあいまいにするわけで、それよりも米軍基地を本土でも平等負担することを考えるべきだと、萱野氏は本土の知識人の姿勢を糾す。
私は1年前のシンポジウム「マーカラワジーガ?! 来るべき自己決定権のためにー沖縄・憲法・アジア」について触れ、新川明氏の反国家=反ヤマトゥという認識に国家の独自の位相がみえていないことを批判した(沖縄アソシエーショニズム3参照)。また、国家の独自の位相については『世界共和国へ』(柄谷行人著)を引用し、若干の見解を述べた(沖縄アソシエーショニズム2)。
ここでの私の問題意識は、まさしく萱野氏の「論者たちが、その反面、国民国家を超えるとはどういうことかという問題についてあまり深くは考えていない」に相当する。また、そのことが「具体的にどのような内実をもつのか」については、「それは日本という国家を解体するよりむしろ強固にしただろうし、沖縄も反国家ならぬ不安定な独立国家として、同様に自らを敵対的に編成せざるをえなかっただろう」と、私は具体的に述べた。
萱野氏は「沖縄はなぜ、内実もよくわからないポスト国民国家として独立することを期待されなくてはならないのだろうか」というが、その期待は本土の知識人による投影のみならず、現に沖縄の人々の中にもある。その両者が批判されねばならない。
私と萱野氏の違いは、萱野氏はこれらの批判の主体を主に「本土の知識人」に向けているのに対して、私は双方向から批判している。これは自身本土に住む知識人であり、外部からコミットするだけの存在である萱野氏の倫理的な姿勢といえる。私は沖縄に足を踏み込んでいるので、萱野氏のいう姿勢を前提としながら、かつ、知識人であろうとなかろうと本土の人間と沖縄(人)の間に立ち批判(吟味)することを自らの倫理性としている。むろんこの中間に立つという意味は、中立を保つというような軽薄な意味ではない。
萱野氏の登壇によって、これまでにない交換がなされることを期待している。
ここで萱野氏が注意を呼びかけているのは、反復帰論として川満信一氏によって書かれた「琉球共和社会憲法C私(試)案」への近年の評価、とりわけ上野千鶴子氏の「おどろくべきポスト国民国家の思想」という礼賛についてである。
萱野氏はこの憲法草案を「沖縄の歴史的経験から生まれた稀有な反国民国家の思想」であると一定の評価をした上で、それに対して「国民国家の可能性を過剰に、そして安易に読み込むことには慎重でなくてはならない」と述べ、その理由として2つを挙げる。
ひとつは、川満さんの憲法草案に自らのポスト国民国家への思いを重ね合わせる論者たちが、その反面、国民国家を超えるとはどういうことかという問題についてあまり深くは考えていないからだ。
同草案11条には、人種、民族、性別、国籍のいかんを問わず資格を認められると書かれているが、たとえそうだとしても、「言語の共通性の問題は必ず残る」と萱野氏はいう。
もうひとつの理由は、日本本土の知識人が国民国家を超えるという理想を(それが具体的にどのような内実をもつのかを示すことなく)沖縄に投影することの危うさにある。沖縄はなぜ、内実もよくわからないポスト国民国家として独立することを期待されなくてはならないのだろうか。
それは沖縄の現実の問題をあいまいにするわけで、それよりも米軍基地を本土でも平等負担することを考えるべきだと、萱野氏は本土の知識人の姿勢を糾す。
私は1年前のシンポジウム「マーカラワジーガ?! 来るべき自己決定権のためにー沖縄・憲法・アジア」について触れ、新川明氏の反国家=反ヤマトゥという認識に国家の独自の位相がみえていないことを批判した(沖縄アソシエーショニズム3参照)。また、国家の独自の位相については『世界共和国へ』(柄谷行人著)を引用し、若干の見解を述べた(沖縄アソシエーショニズム2)。
ここでの私の問題意識は、まさしく萱野氏の「論者たちが、その反面、国民国家を超えるとはどういうことかという問題についてあまり深くは考えていない」に相当する。また、そのことが「具体的にどのような内実をもつのか」については、「それは日本という国家を解体するよりむしろ強固にしただろうし、沖縄も反国家ならぬ不安定な独立国家として、同様に自らを敵対的に編成せざるをえなかっただろう」と、私は具体的に述べた。
萱野氏は「沖縄はなぜ、内実もよくわからないポスト国民国家として独立することを期待されなくてはならないのだろうか」というが、その期待は本土の知識人による投影のみならず、現に沖縄の人々の中にもある。その両者が批判されねばならない。
私と萱野氏の違いは、萱野氏はこれらの批判の主体を主に「本土の知識人」に向けているのに対して、私は双方向から批判している。これは自身本土に住む知識人であり、外部からコミットするだけの存在である萱野氏の倫理的な姿勢といえる。私は沖縄に足を踏み込んでいるので、萱野氏のいう姿勢を前提としながら、かつ、知識人であろうとなかろうと本土の人間と沖縄(人)の間に立ち批判(吟味)することを自らの倫理性としている。むろんこの中間に立つという意味は、中立を保つというような軽薄な意味ではない。
萱野氏の登壇によって、これまでにない交換がなされることを期待している。
「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄 日本国平和憲法第9条下における戦後美術」関連イベント クロージング・シンポジウム
「『お国は?』『沖縄ですが、何か?』 ネイションとアイデンティティの対話」
コーディネーター:前嵩西一馬 パネリスト:萱野稔人、知念ウシ、渡辺真也
日時:5月15日(金) 開場18:30 開演19:00
会場:県立博物館・美術館 3F講堂
定員:当日先着200名
*「アトミックサンシャインの中へin沖縄」展覧会チケット(または半券)が必要です。
問い合わせ:文化の杜共同企業体 tel:098-941-8200 (担当:謝花・國吉)
Posted by 24wacky at 01:10│Comments(0)
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