2006年05月28日
『暴力の哲学』
9・11以降、日本では新しい平和運動のスタイルが生まれた。それは主にインターネットを介して、様々な団体はもとより、組織、階層による束縛のない個人同士の間においても、自然発生的に瞬時に沸き起こったフレキシブルなアクションであった。それまで特定の利害に対するリアクションとしての特定の団体の抗議行動がその主流であったものが、それらに属さないような個人が、「平和」という普遍的なテーマの下に「発見」されていったのが特徴だ。その勢いの中でデモ行進は「ピースウォーク」と呼ばれ、権力への敵対意識丸出しの従来のスタイルは忌避された。ここで掲げられた「テロにも戦争にも反対」という「圧倒的に正しいスローガン」に対して、著者は割り切れない思いが拭えない。そういった極めてアクチュアルな問題意識から本書は書かれている。
暴力を哲学するとは、暴力を批判すること。この「批判」とは、暴力を拒絶することではなく、「(暴力の廃絶という理念に立脚しながらも)暴力そのもののなかに線を引く」ということだ。つまり暴力という言葉の使われ方に対して疑義を質し、吟味した上で、先の理念に近づこうという真摯な意志によって貫かれている。
その中で重要なキーワードが「非暴力直接行動」。キング牧師やガンディーによるそれは、日本の「ピースウォーク」のように警察権力とも仲良くする「ピースフル」なものとは相容れないものだと著者は指摘する。座り込みやデモ行進などの「非暴力直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張をつくりだそうとするものです」(キング)。つまり交渉の場に持っていくための巧みな戦術として必要なのだ。
キングの「危機感と緊張をつくりだす」という挑発的な言葉を、著者は「敵対性」という概念を挿入し、さらに吟味を加える。現在の日本の風潮では、「なにかあるシステムに対して『波風を立てる』こと自体が、ほとんど犯罪のように、しばしば『テロ』とみなされる傾向」がある。徹底して敵対性が回避された「市民社会」!政治への無関心!
一方で「戦争中毒」国家によるグローバルな再編に合わせた形で、この国の暴力は各種最悪法案の提出等が露出過多の状況にある。一方で「暴力はいけません」という「正し過ぎる」スローガンが叫ばれる。だがその漠然とした「正しい」モラルがかえって暴力に対する無感覚を肥大化する恐れがあるのではないか、と著者は危惧する。「敵対性と暴力を分けなければ、結局、暴力に直面しても聖人のようにふるまえ、という単なるモラル論、あるいは宗教論に帰着してしまうおそれがある。非暴力直接行動とは、より大衆の力を強化するために、要するに、よりラディカルにやりたいために暴力を控えることなのです。」
以上のことは、私が生活する「基地の島」沖縄での状況と照らし合わせると興味深い符号が見て取れる。労組、各種団体による抵抗の声。総決起集会、捻りハチマキ、たて看板、横断幕、シュプレヒコール、突き上げられた拳・・・。これら従来型の抵抗運動に対して、そこへ入ってはいけないが基地反対への思いを表現したい個人の声を掬い取る新しい運動の形も生まれつつある。一方で、一坪反戦地主・阿波根昌鴻の「伊江島の闘い」、現在の辺野古への普天間基地移設への反対運動に見られる、敵対する相手を招き、お茶を出すところから始める非暴力直接行動の継承がある(酒井氏はキングの説を柔術に例えているが、伊江島も辺野古もまさに柔術的ではないか!)。それらの敵対性を敵対性として認め、今後の運動の理論と実践を鍛える実用書として、本書の出現は大きい。
Posted by 24wacky at 19:11│Comments(6)
│今日は一日本を読んで暮らした
この記事へのコメント
自分も読みました。スラム街のアンダークラス達の暴力が露呈した日常に驚いた記憶があります。同著者『自由論』よりは読み易い印象でした。
Posted by 攝津正 at 2006年05月28日 21:10
そうでしたね。
MLで摂津さんが書いているのを読んで、それも頭にありましたよ。
アナーキストの向井孝「暴力論ノート」も読んでみたくなりました。
MLで摂津さんが書いているのを読んで、それも頭にありましたよ。
アナーキストの向井孝「暴力論ノート」も読んでみたくなりました。
Posted by 24wacky3 at 2006年05月28日 21:34
以文社からvol.という新雑誌が創刊になり酒井さんなどが中心のようです。
まだ未見なのですが、どうも創刊号はぱっとしないと知人から教えてもらいました。『国家とはなにか』で感心した萱野稔人も参加しているらしいから、注目しています。
まだ未見なのですが、どうも創刊号はぱっとしないと知人から教えてもらいました。『国家とはなにか』で感心した萱野稔人も参加しているらしいから、注目しています。
Posted by ゴロー at 2006年05月28日 23:14
検索してみました。
↓
http://urag.exblog.jp/3625530/
おお、ブックデザインがかっこいい。
いかにも「青山ブックセンター」とか「ジュンク堂」あたりでお洒落に置いてそう、
と思ったら、やっぱりイベントやりますね(笑)。
↓
http://www.aoyamabc.co.jp/events.html#ao20060604_1
いずれにしても「批評空間」をまともに読めなかった私としては、またもやハードルが高そう。
「あっと」あたりがちょうどいいようです。
↓
http://urag.exblog.jp/3625530/
おお、ブックデザインがかっこいい。
いかにも「青山ブックセンター」とか「ジュンク堂」あたりでお洒落に置いてそう、
と思ったら、やっぱりイベントやりますね(笑)。
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http://www.aoyamabc.co.jp/events.html#ao20060604_1
いずれにしても「批評空間」をまともに読めなかった私としては、またもやハードルが高そう。
「あっと」あたりがちょうどいいようです。
Posted by 24wacky3 at 2006年05月29日 09:18
なるほど。
キレイゴトで「戦争反対、暴力反対」と言ってるだけでは停滞してる、
そういうことでしょうか?
タテマエだけ、口先だけのキレイゴトはなんにもならない…
キレイゴトで「戦争反対、暴力反対」と言ってるだけでは停滞してる、
そういうことでしょうか?
タテマエだけ、口先だけのキレイゴトはなんにもならない…
Posted by 亜衣 at 2006年06月06日 02:03
「暴力」という言葉の使われ方に疑いを持ち、ふるいにかけているのでしょう。
そこでまぎわらしいのでいったん「暴力」といわずに「敵対性」という言葉を使ってみる。
するとよく見えてくる。
ちょっとでも波風を立てるような言動をすると、それに対して攻撃的、排除的なのが現在の「一般人」の風潮として見られる。
敵対すること、波風を立てることを極端に恐れているように見えます。
その内面の恐れ、不安が外部への攻撃となる危険もある。
そういう矛盾があるのでは。
で、そうではなく、敵対性というのは戦術としてありえる。
具体的な例を出すと、座り込みをやっていて、相手側が強行突破しようとしてくる。それに対して(あくまで暴力は使わずにという共通認識のもと)ピケット、囲い込みなど可能な限り抵抗を続ける。
その現場、その瞬間は極めて敵対的である。
と同時に非暴力直接行動である。
それら全てが「暴力」という言葉で語られることへの違和感は持つべきかもしれませんね。
そこでまぎわらしいのでいったん「暴力」といわずに「敵対性」という言葉を使ってみる。
するとよく見えてくる。
ちょっとでも波風を立てるような言動をすると、それに対して攻撃的、排除的なのが現在の「一般人」の風潮として見られる。
敵対すること、波風を立てることを極端に恐れているように見えます。
その内面の恐れ、不安が外部への攻撃となる危険もある。
そういう矛盾があるのでは。
で、そうではなく、敵対性というのは戦術としてありえる。
具体的な例を出すと、座り込みをやっていて、相手側が強行突破しようとしてくる。それに対して(あくまで暴力は使わずにという共通認識のもと)ピケット、囲い込みなど可能な限り抵抗を続ける。
その現場、その瞬間は極めて敵対的である。
と同時に非暴力直接行動である。
それら全てが「暴力」という言葉で語られることへの違和感は持つべきかもしれませんね。
Posted by 24wacky3 at 2006年06月06日 10:42
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