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2016年12月31日

佐々木中『戦争と一人の作家 坂口安吾論』

佐々木中『戦争と一人の作家 坂口安吾論』

 坂口安吾といえば、「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きてゐるから堕ちるだけだ。」というエッセイ『堕落論』が著名であるように、戦争体験を独特なデカダンスで表現した「無頼派」の作家として有名である。『白痴』『桜の森の満開の下』などが評価が高く、その他にも歴史小説、推理小説など多彩なジャンルを書き分けた一方で、エッセイに比べ小説全般に対しては低い評価がされる傾向もある。

 安吾に対する著者の評価の基準はファルスである。ファルス(道化)とは、初期の安吾が自らの文学を規定するために用いたジャンルとしてある。それは「乱痴気騒ぎに終始するところの文学」であり、「人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しやうとするもの」であり、作中の人物はおろか「決して誰にも(無論自分自身にも━━)同情なんかしやうとしない」(『FARCEに就て』1932年)。最後の「突き放す」というのが重要な語であると著者は注意を促す。

 ところが、である。安吾作品では、誰が誰を突き放しているのか曖昧なのだ。そのことを、著者は安吾初期のファルス作品から順を追って確認していく。安吾よ、あなたは自身をも突き放すと言っておきながら、確かに登場人物たちは突き放されているかもしれないが、誰がそうしたのかを明らかにしていないではないか、と逐一ダメだしをしていく。

 そしてついに最終章「十二 ファルスの帰結」では、安吾は安吾自身を突き放していないことが暴かれる。『堕落論』では、空襲のさなかに「たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考へることがない限り、人は常に気楽であり、たゞ惚れ惚れと見とれてゐれば良かったのだ」と言いのけられる。この思考停止状態こそ、いかにも安吾的な放言なのであるが、この傍観者ぶりに著者は切り込む。

 一言で言おう。だから安吾が戦争を描いてもファルスには成り得ないのだ。確かに「凡有ゆる物への冷酷な無関心に由って、結局凡有ゆる物を肯定する」ということがファルスの原理のひとつだった。しかし空襲のさなかに逃げ惑いながらも、傍観者であり野次馬であるという「態度」を保持している以上、「ヤッツケ放題」にだけはされない「優越」を得ていることになる。「冷酷に」「突き放されて」いる「見物人」「野次馬」など居ようがない。だから戦争と空襲に「気楽な見世物」を見る安吾だけは、いうなれば「笑われない」のだ。「白痴」から「続戦争と一人の女」まで、空襲下を蠢く人々が明らかに侮蔑を含んだ笑いの対象となっていたにもかかわらず、いかな一人の馬鹿を自称しようとも、その「馬鹿になる」手続きそのものが、その「美学的無関心」を、「優越」を保証するのだから。そしてファルスにおいていつも安吾は誰が誰を突き放しているのか曖昧であり、ゆえにそれがその失敗の原因ではないかと述べてきたが、米軍こそが戦争において安吾を「突き放し」「ヤッツケ放題」にしているということを遂に彼は語らない。
(199ページ)


 戦争という事態に対し、「関心=利害」を括弧に入れ「美学的関心」から傍観することは優越的行為であり、そのポジションを崩さない以上、彼が「突き放される」ことはありえない。つまり、それはファルスではない、と。ただし、ここで著者は安吾を「倫理的」に非難しているわけではない。安吾が創作初期に見出した文学的価値を、彼自ら裏切り続けていることを指摘しているだけなのだから。

 では著者は安吾を文学的に切り捨てるために本書を書いたのか?そうではない。最後にこう述べている。すなわち、戦争を描いてファルスは成り立つのかという問いをたてたことが、安吾の価値である、と。言い方を換えればこうなる。戦争を描くためにファルスという文学ジャンルは可能性を秘めている、と。傍観者という優越的ポジションに立つのではなく、(そしておそらく「当事者」を自明のものとして済ませるのでもなく)作者自身をも「突き放」された戦争文学という可能性を探すのは「われわれ」だということを、ヘタレ安吾は隠さない。
 
『戦争と一人の作家 坂口安吾論』
著者:佐々木中
発行所:河出書房新社
発行:2016年2月18日



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