2008年05月26日
カフェスロー第一幕終了
カフェスローが移転のため7年間の現店舗での営業を昨日終えた。移転の話を耳にした時には愕然としたが、それからあっというまにその日を迎えてしまった。
ナマケモノ倶楽部MLで代表の吉岡さんが「予期せず最後の挨拶で胸を詰まらせ、涙をもらしてしまいました」と書いているのを読み、こちらももらい泣きしてしまった。と同時に個人的な思い出の数々がふいにフラッシュバックして甦った。
2001年春、参加して間もないNAMという社会運動組織の中で、国分寺にあるユニークなカフェの噂が出ていた。当時隣の国立市に住んでいた私は興味を覚え、ある日仕事帰りに自転車でそのオープンして間もない店を訪ねた。
広々と感じさせる店内のデザイン、噂のストローベイル、初めて耳にしたフェアトレードという言葉、コーヒーのやさしい味。二つとない個性的な魅力を感じた。
当時NAM環境系の連絡責任者をしていた私は、企画していた読書会をここでやりたいと思った。環境というテーマで共通するのだから、NAM以外の繋がりができるのではないかと期待して。
NAMの中でカフェスローを利用したのは環境系に限らなかった。その中でもやはり地域通貨Qを介しての繋がりが大きかった。事業者として最初に参加してくれたのがカフェスローだった。支払いの一部に地域通貨が実際使えるというのはとてつもなく画期的だった。
NAMのメンバー数人がナマケモノ倶楽部に入るというので、私も負けじと入会した。NAM=マッチョ、ナマケモノ倶楽部=若い女の子ワンサカという好対照な両団体だが、地域通貨を介してとにかく繋がった。私自身はこの両極に属することで、自分の中のバランスをとっていたところがある。
その後も家が近い私は、NAMの活動に限らず、この居心地の良い空間に足繁く通った。毎週火曜日の夜にやっていたキャンドルナイト。当時のブッシュ政権の原子力政策に対抗して、電気を使わずろうそくの灯りで暗闇を楽しもうという企画。それに盲目のバイオリニストの生演奏がつく。
やり始めた当時は認知度もなく、とにかくお客さんが来なかった。吉岡さんからサクラを頼まれたことも一度ではない。演奏終了後、吉岡さんがバイオリニストに申し訳無さそうに謝礼を渡す場面を、この文章を書きながら思い出してしまった。
しかし継続は力なりとはよくいうもので、口コミが着実に広がり徐々に暗闇を埋める人たちが増えていった。そのプロセスをずーっと見てきた私は多くのことを学ばせてもらった。この企画はその後カフェスローから広がり、環境省をも巻き込んだ大きなムーブメントになるのは皆さんご存知の通り。でも私にとってカフェスローのあの親密な暗闇のひと時こそがキャンドルナイトだ。
東京脱出を試みた私は、アパートを引き払い約2ヶ月間の旅に出た。東京から西へ、南は宮古島まで、居場所を求めるあてのない旅。旅自体はそれまでの経験に無いほどとても楽しいものだったが、結局居場所は見つからなかった。それからどうしようか計画性の無い私は思案した。その時「カフェスローの屋根裏でよければしばらく居ていいよ」と吉岡さんはいってくれた。
屋根裏にはその年の秋から冬にかけて約半年間いさせてもらった。冬は寒いなんていうものではない。死ぬかと思った・・・
その半年の間に、カフェスローがさらによく見えてきた。経営者としての吉岡さんの苦悩、ユリカのカフェスローへの愛情、コーヒーの開発を深夜まで続けるキヨちゃんの情熱。その他にも言い尽くせないたくさんの人の思いが、その場所に集まり、交差し、仲違いし、仲直りしていた。閉店後、誰も居なくなった店内には、それらの「気」がまだ残っているような、濃密な暗闇があった。
どういう理由だか分からないが、吉岡さんは私を気に入ってくれていたようで、店長をしないかと言っていただいたこともある。代表と店長を兼ねるハードさ、若い世代とのコミュニケーションの難しさなど、困難ばかりだったろう。
2003年春、私はカフェスローを離れ、そして沖縄へ来た。カフェスローはその後も順調に続き、そして突然の移転話。
スタッフの皆さんに対しては心から慰労の言葉を捧げたい。
新生カフェスローは6月中旬から新たなスタートをきる。どうにか機会を作り、その心地よい空間に行ってみたいものだ。
ナマケモノ倶楽部MLで代表の吉岡さんが「予期せず最後の挨拶で胸を詰まらせ、涙をもらしてしまいました」と書いているのを読み、こちらももらい泣きしてしまった。と同時に個人的な思い出の数々がふいにフラッシュバックして甦った。
2001年春、参加して間もないNAMという社会運動組織の中で、国分寺にあるユニークなカフェの噂が出ていた。当時隣の国立市に住んでいた私は興味を覚え、ある日仕事帰りに自転車でそのオープンして間もない店を訪ねた。
広々と感じさせる店内のデザイン、噂のストローベイル、初めて耳にしたフェアトレードという言葉、コーヒーのやさしい味。二つとない個性的な魅力を感じた。
当時NAM環境系の連絡責任者をしていた私は、企画していた読書会をここでやりたいと思った。環境というテーマで共通するのだから、NAM以外の繋がりができるのではないかと期待して。
NAMの中でカフェスローを利用したのは環境系に限らなかった。その中でもやはり地域通貨Qを介しての繋がりが大きかった。事業者として最初に参加してくれたのがカフェスローだった。支払いの一部に地域通貨が実際使えるというのはとてつもなく画期的だった。
NAMのメンバー数人がナマケモノ倶楽部に入るというので、私も負けじと入会した。NAM=マッチョ、ナマケモノ倶楽部=若い女の子ワンサカという好対照な両団体だが、地域通貨を介してとにかく繋がった。私自身はこの両極に属することで、自分の中のバランスをとっていたところがある。
その後も家が近い私は、NAMの活動に限らず、この居心地の良い空間に足繁く通った。毎週火曜日の夜にやっていたキャンドルナイト。当時のブッシュ政権の原子力政策に対抗して、電気を使わずろうそくの灯りで暗闇を楽しもうという企画。それに盲目のバイオリニストの生演奏がつく。
やり始めた当時は認知度もなく、とにかくお客さんが来なかった。吉岡さんからサクラを頼まれたことも一度ではない。演奏終了後、吉岡さんがバイオリニストに申し訳無さそうに謝礼を渡す場面を、この文章を書きながら思い出してしまった。
しかし継続は力なりとはよくいうもので、口コミが着実に広がり徐々に暗闇を埋める人たちが増えていった。そのプロセスをずーっと見てきた私は多くのことを学ばせてもらった。この企画はその後カフェスローから広がり、環境省をも巻き込んだ大きなムーブメントになるのは皆さんご存知の通り。でも私にとってカフェスローのあの親密な暗闇のひと時こそがキャンドルナイトだ。
東京脱出を試みた私は、アパートを引き払い約2ヶ月間の旅に出た。東京から西へ、南は宮古島まで、居場所を求めるあてのない旅。旅自体はそれまでの経験に無いほどとても楽しいものだったが、結局居場所は見つからなかった。それからどうしようか計画性の無い私は思案した。その時「カフェスローの屋根裏でよければしばらく居ていいよ」と吉岡さんはいってくれた。
屋根裏にはその年の秋から冬にかけて約半年間いさせてもらった。冬は寒いなんていうものではない。死ぬかと思った・・・
その半年の間に、カフェスローがさらによく見えてきた。経営者としての吉岡さんの苦悩、ユリカのカフェスローへの愛情、コーヒーの開発を深夜まで続けるキヨちゃんの情熱。その他にも言い尽くせないたくさんの人の思いが、その場所に集まり、交差し、仲違いし、仲直りしていた。閉店後、誰も居なくなった店内には、それらの「気」がまだ残っているような、濃密な暗闇があった。
どういう理由だか分からないが、吉岡さんは私を気に入ってくれていたようで、店長をしないかと言っていただいたこともある。代表と店長を兼ねるハードさ、若い世代とのコミュニケーションの難しさなど、困難ばかりだったろう。
2003年春、私はカフェスローを離れ、そして沖縄へ来た。カフェスローはその後も順調に続き、そして突然の移転話。
スタッフの皆さんに対しては心から慰労の言葉を捧げたい。
新生カフェスローは6月中旬から新たなスタートをきる。どうにか機会を作り、その心地よい空間に行ってみたいものだ。
Posted by 24wacky at 21:31│Comments(3)
│イロイロ
この記事へのコメント
カフェスロー…懐かしい。あの空間が移転してしまうのですね。僕はナマケモノ倶楽部のMLを抜けているので、事情は分かりませんが、移転後も経営がうまくいけばいいですね。
Posted by 攝津正 at 2008年05月27日 21:02
せっちゃんはよく酔っ払ってハイになっていたよね。
それから屋根裏に住んでいる時、せっちゃんと菅原さんと3人で飯を食べたことがあったな~、今思い出したけど。
菅原さんに奢ってもらったんだよな~
それから屋根裏に住んでいる時、せっちゃんと菅原さんと3人で飯を食べたことがあったな~、今思い出したけど。
菅原さんに奢ってもらったんだよな~
Posted by 24wacky
at 2008年05月27日 21:26

僕は今では酒は完全にヤメました。その代わり買い物依存ですが(笑)。酒を飲まなくてもハイですよ。
Posted by 攝津正 at 2008年05月28日 06:03
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