2008年12月24日
搾取=開発 exploit
「『世界共和国へ』に関するノート」のためのメモ その7
地球環境は、大気循環、水循環を通し、エントロピーを廃熱として宇宙の外へ捨てることによって成り立っている。この循環型システムの圏内において、人間の生活は維持される。環境破壊とはこのシステムが壊されることをいう。自然を開発=搾取するといいかえてもよい。
ところで柄谷は、互酬的な交換様式が支配的であるところでは、自然を搾取することはないという。狩猟や採集はするが、対象を滅ぼすほど根こそぎ奪い尽くすことはしない。そうではなく、《略取―再分配という交換様式――それが国家の初期形態を作るーーにおいて、自然の搾取が生じる。つまり、人間が他の人間を搾取する形態において、初めて、自然の搾取が生じるのである》。このことはいいかえれば、環境破壊が起こるのは、人間と自然の関係による以前に、人間と人間の関係にまず起因する、と捉えるべきであるということだ。
通常我々は、物質的豊かさを追い求めた人類――とりわけエネルギー源を石炭から石油に切り替えた20世紀後半のーーが自然環境を破壊すると認識している。そしてその主体であるところの、国であったり企業であったり個人のライフスタイルであったりの抜本的なシフト・チェンジが求められている。その主体がいずれであれ、人類(人間全般)が自然を開発=搾取している、つまり人間と自然の関係という認識に変わりがない。

これに対し、人間と人間の関係とはどう違うのか?
つまり、略取―再分配という、共同体と共同体の交換様式により国家が形成され、それが人間(労働者)の搾取になる。また、自然の搾取にも結果する。要するに、人間と人間の交換様式がまず始めにあるというわけだ。

ついでにいえば、これは交換様式Bのみについての図解であり、実際には各共同体内には贈与とお返し(交換様式A)がなされるし、共同体と共同体の間には商品交換(交換様式C)が発展していく。むろんその結果の資本主義が自然をより開発=搾取するのはいうまでもない。
ここで強調したいのは、環境破壊を人類の責任に帰す「文明批判」をするのみで、その実実効的な解決法の有無があいまいになるという今日において、交換様式という捉え方は認識をクリアにでき、例えば、収拾がつかない「環境か開発か?」の議論を続かせるより有効ではないかということ。そしてそれは沖縄での「基地か経済か」の議論に対しても応用可能かもしれない。《「自然の搾取」を、資本主義と国家と無縁に見ることはできないのだ》。
地球環境は、大気循環、水循環を通し、エントロピーを廃熱として宇宙の外へ捨てることによって成り立っている。この循環型システムの圏内において、人間の生活は維持される。環境破壊とはこのシステムが壊されることをいう。自然を開発=搾取するといいかえてもよい。
ところで柄谷は、互酬的な交換様式が支配的であるところでは、自然を搾取することはないという。狩猟や採集はするが、対象を滅ぼすほど根こそぎ奪い尽くすことはしない。そうではなく、《略取―再分配という交換様式――それが国家の初期形態を作るーーにおいて、自然の搾取が生じる。つまり、人間が他の人間を搾取する形態において、初めて、自然の搾取が生じるのである》。このことはいいかえれば、環境破壊が起こるのは、人間と自然の関係による以前に、人間と人間の関係にまず起因する、と捉えるべきであるということだ。
通常我々は、物質的豊かさを追い求めた人類――とりわけエネルギー源を石炭から石油に切り替えた20世紀後半のーーが自然環境を破壊すると認識している。そしてその主体であるところの、国であったり企業であったり個人のライフスタイルであったりの抜本的なシフト・チェンジが求められている。その主体がいずれであれ、人類(人間全般)が自然を開発=搾取している、つまり人間と自然の関係という認識に変わりがない。
これに対し、人間と人間の関係とはどう違うのか?
一般に、農業生産力があがって国家が形成されたと考えられている。しかし、事実は、その逆である。生産力があがるのは、一つの共同体による他の共同体の支配によって、灌漑その他の技術開発と労働の強制がなされるときである。
つまり、略取―再分配という、共同体と共同体の交換様式により国家が形成され、それが人間(労働者)の搾取になる。また、自然の搾取にも結果する。要するに、人間と人間の交換様式がまず始めにあるというわけだ。

ついでにいえば、これは交換様式Bのみについての図解であり、実際には各共同体内には贈与とお返し(交換様式A)がなされるし、共同体と共同体の間には商品交換(交換様式C)が発展していく。むろんその結果の資本主義が自然をより開発=搾取するのはいうまでもない。
ここで強調したいのは、環境破壊を人類の責任に帰す「文明批判」をするのみで、その実実効的な解決法の有無があいまいになるという今日において、交換様式という捉え方は認識をクリアにでき、例えば、収拾がつかない「環境か開発か?」の議論を続かせるより有効ではないかということ。そしてそれは沖縄での「基地か経済か」の議論に対しても応用可能かもしれない。《「自然の搾取」を、資本主義と国家と無縁に見ることはできないのだ》。
Posted by 24wacky at 00:42│Comments(2)
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この記事へのコメント
ご無沙汰してます。
レポートの復活うれしいです。
私には難しいけど、勝手に納得しては喜んでいます(^^;)。
S議員も相変わらず難しいレポートを送って下さっています。
すごいですね。
でも文字化けで読めませんのでほっとしています(^^)。
どうぞ、たまにはお越しください。
レポートの復活うれしいです。
私には難しいけど、勝手に納得しては喜んでいます(^^;)。
S議員も相変わらず難しいレポートを送って下さっています。
すごいですね。
でも文字化けで読めませんのでほっとしています(^^)。
どうぞ、たまにはお越しください。
Posted by 喜実子 at 2008年12月24日 15:13
レポート復活がうれしいという稀有な反響ありがとうございます。いつまで続くか分かりませんが、適当にお付き合い下さい。
S議員渾身のレポートの読み難さは大分前にアドヴァイスしたのですが、改善されないのが残念です。
それはそれとして、今日のタイムス夕刊の「チェンジ村議会」は素晴らしいですね。
S議員渾身のレポートの読み難さは大分前にアドヴァイスしたのですが、改善されないのが残念です。
それはそれとして、今日のタイムス夕刊の「チェンジ村議会」は素晴らしいですね。
Posted by 24wacky at 2008年12月24日 20:16